蜂蜜ななつ




冥界の夜が深くなる頃、バルゼミアは一人ハデスの居城にある幼い頃から与えられてきた自分の部屋の広いベッドにブローチを外して寝そべっていた。幼い頃からハデスは全てを与えてくれた。欲しいと言った大きなクマのぬいぐるみ、お姫様になりたいといって与えられたシャンデリアや大きなドレッサーに天蓋付きの広いベッド、全てハデスが与えてきたものだ、愛も心も何もかもを。

日付が変わる時、城のどこかの部屋で時計の鐘がなる音が聞こえた気がすると同時に聞き馴染みのある靴の音が聞こえた、歩幅や歩く速度に靴の音全てで彼女はそれが誰かを理解してしまう頃、部屋の扉がノックされた、丁寧に三度。
しかし彼女は出ることも出来ずに戸惑っていればドアは開かれ、そこには数時間前とは違い、いつも通りの白銀のコートを羽織った冥王としての菅田であった。

「ハデスおじさま」
「毎夜、余の寝所に現れるはずのお前が来なかったのでな、余が自ら来たんだが」

なにも言えずにベッドから立ち上がったバルゼミアはまるでハデスから逃げるような態度を取るが、ハデスはすっかり捕食者のような眼差しで彼女をその深い瞳で見つめていた。
一歩ハデスが踏み込むと、バルゼミアも一歩後ろに引いた、気付けばベッドの横の壁際に背中をぶつけたバルゼミアの前にはハデスがおり、彼は彼女の顎を優しく撫でては黄金色の瞳を見つめた。丸い瞳孔は静かにぐにゃりと横長の山羊の瞳へと変貌し、彼女の黒い髪から小さく黒山羊の角が生えて、酔ってしまいそうなほど甘い蜂蜜の香りが溢れるのを心地よさそうに感じるハデスは彼女の手首を掴んではベッドに乱暴に押し倒した。

「この香りだ、何万年も寝かしたワインよりもずっと良い香りがする、ずっと嗅いでいたと思う余を酔わせる香りだ」
「だめ…おじさま…」
「バルゼミア、そなたは言っていたな、余の妻になりたいと、もちろん迎えよう、ずっと愛してやろう、百年以上みてきたのだ、お前が望むこと全てを与えてやる」
「痛い…やめて、おじさま…」

細い彼女の両腕を一纏めにすると、ハデスの静かな声がバルゼミアの耳に触れて、彼は唇を首筋から這わせると甘く食んで吸い付いては薄く赤い所有痕を残し、喉仏に舌を這わせてはもう片方の手がデートを終えて着替えていなかった彼女の短いワンピースの裾に潜り込み、太ももを撫でその奥に触れようとしてはハデスはまた唇を重ねた。
喰らい尽くしてしまいたいという欲望が溢れ出て、彼女の瞳を覗くとハデスの奥にある混沌が彼を刺激して、ハデスは彼女の下着に手をかけようとした時、唇を濡らしたバルゼミアの声が耳に届いた。

「ッ……」

それは声と呼ぶことさえできぬ声で、彼女の黄金色の瞳から涙が溢れた姿であり、ハデスはそれを見た途端に鈍器で頭を殴られたような気分になった。
そして彼が何かを言う前に、静かに涙を流す少女が愛すべき相手だった存在に呟いた。

「おじさまも、結局他の方と同じなのね、この血に狂わされる……この血と、女という肉体だけ、あなただけは違うと信じてたのに」
「バルゼミア、余は」
「痛いと泣いてもやめてくれない、怖いといってもみてくれない、ハデス様にとって、私は所詮」

黒山羊の悪魔なのですね。
そういった彼女がハデスの緩んだ手から抜けると逃げるように逃げ出してしまう、素足のままで何も持たず、ハデスは一人残されるや否やベッドの上で彼女を押し倒したままの姿で佇み、そして自分が愛するはずの彼女を傷つけてしまった事実について心からの後悔を抱いてしまうのだった。

「おはようございますハデス様、本日はバルゼミアが不在と伺いました為、参りました」

翌日やってきたのはバルゼミアの母であり、ハデス城全体のメイド長を務める黒山羊の娘バーモットがやってきた。温度感のない絶対零度の瞳と表情は今日ばかりはキツいとハデスは朝一番に顔を合わせるなり力なく笑みを浮かべ挨拶をするものの、執務室に現れたバーモットはハデスの傍に来るなり「お立ち下さい」と珍しく告げた。

「歯を食いしばってください」

その言葉に何をされるのか理解したハデスは指示通りにするやいなや、ハデスの白い頬が強く叩かれ、執務室の入口や外に控えていた者たちは目を丸くする。主人に何よりも従順であるメイドであった彼女が夫の恩人でもあるはずのハデスの頬を張ったからだ。
彼女は驚く者たちの部屋を出てドアを閉めなさいと命じた、あえて見せつけたのは彼女なりのハデスへの辱めなのだろうが、ハデスは決して何も言わずにその痛みを受け入れた。彼女がここまで感情をあらわにするのは珍しいことであり、そして何よりも納得できたからだ。

絶対零度のような表情でありながらバーモットが宿した黄金色の瞳は怒りを抱いているのが明白であり、それでも力加減だけはしっかりされているのだと感じたのはハデスが立っていられたからだった。
すまないと口にする前にバーモットが先にハデスに震える声が告げた、昨晩突然娘が泣きながら帰ってきたこととハデスの名前を呼んだこと、その日の朝は目に見えて明るく喜んでいたはずの娘がアレほどの悲しみを抱いて帰ってきたことについて、バーモットはすぐに自体を理解したと。

彼女の平手で赤く染まったハデスの頬は随分と痛々しいものだが彼はそれに触れることはなく、痛みを受け入れて目の前の彼女をみつめると苦虫をつぶしたように苦しそうな顔をした。

「あなたはご存知だったはずじゃありませんか、私がどうなったのか、そして私がどうしてあの子を心配するのか、それなのに貴方様がどうして同じことをしてしまうのですか!」

バーモットの悲痛な声を聞いたのは初めてかも知れなかった。
泣いてしまいそうな彼女の言葉の意味について考えた、黒山羊の悪魔バフォメットの娘として生まれ落ちた彼女はその姿を好奇の目でみられ、避けられ、不気味がられ、そしてベルゼブブと出会う前に幾人の恋人に傷つけられたことを。
バーモットの教育についてハデスはもちろん、周囲は一度も厳しいと思うことはなかった、彼女は自分よりも更に強い血を継いでしまった娘を守りたいという母の心しかないのだ。
過去に傷つけられたバーモットを知った時、ハデスは彼女の父バフォメットが冥界を沈めかけたことについて冥王としての処分を下したが、それでも一人の父親としては理解できており、彼もまた守りたいと思ったはずだ、そしてそれはその娘バルゼミアに対しても。

「あの子が何故あんなに明るいのかわかりますか?あの子はその道を選んだのです、祖父の血を継ぐと決めて、それ相応の姿を偽り。それ故に好奇の目に晒され、勝手な噂を立てられ、それが因果応報であるという者もいますがそうでしょうか?あの子は我が一族の誇りを守ろうとしているだけ、子という存在は親の性から逃れられぬカルマを得ていると、あなたは知っているはずです」

ハデスは言葉を失い、ただバーモットをみつめた、泣いてしまいそうな彼女の表情は娘が自分以上の苦しみを抱き、それでもなお道を進もうとしているからであり、それを裏切るような形で傷つけたハデスを許せないと思う母の眼差しだった。

そしてその言葉を聞きながらハデスはそれまでのバルゼミアの姿を思い浮かべた、奔放な振る舞いで自分を誘惑する姿、それはバフォメットという混沌の中にある確かな真実の愛であり、過去に何度も他を巻き込んだ姿に関しては彼女が次期当主として相応の振る舞いをしたフリをしているだけのこと、全て理解していたはずがハデスはあの時、自分の感情とその緩みによってあの血に身を任せてしまったことを思うと目の前の彼女をみることさえ躊躇われてしまう。

「あなたを信じた私が愚かだったのでしょうか」

そう言い残して去っていった背中を見届けたハデスは頬の痛みを噛み締めながら、呆然と立ち尽くした、部屋の中には紅茶の甘い香りがすることはなかった。

◇◆◇

ハデスは中庭を歩いていた頃、背後から聞き覚えのある声に呼び止められ、振り向くとそこは黒いカソック姿の一人の神、ベルゼブブが落ち着きなく手の中で小さなブローチ握りながら立っていた。
朱色のブローチは普段バルゼミアが身につけたものであり、ベルゼブブはそれを普段通りに調整していたのか、その輝きを失われないように磨いていた。

「バーモットがあなたを打ったとか」
「そうだ」
「妻がしたことについて、僕は一切謝りません」

謝る気もありませんと先に告げるベルゼブブの瞳は深い深淵のようであり、ハデスは謝罪を求める気もないとして、ベルゼブブと面と向かいあうことにした、数万年前死を求めてやってきた蠅の王ベルゼブブ、彼が与えられたリリスからの深い愛という名の呪い、サタンとしての苦しみ、そしてそれら全てを包み込み受け入れた妻バーモットを見守ってきたハデスにとって二人がどこまでも深い夫婦の絆を持っており、互いを信頼し慈しみ、そして同様にハデスを信じてきたかを彼自身理解していた。
彼は手元のブローチに視線を落としては淡々と言葉を紡ぎ出す。

「バフォメット卿があなたにバーモットを預けたのは、あなたが誰よりも『情』を重んじるからであり、バーモットが娘の自由を許したのは、あなたが誰よりも信じられる人だからだ」

僕だってあなた信じていますとベルゼブブが告げてはその瞳で真っ直ぐとハデスをみつめた。その言葉については彼自身痛いほど理解している。誰もがみな冥王ハデスを神の中の神であり、神々の長兄として信頼している、それを彼は苦に思ったことなどはなかった。反対にそう思ってもらえることこそ有り難いことだからだ。

「あなたはバーモットの『甘やかすな』という言葉を履き違えていたんじゃないんだすか」
「どういうことだ」

ハデスはわからないというように問いかけるとベルゼブブは妻の言葉の意味を説明した。
彼がバルゼミアを甘やかすこと自体を禁じていたわけではない、ましてや「女」としてみること、または「姪」としてみることについても恐れいていたわけではない。

「あなたがどっちつかずであることを彼女は恐れていた」
「……」
「中途半端な慈愛は残酷だ、バルゼミアは子供みたいに無垢で、あなたの愛が嬉しいのに、あなたが姪か女かどちらかはっきりさせずに中途半端に触れれば、あの子は信頼した相手に裏切られたと思い苦しむでしょう」

勝手なときは叔父を演じ、勝手なときは男を演じる、それはとても身勝手であり、一貫してハデスに愛を注いできた「女」であり無垢な少女の心を持った彼女の心を土足で踏み荒らすようなものであり、それに対してはベルゼブブもいくらハデスが恩人であり、信頼できる相手だとしても許せなかった。
そしてその瞳はサタンを宿した瞳として燃え上がっているのが見て取れており、ハデスは何も言えずにベルゼブブをみつめると彼はその手の中の娘のブローチを手渡した、それはかつて彼が妻を守るために作ったブローチと同じものであり、ベルゼブブの愛は不変であることを意味している。

「ハデスさん、僕はあなたを信頼しています。しかしそれ以上に娘の父だ、中途半端な毒を与えるのなら僕はあなたから二人を連れて去る。よく考えてください」

それだけですと言い残して去っていくベルゼブブの背中もまたバーモット同様に娘を思う父の怒りを抱いた背中であり、一人取り残されたハデスは手の中のブローチをみつめた、それは自分の心臓のような色を宿している。
ブローチは本来彼女を守るためのものであった、そしてそれを持つハデスこそが今彼女を傷つけているのだと痛感しては彼はブローチを握る手を強めては言葉にできぬ公開だけを強く感じた、それは彼の長い人生の中で一番の痛みであるのかも知れない。

◇◆◇

「随分といい顔をしておるではないか冥王よ」
「バフォメット、貴様までか」
「我が孫を泣かせ、我が娘に打たれ、ベルゼブブに説教をされ、全くここ数万年の中でも特に面白いことになっているな」

あの両親が来た中で、この黒山羊の悪魔が来ないわけがないとハデスが思っていたものの、黒い影の中から静かに現れたバフォメットは普段とは打って変わって静かであり、いつものような混沌の空気も流さない。かつて娘が傷つけられた時に冥界に大打撃を与えたような黒山羊の悪魔に殺されてもおかしくはないだろうとハデスは思っては椅子に座っていれば、バフォメットは静かに彼の執務机の上に座っては足を組んだ。

「ハデスよ、お前には随分とバカなことに付き合わせてきたつもりだが、そんなお前がバカをするとは思わなかったぞ」
「自分でも思っているところだ、大愚かであるとな」
「だが、それもまた混沌と言う名の楽しみだ、神も人も、生きとし生けるものは全て愚かであり、そして自由と解放と秩序と混沌を求める生き物だ」

お前もバルゼミアも例外ではないと語る黒山羊の瞳は決して冗談を言いにきたわけではないことハデスは理解しており、バフォメットは自身の魔術で二人分のティーセットと紅茶を用意すると慣れたように注いではハデスの前に差し出した、うっとしてしまいそうな甘いハチミツの香りがする紅茶はまるで自由奔放なあの娘のような香りだと感じる。

「あの娘は如何せん余の善なる混沌を引き継いでいる。それ故に無垢でありこの黒山羊を継ぐというのだ、それはもう嬉しくてたまらんよ、しかしハデス、女心とは複雑だなぁ」

その独特の目を細めるバフォメットは執務室の中を歩いてはハデスとバルゼミアが二人で映った写真をみては微笑ましそうにしては話をする。
バルゼミアは誰よりも血を守り、誇りを持ち、そしてそれを紡ごうとしている。それはどこまでも良いことでありバフォメット自身が誇らしいと思えた。決して娘バーモットが彼の血に苦しみ拒絶したことについて嘆くとはないが、反対に受け入れると決めたバルゼミアについては嬉しいとも感じるのは当然だった。
しかし、バフォメットという悪魔(神)はあまりにも神界において混沌を置いてきた存在である。生と死、秩序と混沌、性と無、知と暴、ありとあらゆる正反対のものを受け止め中立と平等を与えるべき存在とした存在。それは通常の型に収まらぬ存在であり、人の形、女の形を得てしまった彼女たちバフォメットの血を継ぐ者を偏見の目でみることは仕方ないことであるとした。

「だがそれ故にあの娘は演じたのだ、バフォメットの血を継ぐ者として、人々の目をみて、評価を得て、全てが『黒山羊の悪魔』の後継者として」

その言葉にハデスの身が固くなる、自分を誘惑し、笑いかけ、誰よりも他人を困らせようとする存在はまさにバフォメットの血を継ぐ者であると評価するが、それは彼女が演じているに過ぎず、気まぐれでも本性でもなくその誇りを自分なりに守るためであるのだとしたら、それならハデスは彼女の何も理解などしておらず、ただ表面だけをみていただけのことだと気付き、思わず万年筆を握っていた手に力が入ってしまう。

「それでもバルゼミアがお前を愛する気持ちだけは本物だ、そしてハデス、お前も本物なのだろう、全くお前は不器用であるからな、ベルゼブブはどっちつかずだと怒っていたようだが、それで良いのだ」

それでも向き合う心があるのな、それこそが正しいものであり、いつだってその感情や世界は全て歪なのだというバフォメットは神界の賢者と呼ばれる神にふさわしいものなのだろう。
そうして言い残すなりまた影として消えていった黒山羊の悪魔はすっかりと世話を焼きに来ただけだったようで、ハデスは手元のティーカップの中を見つめると、そこには溶けきらなかった砂糖が塊のままとなっており、ティースプーンで溶かすハデスはそれが溶けきるまでしばらく考えることにした、それが甘みを帯びた毒であるのかどうなのかを考えながら、それでもその毒を飲むのかどうかを検討して。

◇◆◇

その頃、バルゼミアは珍しく冥界の最深部にも近いバフォメットの館の自室のベッドで横たわっていた。
昨日から忘れられぬ熱と恐怖を抱き悩んでいた頃、金属の足の音が聞こえると、それは容赦なくドアを開けるやいなや「相変わらずガキくせぇ部屋だな」と置かれていたぬいぐるみに文句を吐きながらベッドに腰掛けては沈んでしまうことにバルゼミアは枕に顔を埋めながら相手を見た。

「なぁにアダマスおじさま」
「いつまでもぴーぴー泣いてやがるから来てやったんだよ、全く辛気臭ぇ面しやがって、お陰でここにいってるのにその気にもなれやしねぇ、代わりに俺がテメェのこと抱いてやろうか」
「おじさまはそういいながらいつも優しいでしょ、私知ってるんです、メイドのお姉様達にもいつもフリだけだって」

やってきたハデスの弟アダマスにバルゼミアは柔らかい声で答えるとアダマスは目を見開いて怒鳴りたい気持ちになるが、今の彼女の事情を知る以上は普段のように責める気にもならずに見つめた。

「兄者に泣かされたのか」
「泣かされてません、勝手に泣いてるだけです」
「手を出されてビビったのか、そんなに怖かったか?テメェが欲しがってた癖に」

図星だった。
それまでバルゼミアはハデスに過激な真似をしていると自分でも理解していたのは、彼以外にそんなことをしなかったからだ。祖父バフォメットは混沌の化身であり、ありとあらゆるカオスを巻き起こしていたものの、バルゼミアはその力を自ら振るうことは出来ず、反対にそれを制御できないゆえに怯えた。

バルゼミアがハデスを思う様になったのは幼い頃からで、成長と共に確信したのは安心感から来るものだった。他の異性からバフォメットの血を継ぐからといわれて好奇心と下世話な視線を向けられ、能力が暴発した際に獣のようになった人々を見た時、バルゼミアは本能的な恐ろしさを理解した。
黒山羊の悪魔バフォメットという名はまさに天災であるとされ、避けられるのなら避けるが、反対に手に入れて自分だけのものにしたいと願う歪な者もいる。
それが彼女をずっと傷付けてきたものであり、ハデスはどんな時でも決してそれを崩さなかったのだ、あの瞬間まで。

薄暗い公園の木々の中で押し付けられた時も、ベッドの中で掴まれた時も、見たことの無い彼の金色の瞳は自分と違う執着と支配を持っており、それは簡単に相手を壊す暴力に近いものだと理解していた。

「遊びで手を出したガキじゃねぇんだ、兄者はずっとお前の"約束"を覚えてるし、それを本気で受け止めてやってた、お前が望むのならな。何を怖がる必要があるんだよ」
「だっておじさまは私のことそんなふうに見た事なんて」
「ある、ずっとそうしてみてた、だけどお前を思ってマトモな論理感のある大人でいようとしただけだ、お前のことを誰よりも女として見てるからお前のことをいうし想うだろうが」

家族だけには見せないはずだとアダマスがいうものの、バルゼミアは幼い頃から見てきたハデスの顔しか浮かばず、知らないものはあの一瞬の男としてのものだけだった。
けれど本質は違う、女として意識するからこそ悩み、困り、苦しんで、そして時に甘やかし、時に厳しくして、時にその愛を伝えてきてやった。

「不器用なんだよハデスは、惚れた女を拉致したり襲ったり、自分の中で一回キレると抑えらんねぇ、俺たち兄弟の中じゃ一番タチが悪ぃ」
「おじさまが?」
「あぁその分、俺達の中で一番一途で本気の愛しかしねぇよ、お前に対しても」

好きだからこそ我慢をし続けるがグラスはいつか溢れてしまうもので、ハデスはよくもったものであると語るアダマスはハデスの悩みもバルゼミアの苦しみも理解しているが、バルゼミアはそれは分かっているが今更時を戻すことはできない、あの時逃げてしまったのは一度ではなく二度だった、ハデスを弄び苦しめたのは自分だと珍しく弱々しくいうことにアダマスは深いため息をつくと彼女の頬を掴んで引っ張った。すると頬は面白いほど伸びてアダマスは意地悪に笑った。

「今のお前は自分で仕掛けた火に驚いて火元から逃げ出した臆病者でしかない、よく考えろよ、テメェが本気でハデスを望まねぇのならお前と切り離すことなんて簡単なんだからよ」

それはアダマスがするのではなく、バルゼミアが望めば決して交わることの無いようにしてくれる者たちがいるはずだ、だからこそどうしたいのか考えろというアダマスは彼女の頬から手を離して、優しく頭を撫でると「まぁガキはガキらしく、うめぇものでも食って寝てな」と言い残していくことに、力が抜けたバルゼミアは横になりながら深いため息を着いた。
戻れないと分かっていても、それでも自分はあの人が嫌だった訳ではなく、怖かっただけであることなど、誰よりもずっと理解しており、彼女は自分の頭に触れるとそこには立派な黒山羊の角があるのを感じた。

「ハデス様」

臆病者だなんてそんなことはとっくに分かってると思いながらも裸足で逃げてしまったあの時の痛みを思い出して、少しだけ瞼を閉じた、出来れば優しい夢が見られたらいいと思いながら。