翌朝、目覚めた洛熙の視界に入ったのは自身の寝顔を眺めては髪を撫でる始皇帝の姿であった。
彼女は薄ぼんやりと目を開ける中で目に入ったその姿に驚いてしまうのは、帳の中において始皇帝の胸に抱かれていたからであったからだ。
「へいっ───!」
「起きたか、しかし洛熙よ、よい寝顔であったな、昨夜はよく眠れたようだ」
「えっと、はい、あの、陛下……その今朝は目布を外されておいでで」
「うむ、昨夜そなたに巴蜀の星空のようだと言葉を得たのでな」
洛熙は夢だと思っていた。
昨夜の恐ろしかった出来事の中で彼に抱かれて眠りについた、その時に見た瞳は星を抱いているように感じられるほど美しいと思い、夢であれと祈りながらその身を忘れて告げたのだが、どうやら事実起きてしまったことのようであり。
そうすれば次に思い浮かぶのは一つの言葉だった。
「へっ───」
「これからこの寝所において、朕を呼ぶ時は"嬴政"と呼べ。政でもよい、二人の際には陛下は不要だ」
「しかしへいっ「嬴政」……え、嬴政様」
「なんだ?」
それはもうとてもお美しく微笑むのだと洛熙は感じた。
幼少の頃より彼はとても美しい顔立ちをされていたといわれ、それが舞姫であった母──趙姫の血を継ぐからだともいわれていた。
歳を感じさせぬ美しい顔立ちに星を宿したような不思議な夜空のような瞳、目布の下に隠れたその瞳を想像したことはあるが、そのまつ毛の長さや整った目鼻立ちに洛熙はぼうっと見惚れてしまう。
「朕の顔が珍しいか」
「はい、私のような者がご拝見出来るなど」
「そなた以外に素顔を見せたことはないぞ」
キョトンとした顔をして告げる始皇帝に洛熙はまたまたと笑った。
宮女たちの前ではもちろんかもしれないが、夜を共にする妃嬪たちの前でさえと内心笑うが見透かされたように「目布を外すのも触れられるのも好まぬのだ」と告げる。
昨晩の頃より洛熙は自分を勘違いさせるような言葉を告げられていると感じ、それはそれは大層困り果てていた。どうしてここまで自分をと勘違いしてしまいそうになり顔を伏せると自分の装束が見慣れぬものとなっていた事に目を丸くする。
「こっこれは!」
「うむ、昨夜女官に着替えさせておいた、朕の侍書として相応しい格好であろう」
「このようなものを頂くなど私には……」
「洛熙、そなたは勘違いしておる。自身を宮女の一人と思っているようであるが、何度も告げるがそなたは朕の侍書女官である。そして声も、体も、血肉の一つまでもが朕のものであるのだ」
他には見たことの無いその装束は洛熙のような身分が安易に身にまとってよいものではない。真っ直ぐな喉仏を撫でられ、耳朶を指の背で撫でられると洛熙は思わず目を閉じてしまう。
女のような反応を示すことに始皇帝はくすっと笑ってしまいたくなるが、彼女は薄く目を開いて「承知致しました」と返事をしつつも、やはり目を瞑ってしまうことに彼は何に対する反応かと思いつつ自身を見つめると、寝起きに乱れた装束から見えた玉体が晒されているのが分かった。
「洛熙、目を開けよ」
「いっ今は少し」
「何故だ?開けぬか、朕の命であるぞ」
その声は完全にからかいを含めた声色であり、始皇帝はこの娘が自身の肉体に恥じらいを持っているのだと気付いては面白おかしくてたまらなかった。幾度も朝の身支度をさせていたはずだというのに今更その反応かと思うが、彼女が面と向かって手伝っていなかったことを思い出す。
「洛熙よ、そなたもしや朕の肉体に恥じらいを持っているのか」
素直にそう問いかけてやると肩が大きく揺れる。
武術に長けた始皇帝の肉体はそこいらの兵よりも洗練された美しさを持ち、時に夜を共にする女に触れられることを思い出しては彼女もまた"女"であるのだと思えておかしかった。
「はっはっはっはっ!好ッ……目を開けぬのならどうするものか、このまま一日寝所で過ごすか?」
「それはなりません、しかしその、前を閉じてくだされますと洛熙は大変嬉しゅうございます」
「ほぉ、皇帝に命令を」
「そんなつもりはありません!お願いします陛下、私には刺激が強いのです」
陛下──またその言葉かと始皇帝は口笛を吹いて聞こえぬフリをした。
洛熙は完璧にからかわれていると理解して、どうすればよいのか分からずに必死に声をかけていたものの彼は反応を示さない。
「お願いいたします嬴政様」
「好、それで良い」
丁度その頃、寝所の襖の奥から女官の声が聞こえ、朝の身支度を急かす声がすると仕方なしに装束を整えて始皇帝は起き上がり、目布をつけ直した。
洛熙は寝台の上で横たわっていたが薄らと目を開くが、顔を赤く染め上げてその瞳は昨夜とは違う潤みを帯びていた。どうやらからかい過ぎたらしいと思い始皇帝は思わず我が子を撫でるように彼女の頭を撫でてやり「そなたも用意を」と告げて先に出てしまう。
「陛下、お戯れはいけませんよ、あの生娘には刺激がお強いのです」
「そうか?少しの戯れであったのだが」
「洛熙様へお付けしております宮女達がはしゃいでおりました」
「ほう、仲の良いものもおるのか」
「同じ時期に入っておりました宮女の娘達とは姉妹のようであります」
「それは良いことだ」
身支度を整えていた際に長く彼に仕えている女官がそう告げるのを聞いた。
密偵の一人である女官は女心も俄然理解しているため、今朝の洛熙が早速身支度のためにやってきた宮女達の前で赤く染ったままであることをからかわれていた事を聞いて機嫌よく笑う、
「初々しい反応をするものでな」
「初物がお好きで?」
「そうでもない、あやつが好ましいだけだ」
そこには策略も陰謀もない、ただ無垢なる人の心としての意味であるのだと理解する女官は「誠によろしいことで」と告げて帯を締めた。
巡幸はしばらく控え、戦以外では洛熙を傍に置くことを宣言し、昨夜の件があったことから宮廷内の空気は明らかにざわついていた。無理もないことだと理解しつつしばし考えたあと女官に「巡幸を止めたのだ、街へ往く」と告げると手が止まり、すぐになにも言わずに簡易的な衣類を持ち出し着付けていく。
「洛熙を連れ往く、あやつにも用意させてくれ」
そうして気紛れに言い始めた始皇帝の言葉に側近の女官は直ぐに近くの宮女に洛熙を着替えさせて、傍に待機させるように告げた、騒ぎ立てる宦官たちについても隠れて出てしまえばいつも通り胃に穴の空いたような顔をするだけで済むだろうと判断しては途端に気が軽くなった。
「ほっ、本当によろしいのでしょうか」
「構わん、朕が命じたのだ」
「その割にはとても慎重に隠れているようですが」
ヒソヒソと話をする洛熙に始皇帝は悪戯をしようとしている子供のように二人忍び足で宮殿の隠し扉から抜け出した。
突如として街に行くと命じられた洛熙は家臣たちを連れた轟々しいものだと思っていたが、まさか二人で隠れて行くとは思いもよらず、始皇帝というよりも嬴政としての彼は洛熙が宮仕えする前の平民としての服装をしており、それもまた不自然過ぎないのだと思いつつ、宮殿裏の馬小屋へと行き、兵を驚かせては馬を借りて向かった。
空は雲ひとつない青空で日差しは強すぎなかった。
馬は適当な場所に繋ぎ止め、洛熙は久方振りに来た秦国の街に目を奪われる。六国を支配した故なのか、はたまたそうした文化には控えめであった巴蜀出身であるからか物珍しささえ感じてしまう。
近頃は異国からも貿易の為に態々足を運んでくるようで見慣れぬものも多く面白いのだという始皇帝の足取りはとても軽やかで慣れていた。
洛熙は平民であったがただの農民であったため、商人たちのような特有の活気さはなく、活き活きとした人々の顔がまた一段と新鮮だった。
「よぉ政、ちょっと寄っていけよ」
「あら政、久しぶりじゃない、いい物あるわよ」
おい政、やい政、おう政、はい政と人々は気さくに彼に声をかけているが皇帝だとは思ってもいないのだろう。洛熙は驚きつつも彼がこんなにも平然と街に溶け込み、さらに人に好かれているとは知りもしなかった。
元より皇帝はとても優しい方であるというのは評判で、戦においては大変恐ろしいが自分の国の民となった者については相当大切にされており、特に政治に振り回され続けた民は彼を慕う人も多かった。
そうした評判もあったが故に洛熙は宮仕えしたいと思った。国によっては王の傲慢さにより無理矢理に連れて行かれる者も多く、税を課されて苦しむ者も相当いたものだが、戦を重ね国を束ね巡幸し、国を知る彼はどうすればいいのかと考え続け、様々な制度や規律を新たに設けた。
もちろんその全てが全員に納得させられる形ではないだろうが、それでも人々の声は以前よりもよくなったと洛熙も幼い頃と比べては感じるようになった。
そう思っていた頃、ちょうど饅頭の香りがして、洛熙は思わず足を止めて見つめてしまう。食べたいという気持ちが湧いたが今は始皇帝と二人きり。彼を困らせてはならぬと思い前を向くと既にそんな彼女を見つめる彼がいた。
「食べたいのか?」
それはもう形容しがたい表情をしており、しいて言えば幼い子供を見て笑いをこらえるような顔だった。洛熙は真っ赤になって否定しようとするも彼は手を置いて彼女の髪を撫でるなり「欲しければいえばよい」といわれてしまい、彼は足を進めて饅頭を売っている屋台に近付くため財布を開こうとするが制されてしまう。
「そこの饅頭を二つ頼む」
「あいよ、なんだい兄ちゃん頬にデッケェのつけて、横の嫁さんに叩かれたのか?」
蒸し蓋を取ると途端に食欲のそそる香りがふわりと広がり、洛熙は屋台の店主がいま目の前の男を皇帝だと知らないゆえに大口を叩くが、洛熙は"嫁さん"と言われたことに対して顔を青白くさせる。
──この方を何たるお方と心得るのか!
そういえればよかった、実際に彼は右頬に分かりやすい百足の足のような刺青が彫られてあり。流石にバレるからということで目布を外した上で右頬に大きな布を貼り付けており。隣に立つ洛熙が彼の頬を張ったと言われてと中々有り得なくは無いかとしれなかった。
否定しようと「その」「あの」と小さく拳を握って声をあげようとする洛熙とは反対に差し出された肉の饅頭を手にした彼は楽しそうに笑う。
「ああ!昨晩からかい過ぎたようでな」
へいっ……と言いそうになるが慌てて押さえ込んで洛熙は何も言い返せずにそのまま手渡された饅頭を片手に歩く。
食べ歩きなどいつぶりだろうかと思いつつも始皇帝も慣れたように食べながら「好、これは美味い」と嬉しそうに告げると「よぉ政ー!」と声が聞こえて、気付けば子供たちが始皇帝を囲んでしまう。
そこいらの子供であるのだろうが、彼らは相手のことも気にせずに背中に飛び乗ったり饅頭に齧り付いたり、あろうことか始皇帝の背後に周りカンチョーといったりとしており、洛熙は彼らを危険な生き物のように感じた。
「こらお前たちやめろっ、あ!誰だわたしの饅頭を取ったやつは!」
「なんだよ政、今日は一丁前に女連れかよ」
「生意気じゃないか!」
ポカポカと頭を叩いたり足にしがみついたりとする少年たちのじゃれ付き方については洛熙もよく知っている。その年頃の子が遊んで欲しい時にする姿であり、乱暴だが男子特有のものだと弟のいる洛熙は察していた。
そして少年たちは洛熙を見るなり、始皇帝が「珍しく女連れ」だといってじゃれつきを再会するが洛熙はすっかりどうしていいのか分からずに悩んでいた所、袖を引かれると身体の小さな少女が洛熙の手の中の饅頭を指さした。
「いるの?いいよ、どうぞ」
「……謝謝」
小さな声でそういって食べるその子はどの子かの妹なのだろうか洛熙はひたすらに遊ばれている始皇帝をその少女と見ていれば、背中にいつの間にか五、六人の子を抱えた始皇帝が珍しく汗をかき息を乱しながら洛熙を指さした。
「彼女はな、すごく面白い話を聞かせてくれるから、お前たちも少し話を聞かせてもらうといい」
もう限界だという始皇帝に彼らは話はつまらないというが、残念ながら数十分の子供との格闘は、数多の戦地を駆け抜けた皇帝であれど厳しいようで、洛熙は静かに佇んでいる隣の少女をみると優しく袖を掴まれて引かれる。
街のすぐ側には自然に囲まれた小さな広場となっており、大きな木の下は日陰で心地よさそうであり、すっかり昼過ぎには良さそうな休憩場所であり、洛熙が誘われがままに腰を下ろすなり始皇帝は子供たちを無視して膝に頭を置いて寝転がった。子供たちの不満な声が聞こえるものの「ここはわたしの場所だ」という。
「洛熙、ちょうど昼時だ、何か話してくれ」
「そうですねぇ……では村の少年たちが悪鬼を追い払う物語に致しましょうか」
少年と悪鬼という言葉に直ぐに心惹かれるのは子供心だろうか。同じく聞いたことがない話だという始皇帝に洛熙は巴蜀にいた頃を思い出す。
物語を読むといつも人は様々な顔を見せるのが面白かった。
彼女の師匠の文官は「読むのが上手いからだ」といってくれるが、洛熙は特に考えもせずに自分が思うままに話をするだけだが、それが人に好まれるのは嬉しいことでもある。
「むかしむかし、あるところに小さな村がありました……」
よくある話だったが好きだった。
大人に変わって子供が悪を成敗する話は夢を抱かせてくれる。
話を聞きながら寝てしまう者もいれば、話に夢中になる者もいる、話を終える頃には子供たちは眠っていたものの膝の上に頭を置いた始皇帝の目は閉じられているが起きているのは分かるようになった。
「──めでたし、めでたし」
「……好、いい話だった、お陰で童達は寝てしまったようだ」
「みんな心地よさそうです、嬴政様はこの子達をよく知っておられのですね」
「こやつらはみんな孤児でな、今はそうした孤児を見てくれる場所にいる」
寺のようなものかと洛熙は察すると、寺ではない理由は子供はそうした神聖な場所を得意としない者も多いことや、宮殿から近い位置であれば子供達に何かあった際に見に行けるからだと告げた。
戦争孤児はとても多く、洛熙も秦国のあの宮殿に来るまでに幾人も見た。初めは施しを与えたがそれには限界があることを知った。寺へと預けてみたり、どうにかならないのかと思うもののその全てを救うことなどできない。
「嬴政様は子供を好まれますか?」
「無論だ、なにせ朕も子供がおるからな」
洛熙はチクリと胸が痛む。秦王の頃より子は当然いた。
王として世継ぎを残すことはその国においての義務である。どれだけ彼が望まないとしてもそれは国の王として必要なことであり。万が一にも出来ないということであれば仕方ないが、夜には後宮に出向き、数多の妃嬪から一人を選び時間を共にする。
「王の子と、国の子は違う、どちらも愛しておる」
「そうですね、この子達は嬴政様の愛を受けております」
そうでなければ笑うことなどないと洛熙は告げながら優しく寝ている子供の頭を撫でると、やはりその揺れた髪が春燕に似ていた。
「そなたは朕の母によく似ておる」
「……趙姫様でおられますか?」
「否、あの女では無い、趙にいた頃に母のような人がいたのだ」
ぽつりと話し始めた始皇帝はどこか幼い顔をしていた。
かつて一人だけで生きていた頃、春燕という女性が現れ、本当の母親のように自分を愛してくれた。自分が幼いゆえに趙から秦へ戻る時、自分を守って死んだ彼女は優しい王になれと告げた。
「その約束を朕は果たしたい」
声が震えていたのがわかる。
泣いてしまいそうな彼は昨夜の出来事について王として、宮という場所がどれだけ醜い場所かを理解していながらも苦しい気持ちがあったのだろうと洛熙は薄く察した。
「そなたの声や姿はあまりにも彼女によく似ている、だから朕はそなたに傍にいてほしい、侍書として」
痛みを和らげてくれる声も、ほんの少しの仕草も、全てが重なってしまうのだという彼に洛熙は静かに耳を傾けては思わず始皇帝の頭をほかの子供たちにするように優しく撫でた。
「はい、私は嬴政様の為にお読みいたします、あなた様に救われた命です、あなたが望むのなら……洛熙は何処までもお尽くし致します」
昨夜は寝れなかったのですから寝てくださいという洛熙が優しく彼の鳩尾を撫でた。それは昨晩自分にも感じられた痛みであり。彼女はそれをなにも言わずに察していたようだった。
彼女の言う通り、昨夜は宮廷内の空気が澱んで一睡も出来ていなかった。
木陰にいると優しい風が吹いて二人を撫でた、嬴政は目を開くと彼女は優しく微笑んでいた、それは彼を慈しむ優しいものであった。
「眠るまで頭を撫でてくれ」
そう言ってみると彼女は何も言わずに頭を優しく撫でた。
深く眠れるように祈るかのごとく。
優しく──優しく──愛おしむように。
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