砂糖いつつ




「数日ほどお暇を頂きます」

それはあの日から数日後のことであった。
ベルゼブブはバーモットからの言葉に目を丸くしてなにか理由でもあるのかと不思議がってみるものの彼女はいつもと変わらぬ態度で有給消化期間であることを告げたことにベルゼブブは若干冥界(ハデスの城)にその制度があるのかと驚きつつも正当な権利であるとして二つ返事の了承をした。
彼女はベルゼブブに言われたとおりにブローチを肌身離さずに胸元に飾ってあり、ベルゼブブはそれが自分の歪な心を表すようなものであると感じていながらもそれが存在することに胸が静かに満たされることを感じた。
彼女の父親からも余計な真似をされずに過ごす時間は穏やかであり、二人はまるで何事もなかったかのように過ごして、バーモットはメイドとしての職務をこなし、ベルゼブブはそのサポートを受けるというだけの主従の関係。
それ以上はなにもない、あってはならないのだとベルゼブブは言い聞かせるようにしつつも軽く頭を下げて出ていった彼女の背中を小さく見届けては自分の左胸に僅かに残った彼女の熱とリリスの呪い(愛)を撫でてしまうのだった。

「お前から申し出が出るとは珍しいな」
「いつもギリギリの消化になっておりましたので」
「それだけではないようだが」

ハデスの私室にてバーモットは珍しく彼のベッドを整えていれば窓際の椅子に腰掛けてバーモットの淹れた紅茶を飲んでは「いい茶葉だ」と褒める彼に先日街で買ってきたものだとバーモットは答えながらも一通りの作業を終えるとハデスの側に立った。
数日前、執務室で仕事をしていたハデスのもとにやってきた彼女はしばしの暇が欲しいと頼んできたことに彼は二つ返事の了承を簡単にしてみせた、もとより冥界全体の制度として有給休暇は存在しており、特に冥界の王に仕える以上は彼も見本となるように彼らを雇用しているのだから権利は行使してほしいものだが如何せん彼女は休むことが苦手であり、休むよりも不眠不休で働く方が好むが故に毎年有給休暇を無理矢理に取らせていたが今回ばかりは珍しく申し出てきたことに言われてすぐの時にはいえなかったことを改めて問いかけたが彼女は表情を変えないままだった。

ハデス立ち上がり、向かいの椅子を引いて彼女に座るように告げると王命であるゆえに彼女は素直に椅子に座った。ハデスは自身の棚からどれにするかと思いながらも結局いつも通りのチェスを選んで置いてやるとバーモットは直ぐに小さな二人用のテーブルの上にセッティングした。
幼い頃より彼女と嗜んできたハデスは白を、バーモットは黒をと決まったように並べられて、なにもいわずとも二人は阿吽の呼吸のようにチェスの駒を進める。

「ベルゼブブとなにかあったのか」
「少しばかり」

迷いもなく二人は駒を進めていく中で明確な原因の名前を出せば彼女は誤魔化さずに素直に答えることは主人には嘘をついてはならないと知っているからだ。
嘘というものは結局バレてしまうのでだからついても意味はなく、嘘偽りないことこそがメイドとしての美しさだと彼女の美学が語る。しかしハデスは少し悩みながら駒を進める間になにがあったのかではなく、目の前の彼女自身が進化していることを感じながら口元を緩めて問いかける。

「やつを想っているのだろう」

その言葉にバーモットは何も返事が出来ずにクイーンの駒を手にしたまま固まっていた。
そしてしばらく黙り込んだあとようやく駒を置いては「わかりかねます」と曖昧な返事をすることにハデスはくすっと小さく笑いつつゲームを進めた。

「私はただのメイドです」

そういった彼女は自分に言い聞かせるようであり、彼女のすべてを知るからこそハデスはそれ以上の答えを出さずに「チェックメイト」と静かに答えると彼女はちらりとハデスをみつめる、五分五分の腕を持つが彼女は今日に限ってとても簡単に負けてしまう。
片付けをしようとする彼女にそのままでいいと告げて「精々実家で疲れないようにな」とハデスがいえば彼女は頭を軽く下げた後、ハデスの私室をあとにした。

「恋か...青いなバフォメットの娘よ」

そういった彼は外を眺めると月の光はとても明るかった。

バーモットはベルゼブブに対する引き継ぎを数名のメイドにしておき、自身はトランクを片手に実家へと帰っていった。ハデスの城から実家となるバフォメットの館までは馬車での送迎となり、バーモットは静かにその馬車内で揺らされながら数日間の暇の間に城全体にトラブルが起きなければいいがと思いつつ、元々ハデスもベルゼブブも静かなタイプであるため問題はないだろうと目を閉じて短い旅で眠りについた。

ハデスが実家で疲れないように...というのには理由がある。
ハデスの城から真反対、冥界の最深部に近い実家は冥界屈指の大きさを誇る屋敷であり、続く道においても「バフォメット卿の家」と看板が立てられていたり警告や忠告なども見える。
そして馬車が門を抜けてようやく止まるとバーモットは手を貸してもらい降りるなり入口の大きなドアが開いた。

「「おかえりなさいませお嬢様」」

美しい統一された声とともに出迎えたのは冥界の中でも屈指の美しさを誇るメイドであるが、彼女たちのメイド服はバーモットが普段着ているメイド服とはことなり、上半身は長袖のクラシカルなデザインでありながら、その下はハイレグになっており、腰上からのV字のカットラインはあまりにも際どく、後ろ姿はTバックのようになり、剥き出しの臀部はメイドとは一切言えず、ニーソックスや編み上げのタイツにガーターベルトで彩られたメイドたちにバーモットは「戻りました」と平然とした態度で返事をしてみれば、聞き慣れない足音が聞こえたかと思えばそこにはハデスの城でも見覚えのある男が立っていた。

「アダマス様...こちらに来ておられましたか」
「よぉバーモット、相変わらず生気のねえくだねぇ顔してやがるな」
「アダマス様は相変わらずお元気そうでなによりでございます」

バーモットは現れた機械の身体となった神アダマスに小さく会釈をするとアダマスは近くのメイドを抱き寄せては遠慮もなしにメイドの尻肉を掴み上げて笑い、メイドたちは「も〜アダマンティン様ったら」と笑ってみせるがすぐに彼の身体に手を這わせるため彼女は無感情でアダマスをみつめた。
ハデスの弟である元征服王アダマスはハデスと正反対の性質を持ったようにみえるが、バーモットはその実彼が真面目な神であることを知っていた。実際にメイドたちに触れてはいるもののそれ以上を行わない彼は節度を持った存在であり、この館の主であるバフォメットの良き友人である彼は時折ハデスの城ではなくここで休んでいることも知っていた。

「お父様は...あぁ祈りのお時間でございましたか」
「おう、相変わらずだぜテメェのオヤジは」
「ああ見えて信心深い方なのでございます、よろしければお茶でも致しますか?」
「そうだな、お前いまあの根暗野郎と”仲良し”してんだろ、話を聞かせろよ」

バーモットは荷物をメイドに手渡してはべったりと触れてこようとする彼女たちをやんわりと止めて慣れた足取りで客間に行き、二人で向かい合う形でソファに腰掛けるとメイド達が直ぐにバーモットの好きなフレーバーの紅茶とケーキを用意し、アダマスの隣に腰掛けようとするがアダマスはそれを無視しながら目の前のベリーケーキにすぐさまフォークを突き刺した。
バーモットとアダマスは古くからの仲であり、アダマスはぶっきらぼうでその乱暴な姿の反面身内には甘く、兄であるハデスを深く尊敬しているところがあることを知っており、そしてなんだかんだと彼女への世話焼きもよくしているのを知っていた。

「それでなにがあったんだよ、あんな大荷物だ、ついにベルゼブブに手ぇ出して追い出されたか?ククッ...テメェも所詮あの山羊野郎の娘ってことか?」
「しばらくお暇を頂きました、手を出した...確かにそうかもしれません」
「マジかよ」
「マジです」

それを聞いて驚いたのはアダマスだけではなく客間に控えていたメイドたちもである。
バーモットは平然としたいつもの態度を見せているがメイドたちは赤飯を炊かねばと慌て始め、近くのベルを鳴らして周囲に知らせ大騒ぎするのを放置しながらアダマスは少し間を開けた後「で?ベッドを共にしたってツラにはみえねぇよな」と問いかけることに彼女は紅茶を飲みながら顔を伏せた。

「ベルゼブブ様に...抱擁してしまいました、厳密には抱擁というよりも、彼の胸に自らの身体を預けたという形ですが」
「はぁ...だと思ったわ、てっきりあの野郎の童貞を奪ったのかと」

はぁ...とため息を付くアダマスだがわかりきっていたことだ、目の前の女の子とはハデス以上に知っている点がある。
それはこの娘が真面目な女であり、恋愛ごとに対しては相当な臆病者であるということ。しかしそうならざるを得ないことも理解しており、呆れながらも自分のケーキを食べ終えるなりテーブルの上に足を置いてしまいソファに深々と腰掛ける。

「バーモット、お前本気であいつに惚れてんだろ」
「左様でございます」
「ビビってんのか」
「いえ、ただ私は職務を全うするだけです」

無感情のまま答えるバーモットに対してアダマスは気に食わなさそうに眉間にシワを寄せては彼女をみつめては「まだビビってんのかよ」と呟くと彼女は何も言い返さなかった。

「あの根暗陰キャのぼっち野郎はお前のオヤジと同じタチだってわかってんだろ、そんなもん(ブローチ)までつけやがって」

その言葉にバーモットは空になったケーキの皿をテーブルの上に置いて紅茶を一口飲むとミルクも砂糖もない紅茶は少しだけ渋みが強く、彼女はそばのナプキンで口元を軽く抑えると自分のジャボに飾ってあるブローチに視線を落としては立ち上がるなり「そろそろお部屋に戻ります」と言って逃げるように部屋を後にしてしまう。
丁度入れ違いざまにやってきたバフォメットは娘に明るく声を掛ける者の彼女の様子にいつものような強引さをはっきせずに室内のアダマスをみては呆れたように声をかけた。

「アダマスいうておるだろう、我が娘は繊細なのだからいじめるなと」
「別にいじめてねぇよ、あいつらが根暗過ぎるせいなんだよ、ちったぁテメェくらいのバカになればいいってんだ」
「乙女心は複雑なんだ、これだから野蛮な奴は」

はぁ...と親らしくため息をつく山羊頭の悪魔は娘の恋路についてちょっかいを掛けてはいるものの、その実本心はしっかりと心配しているのだ。愛する娘が傷つかないかと、生まれたときから今までずっと。

相変わらず騒がしい実家だと思いながらも慣れしたんだ広い屋敷内を歩いたバーモットは自分の部屋にたどり着くなり、普段の姿も忘れたようにワンピースのままで広い天窓のついた広いベッドにうつ伏せで倒れ込むと今頃ベルゼブブはなにをしているのだろうかと考えてしまう。
それだけで胸の内が小さく熱くなり自分の中の血が疼くようだった。
その感覚は数百年ぶりに味わうことであり、彼女は懐かしい感情だと感じた。ずっと感情を抑えてきたのは家庭や自分の血だけではない、彼女も人なりに感情をもち、そして恋をした。
今よりも幼い頃、冥界の学校に通う頃も、メイドになったばかりの頃も、彼女はほかの女神や悪魔たちのように他人を好きになった。自分の能力だけではなく素の自分を好きになってくれると思えた相手だった。

『やっぱりバフォメットの娘なんだな』

軽蔑するような視線も、落胆するような声も、反対にそれまで違うと思っていたはずの相手の視線が途端に大多数と同じ好奇で侮辱するような眼差しに変わることも、全てバーモットは知っていた。
だからこそ、静かに側にいてくれるベルゼブブの扱いは心地よかった、彼はどれだけのことが起きようと決してバーモットに踏み込もうとしない、反対に逃げていく姿は蠅の王らしいとさえ思えた。静かにただコーヒーを飲むだけで心地よく、互いの視線が交わると少しだけ胸が熱くなりそっと視線を逸らしてしまうようなものが幸せであり。
彼女は本能的に相手の感情を理解することができる。知りたくないと思っていても知ってしまうその能力に対してベルゼブブが自分に抱く気持ちは同じでありながらも、小さなモヤが残っていることも知っている。

自分のジャボの上に飾られたブローチを取り外してバーモットは仰向けになり天井に翳してはみつめてみると、血のように深い朱色は光って、まるでそれは自分の奥にある醜い感情に似ていると思えた。
そんなものを手渡したベルゼブブの本心は優しさと独占欲と愛であると知るがゆえに彼女はずるいと思った。彼の左胸には彼を守るための深い”愛”—呪い—があり、それに彼女は敵わないことを理解している。

「私だって...同じ気持ちなのに...ずるいわ」

そうつぶやいたバーモットは自分の胸の中に宿る痛みを誤魔化すように眠りについた。
この家にいれば自分はメイドではないからこそ、本当の姿をその場所だけ自分に晒すように。