バフォメットの妻であった人間の女はバフォメット曰くこの世の美を詰め込んで一つにしたものであり、自身とその最愛の妻の間に生まれた一人娘のバーモットはこの宇宙の美を一つにかき集めて凝縮したものであるという。
しかしそんな親バカについてベルゼブブは内心否定しきれないと思うもの事実であった。何故ならあの悪魔がいうようにバーモットはベルゼブブの目から見て整った容姿をしているからだ。
通った鼻筋に大きく形の良い瞳に小さく艷やかな唇に触れてみたくなるような瑞々しい肌、親の愛を一心に受けて蝶よ花よと育てられた彼女はメイドになるまでの間での生活は完全なお嬢様であったとされていた。
バフォメットというカオスの化身の娘として生まれる彼女に狂わされる生命が過去にいたことはあながち嘘ではないのだろうとベルゼブブは少し一息をつきながら、視線の先で今日もせっせと真面目に働いているバーモットを見つめた。
口数も少なく無駄がない、その上仕事は完璧で仕える相手には百%以上の力を発揮させる彼女はまさに完璧であり、彼女は自分がメイドであることに強い誇りを抱いてるがゆえにますます輝いて見えた。
整えられた髪もシワ一つないメイド服も全てが彼女の性格や中身を表すようであり、だからこそベルゼブブは隣りにいる彼女を快く思えるわけで、これまでに自分の世話にと充てがわれたメイドたちは怯えたり、どこかやはりバーモットには遠く及ばない技術であり、如何に彼女が優秀であるのかと実感する日々で、その姿はいつしかメイドというよりも助手にも近い扱いをしてしまうほどだった。
「そんな彼女をどうして僕にですか」
「ベルゼブブ、お前はいつも報告ついでのようにバーモットのことを聞くな」
「知ったほうがいい情報もあるだけです」
別にそれ以上のことはなにもないといって誤魔化すベルゼブブは手元のカップにミルクを少々と砂糖を二つ淹れてはくるくるとティースプーンでかき混ぜる、コーヒーは黒から柔らかいブラウンへと色を混ぜられる度に変えてしまうのはまるで今の彼の心のようであった。
ハデスがベルゼブブを城に招き入れたものの、彼が相当面倒な性格であり、なおかつ世話の焼ける存在であると知ったのはすぐで、メイドたちに世話を頼むものの全員が怯えてしまうことにハデスも悩んだ。バーモットが優秀であることはもちろんであるが、バーモットとベルゼブブはその性質から相性を見ているとはずっと言っていることだったが未だにベルゼブブは理解できなかった。
物静かであることはもちろんであるが、それだけであれば他のメイドでも問題ないはずで、自分の側近として置いていたメイドを態々託すほどなのか?と思うがハデスはコーヒーを飲みながら悩ましい顔をした。
「あれはあまり表に置くのは危険でな」
「バフォメットの娘だからですか」
「それもある、だがバフォメットの血を引く娘でありながらあの容姿だ」
ハデスは美しいものを素直に美しいといえる神である。
それゆえに仮に山羊頭のカオスを巻き起こす迷惑な悪魔の王の娘であるとして、バーモットのことについては昔から綺麗な娘であると思っていた。そしてハデスが美しいと認める以上、それは一般的な目でみれば相当なものであり、冥界の至宝といっても過言ではないだろう。
冥界に存在する女神や女悪魔というのは誰も皆どこか妖艶で美しく怪しさを持っている。しかしバーモットの美しさはまた一段と違った。あのバフォメットの娘でありながら清くあろうと願い、その想いや姿は冥界に差し込む一筋の光のように清らかであった。
「あれに奉仕される者はこぞって骨抜きにされてな、バフォメット(バカオヤジ)から直々に余のところで働かせてやってくれといわれたのだ」
「なのに最終的に僕のところに?おかしくないですか?」
「いや、そなたには適正があった。バーモットの魅了(バフォメットの血)に耐性があるのだ」
その言葉に対してベルゼブブはバフォメットの血というよりも、あの悪魔の能力をその身を持って教えられた者としてはどうなのだろうかと思うがハデスはそれを見透かしたように鼻で笑う。
「今でこそ能力を抑えることが出来ているがバーモットが抑えない頃は父親と同じ力を無意識に撒き散らしていたのだ」
ハデスはすっかり疲れ切った顔をするのはいまやもう彼の十八番のようにも感じられる程であると思えるベルゼブブは不思議に思いつつもその話の詳細を聞いては想像するよりもずっと信じられなかった事実に顔を青白くさせてはハデスに同情するのだった。
その夜、シャワーを終えたベルゼブブが私室に戻るとベッドメイクを再度していた彼女が静かに「いつでもお休み頂けます」というがベルゼブブはまだ寝る時間でもないからとソファに腰掛けると彼女は明日の用意を整えてやっており、一段落すると寝る前の一杯にとホットミルクを用意して、天界の養蜂所で採れた新鮮なハチミツをたっぷりと注いではベルゼブブの前に置いた。
すっかりと健康的な生活をするようになった彼は自分でもわかるほど以前より肌艶がよくなり、目の下の隈も増しになっていると感じつつそのマグカップの中の白い液体を飲んでは胸がほっと落ち着いてしまう。
バーモットが派遣されてから感じたことは、彼は完全な孤独を感じるようになってから久しぶりの感覚だ、それはまるでリリスと過ごしていたときのような心地良さであると感じていた。
「そういえばバーモット、ハデスさんにキミのことを聞いたんだけど、キミは随分と昔は能力で苦労したとか」
「はい、本当に昔のことでございますね。ハデス様にも今思えば大変ご迷惑をおかけいたしました」
「すぐに拉致されそうになったり、声を掛けられたり、キミの周囲の人達が突然サバトを始めてしまったりとか...」
そうですね...と相変わらずの無表情で返事をする彼女と時間を過ごすようになり、ベルゼブブは多少の表情の変化を理解できるようになった。
そうして理解したことはバーモットは普通の女性であり、メイドという職業から個を抑えようとするものの、やはり感情をもつ生き物である以上、その胸の奥にある感情がみえてしまうのだった。そしてそれは同じく感情表現の乏しいベルゼブブとて同じであった。
しかし昼頃、城の上階のハデスの執務室にて近頃の報告も兼ねて雑談をしていたベルゼブブは幼いバーモットとそれに振り回されるハデスの苦労話を聞いていたため、すぐに思考はそちらに戻った。
拉致や声掛けにサバト...というのは実際にハデスから聞かされたことであり、幼い頃からバーモットは色々とトラブルに見舞われ、コーヒーを飲みながらハデスは数百年以上前の記憶を辿って通り目をした。
ハデスの内容は以下の通りであった。
バーモットはバフォメットの娘だからと拉致をされたと思えばカルト集団に崇められたり。
街を歩いていれば無意識に能力が漏れていた彼女を幼い少女だとしても女としてみて声をかけてしまう者が後を立たなかったり、
「一番ひどいときは幼いあやつと余で公園で休んでいたときだ」
それはある日のこと、バフォメットに一日だけ面倒をみてくれと頼まれ仕方なく幼い彼女の面倒をみることを快く受けたハデスは何千年ぶりの幼子の愛らしさを堪能した。馬鹿な父親に振り回されつつも幼い頃から真面目で物静かで物わかりの良いバーモットをみていれば、自分の弟たちの幼少期を比べて感慨深くもなってしまう。
散歩のために公園にいったハデスはバーモットが恥ずかしそうに「はですおじさま、あれたべたいです」と公園の一角に来ていたアイスクリームのトラックを指されたハデスはそれを片手に近くのベンチに腰掛けて、小さな両手でアイスクリームのコーンを持つ彼女が嬉しそうにすることに父性が刺激された。
そしてひとくち食べた時、彼女の瞳がぐにゃりと歪み、バフォメットの目を発動させてしまったのである。ハデスは元々耐性があるためよかったものの、周囲にいた者は違った。近くで散歩をしていた老夫婦は突如として激しいキスをして、近くのカップルは突然怒鳴るように愛を叫び、カラスや黒猫がそれぞれ交尾を始め、つまりはカオス(サバト)が開かれてしまったのである。
「おじさましあわせですね」
幸せそうに笑う彼女にハデスはすぐに彼女を掴んで城に戻るなり公園の浄化(対バフォメット課に連絡)を行い、半径五キロ圏内がサバトとなった状況にハデスはこの娘に力の制御を必ずさせねばならないと感じたのだという。
そんな話を聞いたベルゼブブは今の彼女に関しては城では一目おかれたような扱いを受けているが、そこには父を抜きにした尊敬の眼差しを受けているようにも感じられていた。
「大変だとは思ったけど、やっぱりキミは昔から魅力的なヒトなんだね」
「そんなことは...」
ベルゼブブはその血をなくしてもと思うが彼女はベルゼブブの言葉に瞳をぐにゃりと歪める時ほのかに甘い香りをさせる。
しかしながら能力を完全にコントロール出来るようになったとはいえ、バーモットの容姿に惹かれる男も多いとベルゼブブは以前より感じていた。城内において彼女はハデスの側近メイドであり、ベルゼブブの専属メイドというポジションは他の従者や兵よりもはるかに高い地位を持っており、それ故に距離が守られているが時折彼女と話をする兵たちが鼻の下を伸ばしたり、その瞳の奥に宿す欲望をベルゼブブは知っていた。
そして彼はそれをあまり快く思えていないものの、それをいうことも出来ずにただ静かに胸の奥でチクチクと痛みを感じながら見ぬふりをした。
そんなある日、ベルゼブブはバーモットを連れて冥界の街に研究材料を買いに足を運んだ。
冥界の街は天界とあまり変わらないものであり、些か違うことといえばベルゼブブを恐れる者が僅かに少ないということだった。反対に血気盛んで無駄に喧嘩をふっかけてこようとする者も多いが、ベルゼブブの不安はそれ以上に隣を歩くバーモットに向けられる視線だった。
ハデスの城からは滅多に出てこないバーモットはやはり男の視線を奪う対象であり、その男たちの視線は下世話なものばかりでベルゼブブはやはり連れてくるべきではなかったと思うが、本人は気にした様子もなく人混みの中を進んでいき、ベルゼブブの買い物を付き合い終え、すぐに二人は帰ろうとするがバーモットは突如として「すみません、あちらの茶葉を買ってまいります」と言い出してベルゼブブの隣から抜け出して、人混みの中を簡単にすり抜けてしまう。
ほんの一分程度のことであるが、茶葉を買ったらしいバーモットにベルゼブブがようやく追いつくと彼女は既に屈強なオークと悪魔の二人組に囲まれていた。
屈強な二人組は如何にもな姿でバーモットを見下ろしてはニヤニヤと笑って彼女に乱暴な誘いを掛けては腕を掴んでいることにベルゼブブは思わず手に持っていたアポミュイオスの杖に力を入れようとしたときだった。
「主人以外の不要な接触はお断り致します」
そういったと同時に彼女は細身な悪魔である相手の右腕を反対に掴むなり、まるでダンスを躍るように相手を自分の側に引き込むと同時に左腕で相手の喉仏に容赦なく肘を打ち込み、そのまま緩んだ腕に力を入れるなり相手の肩に鈍い音がしてはぶらんと落ちてしまい、驚く間に見本のような回し蹴りで相手の頭に綺麗に打ち込み。
その隣で呆然としている三メートル近くはありそうな巨体のオークに飛びかかるなり、チョークスリーパーを掛けては数秒の間に落としてしまい、彼女はふわりとスカートを翻しては地面に着地してはベルゼブブに振り返った。
「お待たせ致しました、少々掃除にお時間を掛けてしまいましたね」
「...あ、あぁ」
ベルゼブブのもとに軽やかに戻ってきた彼女だが呆然とするベルゼブブは驚きつつも彼女に「強いんだね」といえば「メイドですので」と冗談をいうような軽い口ぶりで返事をした。
それでもベルゼブブは誰かに彼女が触れられることや、その視界に捉えられることを拒んでしまう。自分だけが知っていたいという小さな欲望に彼は悩みつつも小さなため息をこぼした。
そしてある日の夜、シャワーを浴びる前に夕飯の片付けなどをするバーモットにベルゼブブは少しだけ悩んだ後、声を掛けてみた。
バーモットは丁度洗い物を終えて手を拭いてからベルゼブブのもとにいつものように平然とした態度で現れるとベルゼブブはカソックを脱いでシャツとパンツだけの姿でありつつも、自身のポケットから一つの小さなジュエリーボックスを取り出した。
「これをよかったらキミに、日頃のお礼だ」
「ありがとうございます。開けても?」
「あぁもちろんだ」
「ブローチですか、とても美しいです」
深いワインレッドの小さな箱の中から現れたのは血のように深い朱色のブローチであり、それは光を受けると少しだけ見え方が変わり、魔力が籠もっているのだとバーモットは感じてはベルゼブブに驚いたような視線を向けた。
「こんなものを頂いても?」
「キミのために作ってみたんだ。バフォメットの血を抑えるための力や、キミの健康管理や、どこにいてもわかるようになっている」
「そんなご立派なものを、貴方様の貴重なお時間を割いて作っていただくだなんて」
申し訳ないと言いながらも彼女の瞳が黄金の色へと変わることにベルゼブブの胸の内が満たされる。単純なブローチではなく以前採取したバフォメットの血や体毛を解析して、できるだけ彼女が意識せずとも力を抑えられぬように、また体調などにより能力が出てしまう場合を考慮したバイタルチェック、そして何かがあったときようにと位置がわかるようにと、あくまでメイドを思いやる主人としてとベルゼブブは自分に言い聞かせるが、それが逸脱しているということは作成途中にアダマスにからかわれたことにより理解していた。
「できればそれをずっとつけていてほしいんだ、どんなときでも、僕がキミを認識できるように」
ベルゼブブはいつからかバーモットに素直に自分の想いを口にしてしまった。
彼女は手の中のブローチを軽く揺らして血のような石がキラキラと輝くのをみたあとすぐに自分の首元のジャボにそのブローチをつけてみせた。
黒と白だけのシックなメイド服を彩るようなその石のどろりとした朱色が彼女を彩る姿は美しく、ベルゼブブが「似合ってる」というと彼女は黄金色のの山羊の瞳でベルゼブブに呟いた。
「ベルゼブブ様はずるいですね」
「え」
「私のようなメイドにこのようなものを渡すなど、勘違いしていまいます」
感情を押し殺して生きてきたメイドとしての彼女ではなく、バーモットという個人の言葉のようにそういうが、その黄金の瞳には濡れた情欲を宿していた。それはベルゼブブが彼女に向ける深淵の瞳の中に宿したものと同じであり、彼女は手を伸ばしてベルゼブブのシャツの左胸を撫でた。
「あなたはずっと誰かに囚われているのに...妬いてしまいそうです」
こつんと彼の胸に額を添えた。彼女の細い指先がベルゼブブの左胸を撫でるがそこにはかつてベルゼブブが愛した女神リリスの呪いの刺青が入ったものであった。バーモットは顔を伏せていたがその声と態度がどんな理由を持っているのかを知ってしまうベルゼブブは腕を上げて彼女の背中に回してしまいそうになるが、バーモットはすぐに顔を上げてはその身を離した。
「すみません、今日は他の職務があるのを忘れておりました。申し訳ございませんが本日はもう戻ります」
「あっ...あぁ」
「このブローチはお約束通り肌身離さずにつけますのでご安心くださいませ」
顔を上げた彼女の瞳はもとに戻っており、すぐにその身を離してはベルゼブブのことも放置して出ていってしまうことにベルゼブブはなにもいえなかった。
互いに思い合っていることは彼自身理解している、それでも踏み込めない自分がいると彼は理解しており、口を噤みながらも彼女を求めている自分の矛盾性に嫌気が差した。部屋に残された後、キッチンに置かれてあるコーヒーをマグカップに注ぐとミルクも砂糖も淹れずに飲んだそれはずっと苦いと感じてしまうのだった