「なんで行かせたんだよ!!」

大広間にて玉座に腰掛ける兄ハデスにたいしてアダマスは怒りを抑えられないように壁に飾られていた剣を投げつけると、玉座に腰掛けたハデスの背後に突き刺さったがハデスは普段と変わらぬ静かな態度で注がれたワインを飲んでいた。
瞼を下ろしてその長い御御足を組んだ彼はアダマスには何も答えないが、アダマスは怒りを抑えることは出来ずに怒りを露わにするのを止めたのは後から来たベルゼブブだった。

「アダマス、キミが怒るのはいいが本当に悩んでいるのはハデスさんだ、理解した方がいい」
「ンなの知らねぇんだよ!!兄貴いい加減にしろよ!!あのクソ女があいつに何をしてきたか、なんでここに来たか知ってたんだろうが!!いい……今すぐオレがぶち殺してやる」

何も答えないハデスに青筋を立てて怒るアダマスが部屋を出ていこうとするのをベルゼブブは止めようとするが暗い大広間にて聞こえた声はとても静かに「やめろ」といった。
ようやく口を開いたハデスは眠るように瞼を閉じるがその裏には葛藤だけが残り続けていた。

彼がそう思い悩むのは無理もない。
彼があの騎士の不貞の妻を知ったのは以前のオリュンポス十二神の会議の後に偶然顔を合わせたアフロディテからだった。

カスティナは死後天界においても人類としてヴァルハラの兵を務めていた。
彼女の評判は生前から高く数多の女神や女性が密かに追いかけていたが、彼女はいつもどの誘いに対しても「妻がいるので」と断った。
誠実で真面目で美しい彼女を様々な形で愛してしまうのはもはや必然であるが、彼女は毎日地上界で生きているであろう妻を想い天界で生活をしていた。
いつか彼女を迎えに行こうと思うカスティナに妻が天界に来ていると知ったのは彼が死んでからしばらくしてのことだった。
妻だけではなく王や国の官僚など重要な人物がまとめて死んだ。

それはつまり──国が滅んだ。ということだった、実際に彼女を英雄として深く信仰していた民や兵は多く、その英雄の妻が不貞から夫を殺したこと、そしてそれを隠蔽しようとした王に対して怒りの業火を燃やし、真実を知った民の手で国は一晩にして崩壊した。
それを知ってしまったカスティナは深い悲しみを抱き、自分を責めたものの、それなら妻をなおさら探そうと決めて天界に来たはずの妻を探し、そして会いにいったが妻は彼女に顔を合わせることはなかった。

「では、カスティナは天界で妻と過ごしていたわけではないということか」
「ええそうよ、騎士様はどんな日でも妻の家に足繁く通い花を置いていったの」

ああなんと美しい……と彼女の心に涙を滲ませるアフロディテに他の女神もハデスのことを聞きつけてはカスティナを天界に返せと抗議に来たつもりだが、彼女の妻への罵詈雑言が飛び交い、ハデスは女の恨みほど恐ろしいものはないがあの悪女に関しては彼自身も同じことを言いたくなるほどだった。

渡された水晶の中に映されたカスティナは天界で仕事を終えるといつも花屋で自分だとわかるように白百合の花を買い、妻の家の窓際において帰った。
一年も、二年も、三年も、そして数年の月日の末に妻はある日、魔族の男に惚れ込み冥界へと自ら下ることに決めた。冥界まで行けば夫は来ないと思ったからだった。

周囲の女神はその事実は伏せつつも冥界に向かおうとするカスティナを止めたが彼女は「僕の妻だから」と頭を下げてハデスに立ち向かうためにヘラから神器の剣を預かり、彼女達の加護を受けて冥界へと足を進めた。

つまり彼女の妻は自ら喜んで堕ちたのだ。
自分を想い続ける夫のことなど忘れたようにして。

だからこそハデスは彼女が妻と顔を合わせると告げた時、報われないものだと理解しており行かせたくはなかった。
今度こそ彼女が正面から傷ついてしまう。
また何年も妻という名の呪いにしがみついて追いかけて待ち続ける姿をハデスは見たくなかったが、彼女はハデスの想いを汲み取った故に約束をしたが、ハデスは何一つ喜ぶことは出来なかった。
そこまでしなければ彼女の"呪い"が解けないことが恐ろしいと思う頃、彼女の事情を知ったベルゼブブも自分の胸に残されたリリスの呪い─愛─の痛みと強さを思い出した。

愛ほど残酷なものは無いと愛を司る女神さえ告げた。
いっその事、カスティナの記憶を消してしまおうかとしたのに、彼女は強い拒絶を示して神々の記憶抹消を跳ね除けてしまい、その傷を背負ってでも生きると決めたのだ。

「そんなにあいつを苦しませて、そこまでして兄貴(テメェ)はあの女が欲しいのかよ」
「あやつが頼んだんだ、だから行かせた」
「ふざけんなよ!!どいつもこいつも愛だの約束だの」

カスティナはハデスに頼んだ。
ハデスだけではなく彼女を思い悩んでくれる者たちに。

『妻がどんな人間だとしても僕が愛した人だ、だからどうか彼女を罰することは許してください。それは"私"を否定することになるのです』

深々と頭を下げて、膝をついて、夫として妻を守るために告げる彼女を裏切ることを誰が出来ようか。
ハデスも彼女の妻を完全に天界から消滅して戻ってくることのないように魂の完全消滅─ニブルヘル─したいと思った、それは一度二度のことではなく、彼女の妻のデータを見た時からだったが、それは彼女の誇りを穢すものだった。
神はどこまでも高慢であるが聖者の魂を穢すことは出来なかったのだ。

「準備出来ましたよ」

大広間は肌が痛むほど空気が張り詰めており、控えていた従者たちはアダマスとハデスの"気"が交わる度に逃げ出したいと思った頃、ベルゼブブが静かに用意をしており、それが終えたという頃、二人の椅子を従者が持ち運びハデスの両側に置くと、壁には映像が投影された。

それは妻に会いに行こうとするカスティナの姿で彼女は嬉しそうに城の庭園で飾られていた白百合を従者達に伺いを立てつつ手に取り丁寧に包んでいた。
彼女の魂を表すような純白の鎧を身につけた彼女の耳元にはハデスが贈ったイヤーカフは無く、鎧の隙間から首元に十字架が飾られた紐がみえる。

「彼女はね、白百合が好きなんだ、だから喜んでくれるといいな」

金色のリボンを結ぶ彼女が従者に話す時、事情を知る従者は「きっと喜ばれますよ」と優しく返事をするが、きっと本心はその従者も告げた彼女も違うことなどわかっていた。
その様子を見たアダマスは椅子を蹴り飛ばすと大広間を出ていこうとした。

「オレぁ見ねぇぜ、人が苦しむのは嫌いじゃねぇが悲劇ほど下らねぇものはねぇからな」

そう言い残したアダマスは兄の意思を汲み取り、決してあの妻に手を出さないことは分かっていた、優しい弟だとハデスは胸の内で呟いては目の前を見つめる。
たとえどんな道を歩もうと、これは騎士が選んだ茨道だったから。

◇◆◇

カスティナはハデスから手渡された小さな紙をみて慣れない冥界の街を歩いた。
妻はカスティナの誘いだと決して来ない、さらに家となれば他の男がいる可能性がある、そうした可能性を考慮してハデスは彼女の妻が喜ぶような場所に招待状を贈った。
生前からパーティと男と地位と権力が好きなあの女は冥王ハデスからの盛大なパーティ誘いだと聞いてきっと喜んだだろう。

暗い静かな教会のような場所に辿り着いたカスティナは待つことになるのだろうと思いながらその手の中の一輪の白百合を見つめた。
かつて彼女の妻が妻ではなく、ただの姫と騎士だった頃、騎士は城の庭にあった白百合を姫のようだと思い、悪いと思いながら腰に携えたナイフで切って、真っ赤な顔をして姫に差し出した。
すると姫は受け取ったあと笑った。

『あぁカスティナ、この花はあなたのようで美しいわね、私この花があなたと同じくらい大好きよ』

大好き──その言葉を聞いただけで天にも登る気持ちとなり、騎士は自分のモノにはほとんど白百合を入れた。その鎧にも、マントの刺繍にも、剣にも、全てに彼女を表すような純潔の花。
しかし百合というのは恐ろしい花で、一輪であれば美しく愛でられるのに、大輪となれば死に至らしめる毒となる。

カスティナは姫にとって毒なのだ。
彼女は自分が愛されない理由を理解してもなお妻を愛したいと思うのは自分が思った愛を裏切らないためだった。彼女を裏切れば王を裏切り、民を裏切ることとなる。
かつて好きだった妻はまたあの頃のように自分を見てくれるかもしれないと、雨に濡れても、泥に塗れても、晴天の下で肌を焼こうと、国のためといえ人を殺そうとしても。
ただ笑っていて欲しいだけだった、もう一度あの笑顔と声を望みたいだけなのに、振り向いてくれることも何も無かった妻に心が痛んだがその本音を聞くことはなかった。

これが最後だと思いつつ椅子に座り左手の銀の指輪を見ていた頃、ドアが開く音がした。
ヒールの音がしてドレスが床に擦れる音と甘く濃い香水の香りを騎士は間違えることはなく「やだここ違ったかしら?」と声が聞こえたと同時にカスティナは唾を飲み込んで、奥から姿を表し、教会の真ん中に立ち尽くす妻を久方振りに目にした。

「……っ」
「なんであんたがいんのよ」

妻の名前を口にしようとする前に妻から出た言葉はただの拒絶だった。
心から嫌悪するような声と態度と眼差し、それでも騎士は歩き自分の守るべき姫─妻─を見つめて、彼女に膝をついて、あの時剣を捧げた時のように、あの日盛大に祝われた結婚式で誓いを立てたように、一輪の白百合を差し出した。

「愛すべき僕の妻よ、キミを迎えに来たんだ、帰ろう」

ハデスは目を伏せたかった。
あの一言でもう答えはわかっていたはずなのに、カスティナは最後の捧げ物をしたかったのだろう。
その献身的な愛を渡す相手が違うのだと言いたかった。
愛は報われる訳じゃないがカスティナの愛はただの誓いという名の執着とエゴであり、相手の魂は騎士の魂と反したものを宿しており、受け入れれるわけがない。光が強いと影が強くなるのだ。つまり騎士は光で姫は影なのだということが残酷な程に映っていた。

立ち上がり妻の手に花を添わせようとすればカスティナの手は強く叩かれ、美しい金のリボンに飾られた白百合は静かな暗い教会の中で音を立てて地面に落ちた。
けれどカスティナはなにも言わずに足元に落ちた白百合を拾おうとすると、それは妻の足で踏み潰され、白百合は崩れてしまう。

「気持ち悪いのよあんた、生きてる時もあっち(天界)でも同じことしてきて、こっち(冥界)まで来たのに追ってきたわけ?どういうつもり」
「キミが冥界で悪い男に連れられてしまったと聞いたから迎えに来たんだ」
「ふざけないでよ、私はあんたから離れられたと思って清々してたの、ここまできたらあんたは来ないと思ってたからね。いっつもそうよ……私の気持ちも考えず女の癖に聖者の騎士様を気取って私を見世物にする、そんなに気持ちいいわけ?自分が私と違う"男"だってことが!!子供の一人も作れないような"夫"の癖に!!」

カスティナは何も言い返さなかった。
ただ目の前の妻の言葉を静かに受け止めて悲しそうに微笑むことが尚のこと妻の癪に触り、妻は夫の手の中の指輪を見るなり顔を歪めて奥歯を噛み締めた。

「騎士だと持て囃されて、お父様にまで気にいられて、私の自由を奪っておきながらお父様に足を開いたんでしょ……生前のあなたの噂聞いてるわよ?白百合"姫"、兵士に足を開いて指揮を高めていたんでしょ?」
「それは違う、僕はキミにしか捧げない」
「ムカつくのよ、あんたのその態度が!自分だけが聖人君子だと人を見下したようなその表情も声もなにもかも!私がどれだけ"男"と結婚したかったかわかる!?」

胸を強く叩かれたカスティナは何も言えない。
思うことは"男"だったら彼女を悲しませなかったのだろうかということだけ。
妻の罵詈雑言を聞いていたいのに入ってこずにいれば、踏みつけられた白百合を拾った彼女に投げ付けられ「二度と会いにこないで!」と言われてしまい、彼女が去ろうとするのをカスティナは追いかけて傷のない姫の剣さえ振るえない華奢な手首を掴んだ。
激昂した妻が何かをいう前にカスティナは微笑んで妻に向けて自分の指輪を差し出した。

「キミを縛り付けてすまなかった、最後にその言葉が聞けてよかった。僕らはこれで最後だから、ありがとう」

そうして差し出した指輪を手に取った妻はその指輪を教会の祭壇に向けて投げ付けて「偽善者ね」と告げて二度と戻ることはなかった。
不安に振り返ることもなく、妻が去っていく背中を見届ける時、カスティナは土がついて形を崩し汚れた白百合を強く抱きしめる頃、優しく包み込む存在に気付いた。

「そなたは立派な夫だった」

ハデスはそういってただ自分の胸に強く抱き寄せる頃、カスティナは初めて人の胸の中で強く泣いた、兄を失った時よりも、両親が去った時よりも、王の裏切りよりも、これまでの妻の裏切りよりも。
ずっと、ずっと、妻を愛していたと信じていたから。
分かっていても最後の別れとなったことに彼女はカスティナとして涙するのをハデスは涙を拭うこともせず、シャツが濡れるのを感じながら、ただ彼女を守りたいと思うのだった。


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