『お前には何も望んでいない』
父はそう言った。
騎士の家系に生まれ落ち、七歳まで彼女はそれはとても幸せだった。
両親や兄に花のように育てられ、誰よりも美しい娘として可愛がられた。
歳の離れた兄を亡くして悲しむ父や母を見るのが辛かった。
髪を切り、スカートを捨てて、剣を極め、女らしさを全て捨てて、自分が憧れた兄のようになれば、家庭はまた元通りになると信じていたが、父が消え、母が消えた時、彼女は自分の選択を誤ったのだと理解した。
『騎士は気高くなくてはな』
兄はそう言った。
国の聖騎士団に入った歳の離れた兄は彼女がこの世で何よりも尊敬する人であり、兄が歩む道を進むことから外れることは自分を捨てた父や母を否定することとなると感じた。
自分が選んだ道を変えることは許されないと自分に言い聞かせ、聖人君子の如く聖者の道を歩み続けた。
『夫ですって?あいつは女よ?私をベットで愛することも出来ない"男"よ』
妻はそう言った。
信頼する騎士に称号として与えられた美しい妻はなによりも"男"に愛されたかった。
言葉や行動ではなく、根本的な男女の繋がりでなければその心を埋めきれなかったとなれば、女として性を受けて騎士─男─として生きる彼女はどうすればよかったのか。
妻が悪い訳では無いと理解して傷付いてもなお、その心に花を咲かせたいと誠実に生きてきた。
『お前はワシの"息子"だ、しかし"王子"が欲しい。お前の血を交えた子は高潔な人間となるだろうに』
王はそう言った。
娘であり唯一の娘の奔放を許せと説き伏せて、騎士として目に掛けた彼女を騎士─男─として扱い、それを受け入れると言って、彼女が耐えかねるのならば自らの血を残す道具へと落とすと告げたことに、彼女は何が正解なのか分からなかった。
──その血を残せぬ癖に男
──剣を握るくせに女
それなら彼女はハナから性など欲しくは無いと思った。
自分は何者なのか、鏡の前で自分に問う時、鏡の中の自分は告げる。
『男として生まれなかったお前が罪だ』
ふと目を覚ますと全身が何処か重たいと思いつつも長く眠っていたと感じたカスティナは置いていた手が柔らかいものに触れていると思った。
身体が包み込まれるように沈んでおり、まるで夢の中のように心地よいと思うが、非常に質のいいベッドの上で横になっていたのだと気付き、その次に首を動かすと大きな窓とベッドサイドには美しい銀河のような深い青色のリンドウが一輪飾られていた。
冥界は常に暗い夜のようだが、時間帯としての夜になるとそれを知らせるような光が外に微かに灯っており、それは少しだけ星空のようだった。
彼女は身体を起き上がらせると服は変哲もない長袖長ズボンの寝巻きとなっており、左手に残った指輪を見つめると彼女は眠る前のことを思い出した。
まるで子供のようにハデスの胸で泣いてしまったが彼は静かに彼女を受け止めた。
それは懐かしい兄のような温もりであり、父のような優しさであり、かつて自分が愛した相手に向けた愛情だと感じた。
涙を拭うでも慰める訳でもないハデスの温もりと優しさが心地よく、カスティナは彼に連れられて帰る間もまるで迷子にならないようにと彼の手を取っていた。
「今晩はゆっくり眠るといい」
それだけを告げて部屋まで見送ってくれたハデスと別れ、一通りメイドたちに世話をされて草臥れて寝てしまったのだと思い出したが、時計の針は思っていたよりも進んではいなかった。
日付が変わる頃であるのをみた彼女は自分の服装を眺めたあとシャツのボタンを外して行き、着替えるなり部屋を後にした。
ハデスは寝所にて静かに本を読んでいた、神として悠久の時を生きる彼らにとって人間程の睡眠は必要としていなかったが、夜の中で静かに趣味を嗜む時間というのは好ましく思いつつも、その反面頭の中ではカスティナの事について悩んでいた。
愛する者に完璧な拒絶をされた彼女の傷の痛みを彼が分からないわけがない。胸の中で泣いた彼女がどれほど痛みを抱えていたのか、生きる意味を失っても仕方がないほどの苦しみを死後に味わうことに対して彼は自分が何を出来るのだろうかと考える頃、ドアが控えめにノックされると聞き違えることのないカスティナの声が彼を呼ぶ為、ドアを開けると羽織を着た彼女がそこにいた。
「夜分遅くにすまない」
「構わん、寝なくてよかったのか」
「……あぁ」
ハデスは彼女を部屋に入れてやり、普段の明るさなど完全に無い彼女にどうしたものかと思う時、彼女はハデスの前でゆっくりとその羽織を下ろした。
そこにはあまりにも妖艶な下着を身につけたカスティナがいた。
真っ黒なレースのベビードールに、妖しいほどに美しい黒いブラジャーとショーツは彼女の肌を彩り、その女としては鍛えられているが美しい曲線と柔らかさを秘めた肉体は、微かな傷跡がありながらもハデスの瞳を完全に奪った。
パサッ──と音を立てて彼女の薄い羽織が床に落ちてしまうなり、彼女の剣を取るはずのその手がハデスの手を掴み、戸惑いがありながらもゆっくりと自分の胸に触れさせた。
女を知らない訳ではなくとも愛してしまった女の肌に触れる時、神も人も変わることなく心臓が音を立ててしまうものだった。
まだ少し赤みの残る腫れた目をした彼女はハデスに告げた。
「約束通り、僕はキミ……いや、"私"はあなたの妻になる」
だから触れて、抱いて、あなたが思うがままに私を……と告げた時、ハデスは直ぐに自分の羽織っていたコートを脱いでカスティナに掛けて、肌が一切見えないようにボタンを閉めて、何も無かったように彼女を見つめるがカスティナは目を丸くしたあとハデスに困惑したような表情をみせた。
「なっ、何故だ!何故ぼっ……私を抱かない!キミが望むなら私はあなたに何をされてもいい!私はあなたの為なら騎士も男も捨てて"女"になれる!」
泣いてしまいそうになりながら告げるカスティナが痛々しくて堪らなかった。
最後の騎士としての約束を守るためであり、自分を捨てるためなのだとハデスは理解した。
「僕を愛していると言ったんだ!僕を抱いたらいい!!……いたっ」
ハデスの胸ぐらを掴んで揺さぶる彼女にハデスは思わず口元をギュッと真一文字に結ぶなり、右手を少しだけ上にやり彼女の額の傍までやると親指と中指で輪を作ったあとベシッと音を立てて額を弾いた。
突然の痛みにカスティナは思わず声を漏らして驚くと今度は「何をするんだ!」と怒ったようにするものの、ハデスは腕を組んでは彼女にイラついたように見下ろした。
「余をなんだと思っている、そなたをただの道具と思っていた生前の連中と同じだと?バカにしているな」
「そっ、そんなことはないけど、でも……キミが僕をめっ…娶るとかなんとか」
どうとかそうとか……と尻すぼみするカスティナはすっかりと弱気になって眉を下げて叱られた犬のようになるが、ハデスは全く勘違いも甚だしいことだと彼女の額を小突いた。
「余は初めてそなたに会った時に告げたはずだ、その身を我が妻として身を委ねろとな」
「ああそうだ覚えているとも、だから僕は"妻"として来たんだろ」
「そして次に言ったはずだ"堕とす"……とな、それも必ずだ、その意味が分かるか」
「え、と?それはその……?僕が受け入れるって意味じゃないのか?」
難しいことは苦手だとカスティナは小首を傾げるのをみたハデスは指を鳴らして従者を呼んでは、熱い紅茶と蜂蜜入りのホットミルク、そして何か食べられるものを持ってこいと命じて、彼女を放置して自身のクローゼットの中を漁っては適当な寝間着と厚手の靴下を投げ付けて背中を向けると着替えろと命じた。
背中を向けたまま布の擦れる音を聞くハデスはとんだ勘違いをされ、自分の品格がそれほどのものだと思われていたとは、と嫌味混じりに言うと彼女の「すまない」という叱られた子供のような声が聞こえて、少しすると着替え終えたようで振り返るとボタンを直していたようでハデスは近くに寄ると彼女のボタンを付けるのを手伝った。
「余はそなたに心から"愛してる"と思わせるということだ、愛無き結婚に意味はあるか?無いだろう?そなたがあの妻を愛したように、余もカスティナ、そなたを愛しているのだ。だからこそ無闇に肌を晒すな触れさせるな」
「僕の身体が嫌という訳では無いのか」
「神とて男だ……全く余が冷静でよかったぞ、もし我が弟のゼウスやポセイドンだったら……はぁ、考えたくもない」
「噂ではキミは妻にしたかった女性を無理につれて来たとか」
「あぁ若い頃な、一方通行の愛が痛いということはあの時理解したものだ」
「……その相手と今は?」
「逃げられた、相手の母親が恐ろしい上にそなたのように固い意思を持った娘だったからな」
ハデスは彼女の身なりがしっかり整ったのをみては満足そうな顔をして、厚手のモコモコの靴下を履いているが薄いスリッパだと気付いて、直ぐに部屋に置いてある厚手のスリッパと交換してやり、広い部屋の中にあるソファに座らせて、その向かいに彼も座るとタイミングを見ていた従者が入室するなり、ハデスの前には紅茶を、カスティナの前には熱々のホットミルクとはちみつを置くとハデスははちみつをたっぷりとホットミルクに注いで、彼女に差し出した、
「懐かしい味だ、昔母さんが作ってくれたものみたい」
「ヴァルハラ(天界)の花畑で取れた一級品のはちみつだ、夜遅いからな、休まるだろう」
「ああ……じゃあキミは僕が君を愛するまでは求めないというのか」
「そなたが本気で抱かれていいと言うのなら三日三晩どころか三年休まず抱いてもいいぞ」
「さんねっ……」
キミは性豪だな……と呟く彼女にそうじゃないとハデスは返事をしつつ紅茶を口にした。
身体を奪うことなど簡単だった。それこそハデスは自身の身内や神々がしてきたことを考えると、正直現代だと裁判沙汰(※天界においても現在は罪)となるが、実例を知っているためなんとも言えぬ気持ちになる。
だがしかし心というものはどこまでも操ることの出来ない魂の核となる。
愛するが故にその者を奪ってもその者が笑わなければ虚しいだけ、嘆き苦しみ食事も喉を通らない姿を見てしまうと罪悪感に駆られて、己という理性の無い獣がいかに恥を持たねばならないかということを強く感じるほど。
「それに余はカスティナという存在が好きだ、男や女、騎士や聖者ではなく、そなたの真っ直ぐとしたその心に奪われたのだ」
「……そうか」
あまりにも真っ直ぐと向けられた言葉は常に彼女が妻に伝えてきた言葉と同じなのに、いざ彼女が穢れない言葉を受けてしまうと顔に熱が籠ってしまうのを感じた。
そんな彼女に満足そうにしてハデスは置かれてあるドライフルーツがふんだんに使われたレアチーズケーキを彼女に差し出した、深夜といえど今日は疲れてしまったのだから甘味で少しは心を癒すがいいとハデスは言うと、彼女は素直に皿を受け取り銀色のデザートフォークで一口切って口の中に放り込んだ。
濃厚なチーズの味わいとドライフルーツの優しい甘味が混じり合い、噛む間もなくチーズが口の中で溶けて、しっかりと冷えたチーズケーキはホットミルクで温まる身体を優しく調和させるようだった。
ドライフルーツはラム酒で漬けられておりフルーツの甘さとラムの香りがふわりと鼻腔をくすぐり彼女は思わず目を細めて心底美味しそうに堪能したが、ハッとして騎士らしくない態度だったと少し恥ずかしく思うものの、甘いものを前にするといつもそうだった。
「フッ、やはりそなたはその姿の方がずっと似合っているぞ」
「なぁハデス、キミが思う僕はどんな姿なんだ」
「そうだな……高潔で美しく穢れにも負けずただ己の道を歩む、素晴らしい騎士であり、良き夫であり、そして愛すべき人間だと」
男でも女でもない。
ハデスはただ彼女を騎士としてみていた。
愛する思いはあれどそこに一切の歪みは見られず、カスティナはハデスが本気で自分を想ってくれているのだと気付くがどう答えて良いのかは分からなかったが、あまりにも分かりやすい彼女の態度にハデスは態々カスティナのチーズケーキを一口奪うと彼女の伏せた視線がハデスに向いた。
「時間はある、そなたの答えをゆっくり作るがいい、それこそ王として一人の者を落とす楽しみを味わえるというものだからな」
「僕が天界に帰せと言ったら」
「もちろん帰す。それがそなたの望みなら叶えてやるのが愛だろう」
「……そうか、本当にキミという王は素晴らしいんだな」
それならとカスティナは食べきった皿を置いてソファから立ち上がるとハデスの足元に膝を立てて白銀の冥王を天界の光のような瞳で見つめた。
「以前僕は告げた。キミが望むなら剣になると、だが今はっきり告げよう。ハデス……僕はまだ"妻"にはならない、しかしキミを守る剣となりたい、どうかそれを許してくれるだろうか」
ハデスの左手を取り真っ直ぐと見据えた彼女にハデスは声を失った。
過去の全てに裏切られ、自分を妻として求める新たな存在を、彼女は騎士として仕えるというの些か愚かに見える。
しかしそれでもハデスは心から喜ばしいと思ってしまうのは、彼女が"まだ"といったからだ。いつかその心が変わるかもしれないと彼女自身が告げたのなら、どの形でもそばにいて欲しいと願い、そしてまた自分も彼女のそばにいてやりたいと思った。
「毎日余の部下を負かしているやつが今更か……ああいいだろう白百合の聖騎士カスティナ、そなたは余の"騎士"だ」
「ええ、あなたの為に剣を振るいましょう、我が冥王ハデス」
ハデスの白い手の甲に唇を置いたカスティナにハデスはこの関係で今はいいとした。
彼女は騎士としての自分が無ければ生きていけないことを知っているから、彼が妻としての彼女を求めても今ではないと言い聞かせて。
「しかしこの格好はつかないね」
「うむ、まぁよい」
互いにパジャマ姿だということに今更気付いて二人は小さく笑う時、それは主従でもあり、ほんの少し仲のいい友人のようでもあった。