ハデスは彼女を客人ではなく時に愛する人に対して、また時に騎士として、両方の面で彼女を扱った。
冥界へ足を運んで一ヶ月ほど、ハデスが回廊を歩いていれば激しい剣の交える音が聞こえ、視線をやるとそこにはハデスの兵たちと剣を交えるカスティナがいた。冥界には眩しいほどの純白の鎧はハデスの身に纏う白銀のコートとは違う神聖なる輝きを放っていた。
「さぁもう一戦!!」
声を張り上げた彼女と兵が剣を交えることについてはハデスから彼女に頼んだ。自身と渡り歩ける程の剣技を身につけた騎士からは学ぶこともあるだろうと一部の近衛兵達を彼女の手合わせ相手に与えたが、毎日全員剣を落とすか膝をついて負けを認めることとなり、人間だから、女だからと見くびっていた連中は直ぐに彼女が如何にして生前聖騎士団長という王国の中でも一番の地位を得たのかを理解した。
そこには王が彼女を自分の子にと求めてしまうほどの清い心と、弛まぬ努力で得た能力、そして誉ある純白の騎士道があったのだ。
彼女の王が娘を与えたのは自分の子にしたいと願うのはもちろん、他国から数多の声が彼女に上がっていたからだ。女だが男として生きるカスティナでも構わない。その者を自分の血族にしてしまえばそれだけでトロフィーとなるのだ。
「本当に呆れるほどに人とは高慢で醜いものだ」
「まぁそれが人ですからね」
「どうだベルゼブブ、我が妻の調子は」
妻ではないだろうとベルゼブブは思いつつも面倒なため無視して、彼女が現在朝からこの時間まで休憩無しで鍛錬を行っており、既に百二十三回の勝利を得ており、隊長クラスも彼女に敗北しており、今では代わる代わると兵士たちは彼女に挑んでいる始末だと報告するが、それを受けたハデスは妙に中庭に人が多いと思えばそういう事かと理解する。
職務放棄ではなくあくまでも稽古の為にと仕事の一環で剣を取り合う彼らにハデスはなにも言わない。
ハデスは神々に恐れられる冥府の王であるが、その実懐が深く寛大で自分なりに面白いと思えばその者の為にと環境や物を与えた。王でありながらも畏怖ではなく純粋な尊敬と敬愛から彼の城に仕える者たちは着いてくるのである。
「ん?おい……あれはグランギニョルではないか?」
「はい、折角なので竜とも手合わせしたいと」
「あれは魔竜だが」
「生前竜退治もしていた……あっ、グランギニョルが負けた」
ハデスに飼い慣らされ今や冥界の守護竜の一匹だというグランギニョルが大きな音を立てて地面に倒れるのをみると、ハデスもベルゼブブも彼女がただの人間として扱っていいのか少しだけ悩みつつ、隣のベルゼブブは密かに彼女の光こそが自分をいつか殺してくれるのではないのかと考えてしまう。
そして軽く他の兵たちと話をし終えた彼女が回廊から眺めていたハデスたちを見かけてはまるで大型犬が飼い主を見つけたかのように小走りで駆け寄った。
「やぁハデス、何をしているんだい?」
「そなたが兵と手合わせをしてるのを眺めていただけだ、調子が良さそうで何よりだ」
「ああみんなとても腕が良くていい汗をかかせて貰っているよ、それにしてもグランギニョルはすごいね!」
楽しそうに無邪気に笑う彼女は先程までの手合わせのせいか代謝が良くなり、その頬を紅潮させつつ薄く首筋や額に汗を滲ませているのを彼女の傍に控えていたメイドがタオルを差し出そうとする前に、ハデスがポケットから真っ白なレースのハンカチーフを取り出しては当然のように彼女の首筋に滲んだ汗を吸うように押し当ててやった。
「随分と汗だくになったようだな」
「あ……あぁ朝からずっとだったから、汗臭いかもしれない、キミのハンカチを汚してしまうというのに」
「いや、そなたはいつも陽の香りがしている。そなたの汗を拭うためならこのハンカチも光栄だろう」
なんせ聖騎士の汗を拭う任を得たのだからとハデスが目を細めて笑うとカスティナは目をぱちくりとさせたあと困ったように視線を逸らして「そうかい」というのだが、その耳や首筋が赤く染まるのは分かりやすいものでベルゼブブはまたこれだと呆れて今日のデータを取り終えたからと去っていく。
カスティナは騎士であるが生活をする中で性別に拘ったことはあまりなかった。
騎士として生きる中で男に生まれていればと思うことがあれど、他の男装の麗人のように女性性を嫌悪するわけでも、自分という女を嫌うわけではなかった。
しかし男性騎士として生きてきた彼女(彼)にとって、真っ向から女性として扱うハデスに対しては正直なところ甘い戸惑いを感じる部分もあれど、それは自分が不慣れなものだからだと言い聞かせた。
そんな彼女を見透かしたハデスは愛らしいものだと思いつつ、彼女の耳に飾られた銀色のイヤーカフをみては少しだけ驚いた顔をして、思わず手を伸ばして触れることを彼女は拒絶しなかった。
「つけていたのか」
「あぁこれ?そりゃあキミから渡されたものだからね、部屋に置いていてもいいが折角なら身に着けた方がこの耳飾りも喜ぶだろ?」
「なるほど、ではまた今度は首飾りでも渡そう」
「有難いことだが高価なものはやめてくれ、そういうのはよく分からないんだ、おっと……そろそろ戻るよ、じゃあね」
ハデスとは違う丸い小さな耳に飾られた小ぶりな銀の月冠樹のイヤーカフを撫でると彼女は触れられ事に少しだけくすぐったそうに笑いつつ、それはただ王からの施しを受けたからといいたげな態度を示したあとまた中庭へと戻っていく背中を眺めた。
「高価でなければいいのか」
高価とは何処からなのかと思うハデスは静かに回廊を歩いていくのを彼の従者達は王と騎士の愛はとても慎ましく愛らしいものだと思いつつ、少しだけ微笑みを浮かべて見守るのだった。
ひと月の間、カスティナはただハデスのもとにいる訳ではなかった。
彼は優しく彼女を軟禁し、広い城の中で自由を与えながらも広大な冥界を自由に歩き回るほどの自由は与えなかった。
彼女は妻を探していた、月の光も届かない暗い冥界の空の下で何をしているのだろうかと彼女は夜になると毎日城のバルコニーから禍々しい空に向けて両手を合わせて神に祈った。胸に飾った小さな十字架を握り締めて、どうか彼女が苦しんでいないようにと祈る姿はまるで聖女のようであった。
一日を終えたカスティナは夜風を浴びる為に毎夜ハデスの城の上階にあるバルコニーで祈りを捧げていたが、その姿は日中のハデスの兵たちと同様の漆黒の軍服でも、騎士となる純白の鎧でもなく、ハデスが与えたシルクのネグリジェだった。夜闇の中でも眩い白い袖丈の長いネグリジェに小さな十字架を首に飾った彼女はかつて地上で聖女として国を導いたといわれる女の英雄に似ていた。
「主よ、どうか我が妻を救いたまえ」
天界に来てもなお神に祈る人間についてハデスは理解ができなかった。
目の前にいる神がたかだか人間になにをするのだろうかと。
人も神も所詮は身勝手な生き物で、力を持つかどうか、その命を握るか握らないかという違いだけで、祈る者すべてを救うわけではない。
かつて神の声を聞いた聖女は国や人を導いたがその終わりは人間の裏切りからくる火炙りの処刑だ。
では聖騎士としてその力を国の為に注いだ白百合の騎士はどうなのか、愛する者に裏切られ続けて死んだ最後はあの聖女と変わらない、あまりにも愚かであると思いながらもハデスはバルコニーに続く扉を開けると音を聞いた彼女が振り返った。
冥界にまで届く光があるのだと彼女を見た時に知った。
騎士の誇りとなる剣を握り、王から授けられた鎧を今なお身に着けて、妻を守るため、仇なす者として神にさえ剣先を向ける女の高潔な魂を求めてしまうのは自然の摂理に近いだろう。
「ハデス、今晩は」
「ああカスティナ、今晩も熱心に祈っているようだな」
「もちろんだ、彼女に少しでも祈りが届けばいいんだがね」
「何故祈る?あの女はお前を裏切りあまつさえ殺したのだぞ」
何度も問いかけてもハデスには理解出来なかった。
彼女は夫であるからだと自分の中の誓いだけを切に守っているが、それを裏切ったのは相手である。
不貞どころか命を狙うまでした者に守る価値などないはずだとハデスは……いや、まともな者なら全員思うはずだ。
それでもカスティナは同じ答えだけをハデスに告げる。
「それでも僕は彼女を心から愛している」
出会ったのは十五の頃、まだ見習い以下の兵士だった頃、現れた王の娘は自由奔放のいたずら娘で兵を困らせた。
無邪気に笑う美しい姫に心奪われ、王と彼女の為ならばと剣を振るった。
功績を上げてその名を轟かせれば王が喜び姫は彼女を「さすが騎士様」と微笑んでくれた。
それ以上の喜びなど何も無かった。
二十歳になると完璧な男として最年少で聖騎士団長という名の国一番の騎士としての地位を与えられ、その称号のように妻として姫を迎えた。
「髪を撫でてくれた、彼女は僕に守ってといってくれた、膝枕をしてお茶をして、彼女は僕を誰よりも大切にしてくれていた」
「それはそなたが夫ではなかったからだ、女でありながら剣を振るうそなたが物珍しかっただけだ」
どれだけ彼女が過去の思い出を美化してもハデスにはその真意を理解していた。
データログは文字だけでなく、その者の人生すべてを映像にしてみることもできた。確かに姫と騎士は仲睦まじかったがそれは婚前の頃、まだ夫婦でもない頃の思い出で、ほかの騎士とは違う無垢な彼女を姫は弟や自分を守る遊びの騎士として扱っただけのこと。
「あの女は"男"が欲しかったのだ、そなたではなく」
カスティナが男であればきっと幸せを掴めた筈だ。
妻に愛され子を授かり王に愛され「女」という性別への蔑みを受けることはない。
ハデスは彼女の耳を彩る彼が渡したイヤーカフを撫でた、その小さな耳でどれだけの人の憎しみと恨みを聞いてきたのか、首に掛けられた細い十字架と彼女の左手の薬指を縁取る銀色の指輪を撫でて、俯いてしまう彼女のつむじを見つめた。
「祈ったところでなんの意味があった」
神を信じていないのだろ?とハデスが彼女の胸の内を暴くように告げると彼女の肩が小さく震えた。
生前も神に祈るフリをして祈りなどしていなかった。兄を失い、両親に捨てられ、ただ聖人として生きる中で彼女は数多の苦しみを受けた。雨風の中で眠りについて、明日の食事も分からぬままで、泥だらけで兄と父の影を追い続け、祈っても救われないということは国に仕える前に理解していた。
努力だけが救われるのだと知っていた彼女がくだらない十字架を手に祈る理由は愛する人から授けられたから、神に祈ったフリをすれば周囲がそれを喜ぶから。
「そなたは歪められている、こんな無意味なものを捨て去れば、余はそなたを一人の"人間"として愛すると誓おう」
その光が陰ることを許さないとハデスは彼女の手を取り、その無骨な傷だらけの騎士の左手の薬指に口付けた。この指輪を外せと静かに命じる彼にカスティナはもうひと月ここにいるのだから分かっていた。
「妻を裏切れない。もし裏切れば僕は僕で無くなるから。あなたもそんな僕を愛することは出来ないだろう」
「……それは」
その人がその人である為、その人の個性というものがそれぞれにあるのだとしたらカスティナの魂の輝きは騎士としての気高き誇りからくるものだ。
ハデスが自分を心から愛していることは人の魂を知る彼女にも理解出来ていた。それを悪くないと思う自分もいるのは事実であるが、それでも指輪を外せなかった。
そしてそれを告げられたハデスも否定は出来なかった。もしこの騎士が自分に簡単に下るとなれば彼はこの騎士を求めることはない、そこらの下らない人や神とおなじ存在だとしてしまう。
「だから妻の場所を教えてくれ、彼女と会わせてほしい、全て知っているんだろ?」
顔を上げて綺麗に微笑む彼女が泣く姿を見たくなかった。
ハデスは彼女の妻を知っている。
そして彼女が妻を愛する中、天界でどんな目にあってきたのかも。
報われない恋というものほど痛むものはない。妻を愛するいちずな夫の想いというのは彼女を愛するハデスだからこそ理解できる。
「もしも彼女に受け入れられなかったその時、僕はキミの妻になろう」
これは契約だ。
そう告げる騎士はまるで悪魔と取引をするようだった。
ハデスは彼女の左手を優しく握ると「約束だ」と告げたのは彼女を守るためだった、これを最後の涙にさせるという約束として。