鴻鳥サクラ








どうしようもないほど荒れていた、親も世間も何もかも嫌いで大人のふりして夜の街を歩いて
美味しいと感じることもない、苦くてきついお酒を飲んでいた、それがいいことではないのは自分がよくわかっていた
途中でやめた学校もあまり続かないバイトも全部他人のせいにして、一人で育て上げてくれた父親にも反抗した
そんな時、まだ何者にもならなかった彼に出会った
客の帰ったあとの時間に突如現れて慣れたようにマスターはみつめた。


「今日はなにがいい」

「…少し優しい曲がいいな」

ジャズだけは何よりも心を癒した、彼のそのピアノの音色だけは、誰よりも優しい音だった



「大丈夫?茜さん」

「大丈夫大丈夫、少しぼーっとしちゃってたね」


そう言って笑ったまだ少し若そうな女性、カルテには星水茜と書かれていた
現在31週目、予定日まであと数ヶ月もあった、特に異常もない中、通常的な妊娠経験をしていた
早まる様子も今のところはなく、エコー写真でもハッキリと大きな体が見えた

鴻鳥サクラはそんな彼女とは奇妙な関係であった
もう一つの顔をもつサクラの一番の客であるのかもしれなかった
「私、BABYが好きなの」と告げた彼女が安心するよう検査時でも小さく彼女のスマートフォンで取り込んだBABYの演奏するジャズを流した


「パートナーは…来るって?」

「言ってたけどどうだろうね、親子揃って意気地無しのヘタレ野郎だからさぁ…まぁ親の顔してきたとしてもどうでもいいよ」

「相変わらず茜さんって強いね」

「…うん、親父が私のこと育ててくれたみたいにこの子にしてあげなきゃ」


大きく張っているお腹にそう呟いた彼女が母になるなど想像もしていなかった
いつもライブの最前席の真ん中で1人だけ席を取り、食事と1杯のウイスキーを口にする
17歳の頃だったか、寒い秋の日に彼女はまだ名前も出ない鴻鳥サクラのピアノに魅入られた

話をして笑いあってピアノを楽しみ愛し合った時期もあった
けれどそれは過去の話で、最後は結局彼女の親の事情があった、シングルファーザーで大工をする父親も持つ娘、跡を継げというわけではなかった、それでも父を思って弟子入りをした
若さ故の過ちに子供が出来た彼女は堕ろしたいと願ったのをサクラは許さなかった


「この間のライブもすごく良かったし、次が楽しみだなぁ」

「あんまり大きな声で言わないでよ?院長に言われちゃうんだからさ」

「へへへっ、だって私サクラさんもBABYも好きなんだもの」

「…うん、知ってるよ」


誰よりも愛し合ったと思っていた
もちろん年の差だってそれなりにあった方だ、けれど愛は確かだった
医者と大工の娘、どちらもある種複雑な家庭環境で育ちもしたが、それでも確かに求めあったのだろう
今目の前で笑う星水茜はあの頃と何も変わらなかった、サクラも何も変わらなかった

一通りの検査を終えてその日のエコー写真を渡されたのを嬉しそうに笑った


「じゃあまた」

「うん、何かあればすぐ連絡入れるように」

「え?サクラさんに?」

「っぶ!!ちっ違うって」

「わかってるよ、からかっただけ」


そう言いながら笑った茜にそっと胸をなで下ろした
彼女に子供を宿らせた男はいい男ではなかった、同い年のどうしようもないフラフラとした男だ
茜はその反対でしっかりとした女だった、そんな二人を知ってるのか小松に至っては「茜ちゃんには、どうしようもない男とか弱い男がどうしても付いちゃうよね」なんて言っていたのを思い出す
確かにその通りだ、弱い男は強いものを求めてしまう、逆に強い男が強い女といればそれはもうお互い手の出し合いになるのだろう


「こんにちはサクラ先生」

「どうも茜さん、調子は?」

「いよいよだなぁって思ったら、なんかねぇ…怖くって」

「だよね、でも大丈夫、僕らもついてるし君のお父さんも待ってる」

「サクラ先生、私陣痛とか破水とか来てる時も手術中もBABYの」

「Caravan?」

「そう…熱いくらい痺れるようなさ」


そう笑った
その二日後だ、予想よりも何周か早くに彼女は前期破水を起こした
父親の車に乗せられて小さく破水した彼女は至って冷静だった、病院にくる間に陣痛が来たのか子宮口はもう3cm開いていた、彼女のカバンを漁りスマートフォンのミュージックに入っているたった一人のアーティストの下、不明アルバムと書かれたそれにCaravanと書かれた曲が一つ


「…っサクラさ、ありがとね」

「うん、頑張ろう茜ならきっと強い子が産めるから」


理由を知る彼女の父は黙って見つめていた、何もできることはなく彼女は痛みに耐えていた
叫びながらも必死に力み、初産にしてはえらく冷静で的確なことをして、僅か一時間半で産み落とした
子供の顔を見ながら彼女は頬を緩めた


「サクラ先生、この子ねぇきっとサクラさんの曲聴きたくて走って出てきたんだと思うんだよね」

「それなら僕は、とっても嬉しいね」

「うん」


父親のいない出産なんていくらでもあった、若い出産、高齢出産、いろんな出産があって
その中でも茜は楽に産めた方だ、赤ん坊をみつめる瞳は母親であった
翌朝、検査のために下屋と2人で病室に訪れた時には大きな声が聞こえた
それはその子供の夫になる予定だった男にその家族なのだろう、笑ってやってきて子供の顔を望んで


「どんなに言われても私はもうあんたにあの子は見せない渡さない!逃げたような人間に触れさせるか、帰れ」


音を立てて男顔目掛けてペットボトルの中のお茶をかけた彼女は相変わらずだと思えた
何よりも安心して、強い母親だと思えた、ほかの看護師や医者も大きな騒ぎに駆けつけたが星水茜だと知るやいな小さく笑った
この病院の中でも特に強い母親だ、大部屋のため他に三人もいるがそのうちの1人もまたシングルマザーだった


「サクラ先生」

「どうですか、体調は」

「元気だよ、あの子もしっかり生まれたしね」


屋上の風を浴びながらそう安心する



「…ずるいかもしれないけどね、私さ…サクラさんとの子供がよかったなぁ」

小さな言葉は風にさらわれることもなく確かに届いて、思わず目を丸めてみつめた
恥ずかしそうにまるで初めて好きだと告げた時のように頬を赤らめた
拒絶する理由も何もなく近づいた彼女の腕が回されて抱きしめられる


「サクラさんとなら、結婚したかった…けど邪魔できないからさ」

「…茜は、ずっと付き合ってた時もおもってたわけ?」

「そうかも、私ほら…最低だもん」

息が止まりそうになる、恐る恐る背中に腕を回して顔を上げた茜の唇に重ねる
数時間前に子供を産んだばかりの人間に何をしてるのだか…と思わず医者として思えていれば気にもしてない茜は笑う


「サクラさんも好きでいてくれた?」

「…今それ聞くかぁ」

「だって子供産んだし…フリーだからさぁ」

「うん、僕も茜が好きだよ…だから僕と一緒にあの子のこと頑張ろう」


きっとバレれればクビかもしれないなぁなどと思わず思えた
けれど愛していたなら許して欲しいと願う自分もいた、嬉しそうに笑う彼女は何よりも強い母親になる女だろうと確信し、チラリと扉を見た先に小松筆頭に女性陣…挙句院長まで居るなどとは思いもよらぬ出来事だろう。





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