砂糖むっつ




ベルゼブブは孤独を苦だと思わなかった、否、正しくは苦に思わないようにしていたのだ。
生まれ落ちたときより孤独を生きていた彼に光を与えた友人たちは亡くなり、愛する者も失った、そうして彼は自分が願えば全てを失うと知るからこそ人と距離を開けて、特別な感情を抱かないように務めた。それでなければ彼の内に眠るサタンが食い殺してしまうから。

冥界において、ハデスのもとにいる際にも彼は孤独であろうとした。世話焼きな彼ら兄弟に面倒を焼かれることはむず痒い気持ちにはなるが、それでも無駄な馴れ合いも触れ合いもする気はないと思った彼だったがバーモットは違った。
彼女は自分と同じでありながら、対極的な存在であるからだ。
孤独であり抗えぬその血に苦しんできたかと思えば愛されていながらも同じ苦しみを抱いていた者、互いに何も言わずとも理解し合える様になってしまう頃には離れられなくなり、ベルゼブブは彼女が有給休暇と称して去ってからたかだか三日で妙な胸の空白を感じていた。

「ベルゼブブ様、お茶のお時間でございます」

そういって研究室にやってきたメイドは十五時きっちりにコーヒーを淹れに来るがベルゼブブは目を向けることもなく、静かに本棚からバーモットが整えてくれたファイルの中身をみてはしっかりと整えられていることに安心感さえ覚える。
メイドのパンプスのヒールの音は歩幅の間隔一つさえ聞き慣れないもので、それがわかってしまうことさえベルゼブブは自分が毒されていることを理解していた。顔を向けることはなくコーヒーと焼菓子を置いていったメイドが早々に帰っていくのを彼は密かに眺めてはそのスカートの丈の長さ一つでさえ彼女を思い出す。

バーモットは自分が休みに合わせて別のメイドたちに世話を頼むことを告げたもののベルゼブブは極力不要だと彼女たちを追い出した。部屋にやってくるメイドたちは懐かしささえ感じるほどに彼に怯えており、ベルゼブブはそれが正しい反応であると少しだけ安心した。
初めてやってきた頃からバーモットに怯えなどなかった、ただハデスに命じられたからという言葉だけで無理矢理に彼の心に土足で上がるように振る舞い、いつの間にか彼女がいることが当たり前に変えられてしまい、ベルゼブブは一人きりの研究室で置いていかれたコーヒーにミルクを少々と砂糖を二ついれて口に含んでみたが何処か味が違う。

「コーヒーの淹れ方を、時間も温度も、キミは他のメイドに教えなかったのか

一人だけの部屋の中で彼は呟いたが彼女のことを考えれば教えているはずだろうと思った。
料理を運ぶ時間も、メニューの内容も、ベッドメイクの癖も、すべてメイドたちはバーモットと同じ通りにしているのだが、どれも僅かに違うと感じてしまう。バーモットが他のメイドたちに教えていたというコーヒーの淹れ方のメモをベルゼブブは貰い受けており自分で試してみた、同じ豆に同じ道具で丁寧にそのメモ通りにしているというのに全く美味しいと感じられない理由を彼は研究者でありながら、論理的ではないとわかっていながらも理由を理解していた。
感情というものほど味覚や脳を刺激するものはない、つまり彼には今バーモットが足りていないのだ、まるで半身を失ったというような気分にさえなってしまう。

研究室をみつめれば彼女が掃除をする姿はみえない、机や床にはいくつもの紙が散らばっているのにそれを拾って適切に管理してもくれない、洗い場には洗い終えてないビーカーや試験管が溢れている。
彼女のほんのりと香る甘い香りもしない、優しい温もりもない、全く研究に身が入らないとベルゼブブは思わず椅子に座ってはぐったりとデスクにうつ伏せた、彼もそこまで鈍感ではない、自分がどれだけ他人を遠ざけたとしても彼女と自分の間には確実に何かが芽生えているのだ。愛という名の感情、いや、それ以上にもっと醜くドロドロとしているからこそベルゼブブは彼女にブローチを渡したのだ。

顔を上げてモニターを見ると彼女の位置情報を示したアイコンは彼女の実家内から動くことはない。今頃何をしているのだろうかと思いながらハァ...とため息を零すと「ほぉ監視しているのか」と声が聞こえてベルゼブブはまるで猫が驚いたような大袈裟な態度で驚いて立ち上がるといつの間にか来ていたハデスがベルゼブブをみては笑っていた。

「なんでここに」
「なに、お前の様子をみにきただけだ、バーモットは他のメイドを頼んでいたはずだが...この有り様とは」
「僕が帰したんです、不要だからって、それよりもこんなとこに来るなんて暇なんですか」
「強がるな、お前の心など昔から嫌と言うほど知っているんだ」

丁度ティータイムかとハデスがデスクの上のコーヒーとクッキーを見てつぶやくことにベルゼブブはうんざりしつつも適当なマグカップにコーヒーを注いでやると悪くはないといって飲むハデスが態々出向いてくるとなればろくな話でもないだろうにと感じるのは、この冥王が世話焼きであり、ベルゼブブとバーモットの関係を密かに楽しんでいるからだった。

「それにしてもバーモット以外のメイドは不要と来たか。随分とお前も変わったようだな」
「別に変わってませんよ。彼女は優秀でここにいても何も迷惑じゃないってだけです、不慣れなヒトたちに出入りされ続けられれば僕のストレスになるだけで」
「優秀なことは認めよう、だがバーモットが後任に選んだメイドたちだ、彼女には及ばずとも十分優秀なはずだがな」
「何がいいたいんですか」

そんなことを聞かずともハデスの視線だけで理解できる。
彼の視線や態度、それにベルゼブブ自身も僅かに思うことであるのだから。
そうしてうんざりとした彼の視線を受けるハデスはにやりと笑って「迎えにいけばいいだろう」と平然として告げるがベルゼブブは綺麗に一刀両断で断れば目の前の王は目を丸くして驚いてしまうがベルゼブブは「有給休暇なんでしょ」と呆れて返事をした。
ベルゼブブ自身にはそうした制度はないがメイドとして働いている彼女がその権利を行使しているのであれば、それを邪魔をするのはよくないと至極真っ当な返事をすることに流石の冥王も押し黙ってしまう。

「それならいい、だがいつまでもこのままでいくのか、互いに理解しているはずだろう」
「理解していることと踏み込むことは違います。僕らはいまの関係に納得しています」
「納得しているやつが相手を監視するのか?相手から逃げ出すか?」

ベルゼブブの背後を取るような物言いのハデスにうんざりしてしまい思わず眉間にシワを寄せてしまうがハデスとて無理強いをしたいわけではなかった。
ただ二人が互いに踏み込みたいと思っていながらその一歩に全く踏み込めず、ずっと立ち止まり互いの出方を伺っているからだ。その焦れったさには苛立ちさえ感じてしまうほどでほんの少しの手出しは許されるだろうと彼は自分なりに考えていた。しかしながら二人を知る彼だからこそ、二人が踏み込めない理由も理解している。

「過去の愛に怯えるな、お前が臆病になって足を竦めたとしてもあやつも相当な呪いを持って生きているのだ、お前たちは本当によく似ている。だから余はお前たちを引き合わせたんだ」

よく話せ若輩者たちと年配者のような物言いをして空になったマグカップを置いたハデスは最後に部屋を掃除するように言い残して去っていき、ベルゼブブは深い溜息をこぼしつつ床に落ちた紙を拾ってはいい加減片付けをするかと掃除を始めた。
それは彼女と出会ったから久しくしていないことだったと彼は感じた。

ベルゼブブはかつて愛した女性がいた。
女神リリス——ベルゼブブは初恋を聞かれたなら迷いなく彼女の名を出せる。いまもなお彼女の美しい表情や柔らかい癖のあるピンク色の髪を思い出す。共に過ごした時間も強引に自分に命令をして側にいてくれたことも、全ては心地よい思い出であり、彼は過去の想いに痛みと悲しみを抱きつつも、何千年が経過してもあの時の甘い記憶をしっかりと持っている。
リリスを自身が殺してしまった悲しみと、最後に彼女に残された優しい呪いを彼は今も抱えて生きている中で出会ったバーモット。

彼女は無機質な存在だというようでありながらも強引で、その性質は少しリリスに似ていた。
世話焼きで強引で自分の中に強いものを持っており、ベルゼブブの手を引いてくれる。そしてリリスとは反対に自分と似たような性質を持ってもいる。素直に居心地の良い相手だと思う間にベルゼブブの心はリリスと過ごしていたときのように惹かれていた。
愛していると口に出来なくとも感じられた、守りたいと、隣りにいたいと思う度に彼は自分自身がそれを許さなかった。

サタンに呪われし者(アマテナ)と呼ばれ恐怖されてきた彼自身がサタンであると知ったのは心から愛した友人三人を殺害し、最愛の女性を殺した時だった。
幸せだと感じる時、愛を極限に感じる時、彼の破壊衝動が抑えきれずにそれを壊してしまうのだ。だからこそ、どれだけベルゼブブが他人に感情を動かされそうになってもそれを違うと言い聞かせた。でなければ失ってしまうことを知っているから。

「僕は失いたくないんだ」

ベルゼブブはベッドの上で仰向けで寝転がりながら手で顔を覆いながら苦しそうに呟いた。
彼女のことを想うだけでまるで内側から全てひっくり返るような、どうしようもない感情が溢れているのを感じられた、清廉潔白でいたいと願う彼女のあの美しさを壊したくはない。整えられた髪も、彫刻のようなその顔立ちも、感情が高ぶると揺れる黄金の山羊の瞳も、全てがベルゼブブの中で完璧なものである。
自分の胸に顔を埋めて左胸を撫でた彼女の指先を忘れられるわけがなく、あの熱を彼は思い出す度にドロリとした感情が溢れてしまう。壊したいという本能が刺激される度に彼は死にたいと思えたが、それを抑えるように心臓が抱きしめられるように優しく締め付けられる。

「僕は最低だ」

最愛だった女性からの愛(呪い)がこんなにも憎らしいと思ってしまうのだからとベルゼブブは感じながら目を閉じた。

そしてバーモットはきっちり一週間後にベルゼブブのもとにあのブローチをやはり肌身離さず身につけたまま帰ってきた「お土産です」と言いながら街で人気のお菓子を片手に。
ベルゼブブはあっさりとした帰宅に少々呆気を取られつつも受け取るなり彼女は研究室内を見回しては仕事のしがいがあると、どこか嬉しそうにみえるのはベルゼブブがそれだけ彼女のことを理解するようになっていたからだ。
そしてベルゼブブは彼女との日常が戻ってくるなり、先日の不安や悩みも少しだけ忘れてまたいつも通りの二人へと戻った...はずだった。

バーモットは一日のほとんどをベルゼブブと過ごす、彼が起きてから眠るまで彼の傍で何かしらの職務をこなすため、彼女に用事があれば研究室まで足を運んでくるほどで、ベルゼブブへの来客対応を含めて彼女が承っていた。
そんなある日、いつも通りベルゼブブが注文していた荷物を受け取っていたバーモットに荷物を運んできた相手が「そういえばこれバーモットさん宛です」といって、珍しく一通の手紙を手渡すのをベルゼブブはみた、それは珍しいことだったからだ。上質そうな羊皮紙の封筒に赤い薔薇のシーリングスタンプの貼られたそれはどこか特別じみたものだった。

「ベルゼブブ様、お荷物でございます」
「あぁそっちに置いててくれ」

彼女は気にせずに自分のエプロンのポケットに手紙を直したがベルゼブブは荷物を適当に置くようにいいつつも彼女の背中を落ち着きなく眺めてはすっかりと手が止まってしまい、彼女はその視線に気付いてベルゼブブをみつめては休憩を挟むかと問いかけるが、ベルゼブブは少しだけ悩んだ後、彼女に問いかけてしまう。

「さっきの手紙、誰からなんだ」
「確認しておりませんでした、見てみます...ああ父の知り合いの御子息様からですね」
「なんでそんなやつから」
「確認致します」

そういった彼女は特に気にせずにベルゼブブのデスクからペーパーナイフを借りて、手紙を丁寧に開けると、中からは明らかに上質な封筒と同じ羊皮紙であり、彼女は一ミリも揺れぬ表情で一通り読んだあとベルゼブブに視線を向けて、平然とした態度で手紙の内容を報告する。

「近々またご夕食をという誘いでございました」
「なっ...!その相手とキミは知り合いなのか、というか”また”って」
「父経由でご紹介をお受けしました、二度ほどお食事を致しました。紳士的な方でございますが職務がございますのでお断りをさせていただくことが多く」
「それはつまりキミが何度も断ってるって?」
「ええはい、月の半分近く誘われますので、正直迷惑しておりますが、そろそろお断りするのも申し訳ございませんね」

有給休暇を取ったばかりなので休みを取るのは...と悩む彼女だがベルゼブブの胸中は穏やかでは当然いられなかった。バーモットはその相手が父親の知り合いの息子であり、彼女の家には並ばないがそれなりに上級悪魔の家系の相手であり、父バフォメットも珍しく好意的ではあるということにベルゼブブは妙な焦りを感じた。
バーモットは既に十分な大人であり、結婚やパートナーを考えるのには当然のことである。ベルゼブブは自分と彼女が互いに通じあることがあるものの、主従以外の関係ではないことは理解している。
彼女の反応からして相手に付き合うのは仕方ないという考えであるのが伺えるが、相手の熱量は完全に彼女を求めているのは目に見えてわかることで、ベルゼブブは冷静にいられずに落ち着きなく手紙を片手に予定を開けようと考える彼女に「その相手のことをどう思う」と聞いてはならないことを聞いてしまった。

「そうですね、情熱的な方かと...家柄も人柄も申し分ないことですので、望まれるならお答えするのもやぶさかでは」
「キミは清廉潔白を守ってるんじゃないのか」
「父のような生き方を断っているだけで、私個人の恋愛はまた別ではないでしょうか?」
「そっそうか...そうなのか?」

メイドとして生きるのはバフォメットの娘というレッテルから逃れるためであり、清く正しくあるということは決して純潔というわけではなく、心の美しさであるという彼女にベルゼブブは予想しないことを感じた。
つまり彼女は相手に求められるなら答えてもいいということだ。つまりベルゼブブではなく、ハデスでもなく別の相手を主人...否、それ以上の相手としてみるということなのだ。ベルゼブブの頭の中で見知らぬ男の隣で純白のドレスを身にまとった彼女が黄金の山羊の瞳を見せる姿を思い浮かべるなり、彼は珍しく後先考えずに彼女の手の中の手紙を奪うなりバルミュラの振動が手紙を紙くずに変えてしまう。

「ベルゼ...「嫌だ、キミは僕の隣にいてほしい、誰の隣にもいかないでくれ」

無我夢中で彼女の手を取りそういったとき、彼女の無機質な瞳が形を変えてしまうのをベルゼブブはみつめた、それは言葉にしなくてもわかってしまう言葉であり、バーモットは握られた手と焦りを抱いたベルゼブブの瞳をみつめては言葉を失った。

「それは主としての命令でしょうか」
「...いや、僕個人だ」
「つまり、それは私を”愛する”ということなのでしょうか」

その言葉に対してベルゼブブは理解していても口に出来なかった。
もしそれを口に出せば胸の中に宿る自分の本性が牙を剝いて彼女の心臓を奪ってしまうと理科していた。けれどもバーモットの黄金の瞳は変わることはない、反対に彼の闇を飲み込むようにして、そしてついに彼女はベルゼブブの頬に手を添えると唇を重ねては離れた。
互いの目を見つめ合うと、彼女はただ何も言わず、ベルゼブブは彼女の腰に手を添えて、互いにその瞳を眺めるようにもう一度唇を重ねるのだった。