貴方の心になれたら


漫画映画ドラマなんて所詮フィクションの世界で恋愛に綺麗も可愛いも糞もない互いの汚い欲望をぶつけてそれを幸せだと認識するだけ
初めてその行為をする前はずっと身体を重ねるという事が美しくて綺麗で愛を確かめる最大の行為だと思った、けれどそんなものは夢物語のようなもので私自身を1つ大人にさせた

「この店初めてなんだよ、何がうまいんだ」

「枝豆」

「ははっ、じゃあ適当に頼むわ」

「知り合いでしたっけ貴方と」

「ガキの知り合いはいねぇよ」

居酒屋のカウンター席に1人で座る女相手にそう話しかけてきた男、それが伏黒甚爾だった
黒い髪に聞いてやりたくなる顔の傷、よく見ればイケメンと言うよりは男前というような男で無駄に少し白い肌は黒いシャツがよく似合っていた

「そんな顔するなよ、初めてじゃないんだろ」

「初めてっていえばもう少し優しく出来んの」

「さぁな」

家出をして夜の街で稼ぐようになってもいい住まいなんか到底手に入れられなくて、この狭いワンルームが自分の城だった
そう言えば久しぶりに男なんか家に入れたなと思って疲れきった体で起き上がり冷蔵庫の中からビールを2本取り出して片方投げる、泡立つと文句気な顔した彼のことなど気にもせず冷えきった発泡酒を喉に通す

「私智花って言うけど貴方は」

「あー、甚爾だよ」

「家あるの?」

「いや女の家を行ったり来たり」

なんの仕事してるんだとか、苗字は?とか、どうして女の家ばっかいってんのか、年齢はとか本来ならば何十個も聞きたい質問なんてあった
けれど何となく自分と似たような状況であろう男にそんなことは言えずに

「鍵いつもポストの開けたところに貼り付けてるから、まぁ勝手にしていいよどうせ金目のものもないし」

「おー、よろしくお礼に身体で返してやるよ」

「別にいらないし」

それから甚爾との日々はそれなりの期間がすぎた何年だったとかはあまりハッキリしていない、気紛れな猫みたいに突然来てはなにか思ったような顔で抱いて抱かれて、2人でデートすることも手を繋ぐことも、愛を囁くことも無い
ただ家主とヒモみたいな関係だった、ヒモにしても自由に行き来するものだからもういっその事猫のようなものだ
家柄はいいのだろうと食事作法や生活を見ていれば何となく察する、骨の多い魚を出しても綺麗に食べる彼には惚れ惚れとした

「味付け変わったよな」

「甚爾さんが味付けにうるさいからでしょ」

「俺好みにしてくれてるってか可愛いこと言ってくれる、そんな智花に免じて今度俺が作ってやろうか」

「ご飯作れるんだ」

「インスタントラーメンな」

「そんなこったろうと思った」

乾いた笑いが出て2人していつも通りグダグダと時間を過ごす、映画を見て雰囲気が良ければベッドに流れ込み、狭いシングルベッドを男女で過ごす
朝目を覚ませば居たり居なかったりするあの男に何も言うことはなかった毎日来ることもあれば、ひと月程来ない時もあるから何も不思議なことは無い

「どうしたんだい智花ちゃん」

「…いえ、なんでもありません」

仕事途中に見えた男女にふと目を奪われる、紛れもないあの男は甚爾だと理解した、もう半年ほど家に来なかったかと思えばそんなことかと納得する、ここで嫉妬をしたりするようなかわいい女ならどれだけ良かったのか20歳すぎの女はそんな感情など初めから持っておらず、ただ静かに彼が笑えたら良いと心の底から思えたのは自分に向けたことの無い笑顔をあの綺麗な黒髪の女性に向けていたからだろう

それから仕事に行く前にその道を通るように遠回りをすれば2人の姿は定期的に見れた、スーパーの荷物を持ってあげて彼女の会話に優しく相槌を打つように、そのうち彼女のお腹が大きくなっていき2人を見守ることも止めた
二度と家に来ることが無くなった男になんの未練もなく、夜の仕事もお金が溜まったことにより辞めて昼職についた、もうそんな過去の男のことを忘れてすぐの事だった
相変わらずワンルームの家に住んでいたとあの男は分かっていたのだろう、1枚の紙切れが入っていた

「…本当最低だよ甚爾さん」

恋心を知っていたのに私たちは知らないふりをし続けた
これは彼なりの信頼なのだろう、団地のチャイムを鳴らして高鳴る心臓をどうにかしたいと深呼吸する

「はーい、どなたですか」

「…えっと、伏黒さんの家かな」

「はいどうしましたか」

「お父さんの友達なんだけど」

「あの父はもう」

「うん、知ってるのだから貴方達助けになれないかなって」

きっと彼は知っていた、仕事前に見に行っていたことも
目の前に現れた少女に胸が苦しくなって泣き出してしまえば彼女は優しく背中を摩ってくれる、奥からでてきた少年はあまりにも彼にそっくりだ世界は残酷できっと彼はこの家にも私の前にも二度と現れないような気がした

「そっちの子の名前は?」

「ほら、挨拶して恵」

「…伏黒恵」

あぁ本当拗ねたようなその顔もお父さんそっくりだって言えばきっと彼は嫌な顔をするんだろう。と思いながら話をする
愛も恋も分からないけど彼の残したこの家だけは大切にしていきたいだなんて我儘に思った。

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