人間以上に理解出来ないものはいないとベルゼブブは感じた。
彼自身他者と距離を置くゆえでもあるが、それでもあの白百合の騎士について、理解出来ないと思いつつ、彼は並べられたモニターの内のひとつを見た、そこには簡易的な地図と赤いマークが記されており、GPSのようなそれはその場所から早一時間動きを止めていた。
決して動くことのないそれに対してベルゼブブは苛立ちに似た何かを感じつつ、研究室を後にして外の空気を吸うかのように、夜の冥界の空を見つめて歩き出した。
どこに行くわけでもなく、ただ彼は珍しくも城の中を歩いていれば気付けば上階のテラスから冥王ハデスが静かに佇んでいるのを見ていれば視線が合い、ベルゼブブは何も言わずに彼の隣へと足を運んだ。
冥界に明るい空は存在しない。
いつだって暗くどんよりとしていて、夜になるとその薄暗さを払った漆黒の夜が来る。その空をみていたハデスはいつもと変わらぬ佇まいで城から外を中庭に向けて外を眺めており、ベルゼブブが隣に立とうとも彼は見向きもせず、ただ静かに外を見つめていた。
「彼女は今日も行ってますよ」
どこに行っているかなど言わずともハデスは理解している。
彼の右腕であるはずのかの白百合の騎士カスティナはある日を境に自身の職務が終わるや否や城を出て街へと通っていた。それがただの遊びのためではないと知っているのはベルゼブブだけではない。反対に彼は彼女を安全のためと称してそれなりに監視していた。
彼女の部下であるはずの者たちからは既にハデスに報告があがっており、彼女が<妻>のところへ通い始めてしまっていることを知らないはずがない。
彼女自身を愛しており、さらに彼女の妻に対して多少なりとも負の感情を抱くはずのハデスが何も反応を示さないことが不思議でありながら、カスティナ自身があの女の元へいくとはもっと理解できないことだった。
「ハデスさん、彼女はあの女に料理を食わせ風呂を用意し布団を整えているんですよ」
「...」
「あなたはそれでいいんですか、彼女はまた」
「ベルゼブブ、そなたは案外世話を焼くのが好きだな」
ようやく帰ってきた声は少しだけ軽いものの振り向いたハデスの表情は何も言えないものだった。怒りではない悲しみでもない、ただそれを受け入れているだけというような表情であり。それはまるで冥界に朝が訪れないことがないことが当然であるというようなものだった。
ベルゼブブは隣に並びながら帰ってきた言葉に「はぁ」と重々しくため息をこぼした。いつもこの男は長兄であるというような態度で達観して全てを受け止めるような慈悲深い態度をみせるが、ヒトの心がそれだけに留まらないことをベルゼブブは知っている。
それでも彼女があの元妻に対する仕打ちを受けてなお、あの女の側にいくことも、それを理解していながら止めないハデスも、ベルゼブブには理解出来なかった。
「男のプライドってやつですか」
思わずそう問いかけたのはベルゼブブには交友関係が少なくとも、なにも感情がないわけではない。人なりに心というものがあり、客観的にみて効率的・非効率的を抜きにしても存在する感情とやらを考えての言葉を告げたがハデスは隣のベルゼブブをみては肩を震わせて笑う。
夜の中でみるハデスはまるで月のようで、夜のような真っ暗な服装をしているベルゼブブとは対象的であり、そしてまたこの王の輝きはあの騎士とも違う眩いものであるのだ。
「プライドか...あぁかもしれないな、だが考えてもみろ愛する女に『行かせてくれ』と頼まれて止めることができるか?」
それだけだというハデスに対してベルゼブブはなにもいえなかった。
ハデスがどれだけそういってみても、彼はこのテラスで祈るように彼女を待っていることを感じられたから、それなら行かせなければいいと思うのに、きっとこの王には無駄なのだと感じた。あの白百合を手折ることはきっとできない、その優しさと慈しみの心がこの者にはあってしまう。
だからこそベルゼブブは瞳を閉じてその言葉を受け入れたフリをしてその場を後にした。
「面倒くさい神(ヒト)ですね」
そう呟く彼の言葉にハデスが何を思うのかは知らずに...。
◇◆◇
あの日、カスティナの前に現れた妻を彼女は直ぐに保護した。
腕の中でか細く抱きしめ返した妻に対して騎士の心と夫の心が大きく揺れて、行く先もないという妻に対して、自身の部屋には連れ帰れないからと宿を借りてやり、毎日彼女はソコに通い詰めていた。
「必ず朝には帰る、だから僕を妻のところに行かせてくれないか」
「そなたの自由を奪ったつもりはないが」
「...キミは僕の王だから。僕の全てはキミのものだろう」
「その心があるのならば好きにするがいい、そなたは"困っている者"を放っておけないのだろう」
ハデスはそういって背中を押してくれたことに彼女は感謝した。
彼の目を見ることなど出来なかったとしても、その声に迷いがなかったからこそ甘えることに決めた。
職務を終えて、一通り業務的にハデスに報告をする時、互いに視線が合わなくなったことについてどう思えばいいのかわからなかった。ただ彼女はハデスの瞳がみれなかった。あれほどまでに自分を映していたはずの美しい瞳の中を今見てしまえばきっと足が止まるような気がしてしまうのだ。
そして彼女は自分の部屋の管理をしてくれていた侍女たちに「今日も朝まで帰らない」とまるで夜遊びになれた男のようなことを口にすると、相手の表情が何かを言いたげにすることに対しても知らないフリをした。
城の中の自分は愛する人に裏切られた哀れな騎士だと感じるのはいつからだったか。事実でしかないことを否定するつもりも怒りを感じることもないが、いまの自分はどうなのだろうかと自分に対して問いかけても言葉は出てこない。
宿に向かう前に街で食料品を買い漁ると浮かんでいくのは一人の女性だけで、カスティナの心は満たされていた。紙袋を片手に堂々と歩いて宿の二階の部屋に上がると一人の女はベッドの上で横になり眠っているようだったが、カスティナはすぐに近付いては彼女が目を開けていることに気付いて優しく抱きしめた。
「ただいま僕の姫、お腹が空いただろう?外で美味しいものを買ってきたよ、キミの好きなライチもあるんだ、食べよう」
いつものように笑ってそういうと彼女は起き上がりカスティナの用意する料理につられて椅子に座った、カスティナは今日の話を明るく話すけれど妻は何一つカスティナを見ない、頬についた痣は薄くはなっているが未だに残ったままだった。
食事を終えて風呂に入れてやると生前健康的だった身体が少しだけ細くなり、その体にはいくつもの痣が残っており、カスティナはできるだけ女性の身体だからと見ないようにしつつも丁寧に洗ってやった。
「ねぇカスティナ、あなたはそんなに目を閉じてちゃ、洗えないでしょう」
「だがキミのその美しい身体をみるのは僕には少し刺激が...」
「バカね、女同士なんですからいいじゃない、相変わらずの態度だわ」
シャツとパンツだけのラフな格好で彼女の頭を城でも利用していた高いシャンプーで洗っていれば再会したばかりのときの傷んだ髪も少しはましになっており、カスティナは一通り洗い終えるとベッドの上で髪をブラシで梳かしながら丁寧に乾かして、二人一緒のベッドの横になる。
生前彼女とベッドを共にしたのはどれくらいだったのだろうかとカスティナは思いつつも自分の腕の中にいる妻をみつめていれば彼女の瞳がカスティナを捉えた。あの頃と変わらない美しさがあると思う時、彼女の首に掛けられた指輪と十字架を彼女が撫でる。
「まだ捨てていないのね」
それはどちらにいったことなのだろうかとカスティナは聞きたかった。
互いの指にはもう銀色のリングは存在しない。カスティナだけが未練がましく指輪を首につけることはまるで飼い犬の証明のようでもある気さえしていると、妻はカスティナの頬を撫でて笑う。
「本当に呆れた人ね」
カスティナはどうしようもなく目の前の相手が自分の愛する人だと感じた。
どれだけ雑に扱われても、どれだけ苦しめられても、どれだけ蔑まれてもいい、それでも自分はと思う時、妻の唇がカスティナの唇に触れた。
「ねぇ抱いて、あなたの手で愛してよ」
その言葉の真意をカスティナは知っている。
カスティナはそれを理解していても知らないフリをして妻の足の間を撫で、その間に顔を埋めた、例えその行為に対して愛などなくても、カスティナが妻に向ける感情だけは行為を無視した本物の間からと彼女は言い聞かせて自分の上で「男ならいいのに」と小さく呟く声を聞きながら、その茂みに顔を埋めて目を閉じた。
その瞼の裏にはハデスがいて、彼女はまるで罪を感じた。裏切りという名の罪の味が妻からして、カスティナは涙をこぼして奉仕した。愛とはなにかわからないけれど、彼女はその指輪に誓ったものを捨てられぬがままに朝が来るのをその場所で過ごすのだった。