「ハデスすまない」

まず初めに騎士はそう告げた。
王に向けての謝罪とは違う、またなにか特別な関係を抱いているような形で告げるその騎士に対してハデスは静かにいつものテラスで祈る時のシルクのネグリジェではない、純白の騎士としての軍服に身を包んだ彼女をみたハデスの胸の中でそれは大きく揺れた。

昨日この騎士が朝帰りをしたことについてハデスはなにも知らないフリをした、彼女を縛る権利もなければ、ハデスとカスティナはただの王と騎士でしかないのだから。
けれど目の前の彼女は淡々と昨日<妻>に再会したといった。
数ヶ月前、彼女の心を深く傷つけた女に再会した騎士はあまつさえ手助けして、今後も彼女がもとに戻るまではしばらく手伝いたいというのだ。

「だからハデス、僕を『行かせて』くれ、必ずキミのもとに帰る。朝になれば必ずと約束する。だから夜だけは...彼女の側にいさせてほしいんだ」

何度も繰り替えしてそういった彼女の言葉にハデスは目を見たくなかった。
「行かないでくれ」そういえばこの騎士は王の命令に背くことはないだろう。
だがしかしハデスはそれをいう権利はなにもない。彼女はただの騎士であり、ハデスの妻でも愛人でも恋人でもない、彼女がハデスに向けるものはただの王への忠誠だけだ。
どれだけハデスが彼女を愛そうと、その心を彼が操作することはできない。それを望まなかったのは彼自身だからこそ、なおのことだろう。
だからこそ彼女は残酷にも『キミは僕の王だから。僕の全てはキミのものだろう』といえるのだ、それがどれだけハデスの胸を締め付けるものかなど彼女は知らない。同じ”愛する者”に向ける感情はあれど一方通行の感情に振り返ることはないのだ。

見送るしか選択肢はなかった。
どれだけ自分が贈った服に身を包んで、どれだけ自分が授けたモノを持っていても、その心だけは一つの体に宿る魂が一つであることと同じ様に変わることがないのだ。

そうすると自然に互いに距離が空くようになった。
カスティナは夜に出てしまうことについて、周りに迷惑を掛けないようにと思い日中の働きに精を出すため仕方なかった。ハデスも無理に彼女に会いに行くこともなく、会うことは毎日職務を終えた彼女からの報告の時だけだが、互いに顔を見なくなってしまったのは、どこか本能的に顔を見てしまえばその手を取ってしまうかもしれないからだ。

くだらない三流のメロドラマのような恋愛ごとだ。
いっそのこと彼女を捨ててしまえば楽になるとアダマスが告げたがハデスには出来なかった。きっと彼女が妻を捨てることが出来ないように、ハデスにはもうカスティナ以外を見ることが出来ないのだ。
冥界の夜の中にいると、天界の空を考えてしまう、それはまるでハデスとカスティナのいる世界が完全に異なるような色合いで、朝になれば帰るというカスティナに来る朝のない冥界でと考えてしまうハデスはテラスの縁に背を預けて小さく笑う。

「あぁ...カスティナ...そなたは...」

誰にも聞こえない声でハデスは彼女に触れた温もりを思い出しては胸の中でだけ呟いた。
——愛しているんだと。

◇◆◇

「それじゃあ、行ってくる」

時計を見たカスティナは出ていこうとするのを妻は呼び止めた。
何事かと思う間に妻は騎士の襟が歪んでいると告げて直しては「本当に仕方ないんだから」と笑うのをカスティナは胸が熱くなるのを感じながら素直に受け止めた。
これが夢であるとわかっている、それでなければおかしいと彼女は思っていたが、あまりにも甘い夢は覚めたくないとおもうのだ。

そして宿を後にして城へと戻っていくと次第に妻とハデスの顔が浮かぶ。

自分がいまどれだけ矛盾の存在であるのかを理解していながら止められない。
妻はもうすっかりと元気になっているがまるで帰りを待つようにあの場所にいてくれる、そしてハデスは何も言わずにただ待っていてくれている。
二つの変える場所がある中でカスティナは答えを出せぬまま城に帰り、いつものように職務をこなした。今や立派な冥界の精鋭部隊の団長をしている彼女は決してその仮面を外すことはない。

広い廊下を歩いていた際、前方から部下を携えたハデスがいた。
カスティナは彼に気付くなり立ち止まり隅に寄ると頭を下げ騎士として見届けるのをハデスは一瞬の視線も寄越さずに通り過ぎていく。彼の靴とコートの裾が去っていくことだけを見送ったカスティナは胸が傷んだ。それは妻に裏切られた時の痛みではない。王に裏切られた時の痛みではない。また異なる彼への罪悪感であった。

カスティナは妻に合う前にシャツを着替えようと自分の部屋に一度戻ってはクローゼットの中身をみた。
自分のためにと用意された立派なドレスやネグリジェに軍服、彼女がどの姿になってもいいようにとおかれたそれにカスティナはもう随分とシルクのネグリジェを着ていないと思い出した。
時間はまだあった、あの場所に行く時間は正確には定めていない、そう言い訳をして自分の純白の騎士としての軍服を脱ぎ捨ててデコルテの広いシルクのネグリジェを着てしまうと、そこにはこの城に来てからの自分の姿が存在した。

耳元に飾られた銀色の月桂樹のイヤーカフは彼女の耳を囲うように美しく輝いており、彼女が耳を撫でる時、ドアが開き思わず振り返るとそこにはハデスがいた。
彼はカスティナをみるなり驚いた様子であったが、すぐにその手の中には書類があり、彼自らが気まぐれに届けに来たのだと知る。

「突然の来訪ですまないな、必要な書類を置きに来ただけだ」
「あっ、あぁありがとう」
「出掛けるのはいいが、その格好はやめておけ」

風邪を引くぞと静かに告げて去ろうとするハデスにカスティナはただ自分の意志に反して足が動いて彼の手首を掴んでは彼を見つめた。

「この格好はキミにだけだ」

カスティナは自分がなにをいったのかもわからなかった。
ただ彼が嘘でも自分の<女>としての格好について思うことがあるのならばカスティナはそれを見せるのは、それを授けた王だけであると告げてしまう。その心の奥にはハデス以外にはみせたくないという自分の欲望が密かに眠ることも知っていた。
ハデスは彼女を見つめるとその手を払うと同時に彼女の両肩を掴み、直ぐに壁に押さえつけてなにかをいう暇も与えずに唇を貪った、ハデスは彼女を甘く噛んでその手が震えていることも紀にせずに、酸素を求めるために薄く開いた唇に舌を忍ばせて、逃げ惑うその舌を捕まえては絡ませた。
静かな部屋の中で互いの唾液が交わり、水音と荒い呼吸が聞こえた、ハデスが薄く開いた瞳の先で見えるのはカスティナが彼を受け止めるために閉じた”女”としての表情である。

そしてその下の首元で彼女を縛る指輪と十字架をみるなりハデスは何もいわず首筋に顔を埋めた、男とは違う華奢な女の身体を持つ彼女を壁に押し付けて、何度も首筋を甘く噛んで、足の間に自分の身体を割って入れるとネグリジェの裾を捲り、剥き出しの足を撫でてその下の花園を隠す薄いベールのような布を撫でながら、彼女の首筋の指輪を噛んだ時「ハデス」と絞り出た女の声が聞こえた。

「...カスティナ」
「すまない、僕は...僕...」

それは純白を穢されることに怯えた少女の瞳でハデスは自分が何をしたのかを理解するなり狼狽えるようにその身を離した。
壁にもたれたかかるカスティナの首筋には薄い歯型と赤い王の痕—シルシ—が残されており、肌は紅潮し、その目元には薄く濡れており、唇は色づいており、ハデスはゴクリと唾を飲み込んでは自分のコートを脱いでは彼女に投げつけた。

「その格好をみせるな」
「ハデス、僕は...」

そう言い残してハデスは部屋を逃げるように出ていき、カスティナは一人残されるなりハデスのコートを抱きしめた。
そこにはここ最近慣れていた女性の香水やシャンプーの香りではなく、いつからか慣れていたはずの心地よいウッディムスクの香りであり、彼女は自分の奥が疼くのを理解してはコートに顔を埋めた。
きっと生前であれば神よ...と祈っていた言葉はもう意味などはないことを理解して、彼女はその場に蹲った、自分が触れる妻への指先も、ハデスに触れられた指先も、どちらも忘れられないままに。


PREV | TOP | NEXT
HOME