負け犬の遠吠え小説一覧Hard to Get

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 動揺していたのはほんの数秒に過ぎなかったはずだ。しかしベラトリックスが動くことに気付けなかった。手指に挟んだ小さな刃で、彼女はロープを切り裂き自由を得た。細いベルトで脚に装着していたナイフを、素早く抜き取りシリウス目がけて一直線に投げた。
「ッ、プロテゴ!」
 魔法の盾は間に合わなかった。咄嗟に体を捻ったが、ナイフは右腕を突いた。
「くっ……」
 取り落としかけた杖を何とか握り直したとき、ベラトリックスが低い姿勢で獣のように突進してきた。
「ステューピファ、」
 痛みに手が思う通り動かなかった。脚にしがみ付かれ蹴り上げた。意図したわけではないが腹に当たった。やはり野生動物のような絶叫を上げ、ベラトリックスはしかし離れない。しまったと思ったときには遅く、足の下の杖を奪われていた。
「アバダ・ケダブ……!」
 この至近距離で狙われては逃げられない。シリウスは全力で彼女の顔を蹴りつけて言葉を防いだ。上空から、ジェームズの声が呼んだ。
「シリウス!」
「スチューピファイ!!」
 今度こそ、痛みをおして杖を動かし、呪文を唱えた。ベラトリックスを失神呪文を真正面から受けることは回避したが、バランスを崩し地面に倒れた。杖先がシリウスから逸れた。一瞬安堵しかけたが、彼女は意図的にそうしたのだった。左腕を、ベラトリックスは杖先で押した。それが何を意味する行動なのか、シリウスには分からなかった。ジェームズが、そしてリーマス、ピーターが、箒に乗って下りてきた。
「シリウス! 無事かっ?」
「あ、ああ……」
「……彼女は?」
「ベラトリックス・レストレンジ。俺の従姉様だ」
 四対一ではどう考えても多勢に無勢だ。四本の杖を向けられ、ベラトリックスは長い黒髪を乱してシリウスたちを睨みつけた。先ほどの殊勝な態度は演技だったらしい。妊娠しているというのもきっと嘘だったのだとシリウスは自分を納得させた。爛々と憎しみに光る目。赤い肉厚な唇を、彼女は一舐めして急に声を上げて笑い出した。
「ああ、ほら、迎えに来てくださった、私を……!」
「何だって?」
 ジェームズが眉を寄せたそのとき、中空に真黒な渦が発生した。その場に姿現ししたのは、赤い蛇の目を持つ長身の男だった。
「……おいおい、敵の総大将だ」
 ジェームズが乾いた笑い声を上げた。シリウスは思わず親友の横顔を見た。冷や汗が伝っていた。
「大丈夫だ、凌げる」
 きっぱりと言い切ると、面白そうな視線を寄越された。
「へぇ、そうなの?」
 少なくとも、シリウスの知る「以前」はそうだった。あの子供は、「闇の帝王に三度抗った者たち」の元に生まれるのだ。……前のときは、フランクとリリー、そしてアリスもこの場にいた。ヴォルデモートを呼んだのはベラトリックスではなかった。少しずれている。少しずつ……未来が……
「プロテゴ・マキシマ!」 ピーターが上ずった声で魔法をかけた。
「プロテゴ・ホリビリス」
 防御呪文が得意なリーマスもそれに続いた。シリウスはジェームズと目配せし、同時に左右に分かれ飛び立つと、一斉に攻撃魔法を繰り出した。ヴォルデモートがそれを防ぐ時間に、ベラトリックスに全身金縛り術をかけておく。もう捕えることはできないだろうが、ヴォルデモートを援護されると厄介だ。リーマスとピーターも一旦箒で空に浮かんだ。
「フリペンド!」
 シリウスの魔法に、リーマスが複製呪文をかけて増強した。杖の数振りで跳ね除けられた。
「アグアメンティ」
 そしてその呪文を唱えたのはダンブルドアだった。突如現れ、魔法を使った。地面のあちこちから噴出した激しい水流がドラゴンと化してヴォルデモートを襲った。怒りの声を上げ、ヴォルデモートは炎の蛇を杖先から出して戦わせた。
「ダンブルドア、なぜ私がここに来ると分かった」
「さて、偶然ということもあろう」
「お前は姿現しを使っていなかった……!」
 このときばかりではない。ヴォルデモートはさぞや疑問なことだろう。実現するはずだった計画、現れる場所と日時、まるで未来を知っているかのように、先回りをされるのは何故なのかと。
「もし、儂に分かる未来があるとして……」 ダンブルドアは飄々と告げた。「不死鳥の騎士団はそなたらに負けんということだけじゃろう」
 ジェームズが武装解除呪文を投げかけた。ヴォルデモートは鬱陶しげにそれを払いのけようとする、その腕の動きを先読みしシリウスも無言呪文を唱えた。関節に負荷を。水竜に抗う蛇の力が一瞬弱まる。その隙をついてダンブルドアが、彼にしては珍しい、荒く強い口調で魔法を放った。大きな爆音がした。激しい風が突如吹き荒れ、シリウスたちの箒が流されそうになる。その中心から憎しみのこもった叫びが聞こえ、風が止んだときにはヴォルデモートとベラトリックスの姿は消えていた。
「やれやれ、かのぉ」
 地上に降り立つと、ダンブルドアは皆の姿を見て苦笑した。
「……皆ボロボロじゃの。しかし聖マンゴの世話にならねばならん者もおらなさそうじゃ。一度ホグワーツに来るといい。怪我の治療に卒業生をいっとき校長室に招くくらいは許されよう」
「あの、まだリリーとフランクが」
「先に回収しておる。フランクは入院じゃ」
「僕はリリーのところに戻ります。怪我も大したことないし」
「気を付けて、ジェームズ」
「ああ、君たちも」
 ジェームズ以外の三人はダンブルドアの言葉に甘えることにした。姿くらましをし、懐かしい母校の校門の前に移動した。そこからは徒歩で城内に入る。校長室には、この深夜に起こされたのだろう医務室の主が待機していた。
「僕は擦り傷だけです。シリウス、君の右腕が先だろう」
「あ、ああ……」
 ピーターに言われ、シリウスが最初にマダムの治療を受けた。すぐにマクゴナガルもやってきた。
「ああ、皆さん……」
 元教え子たちの姿に、彼女は痛まし気な顔つきをしたが、一瞬だった。
「ハーブティでも入れましょう。ホットワインの方が?」
 治療をリーマスと交代したシリウスは、ありがたく紅茶を口に含んだ。気付いていなかった口の中の傷に染みた。血の味もする。シリウスが顔を顰めていると、ダンブルドアは「熱すぎたかの」などと間抜けたことを言った。
「そういえば、先日、新しい占い学の教授の面接を行ったんじゃよ」
「そう、それ」
 マクゴナガルが些か憤慨した顔つきで頷いた。
「何度も申し上げましたが、ここ、ホグワーツの校長室でする必要が? 勿論、シビルを疑っているわけではないのですが」
「一番安全な場所じゃろうてなぁ」
「面接は秘密会議とは違いますでしょう?」
「……それで?」
 シリウスはダンブルドアの話の続きを促した。カップを持つ自分の指先が白くなっていることに気づき、慌てて皿の上に戻した。小さくかしゃりと立った音に、斜め前で大人しく包帯を巻かれていたリーマスが視線を寄越した。
「うむ、採用になった。面接は、滞りなく終了した。何事もなく、つつがなく」
 ダンブルドアは、あえてシリウスを見ずに答えた。世間話の雑談のようにさりげなく、彼は重大な事実を告げたのだった。
 ……予言は、なされなかったのだ。
 シリウスの知る未来は変わった。わずかなずれなどという問題ではない。不可逆的に。決定的に。これでヴォルデモートはハリーを狙わない。ジェームズとリリーの命が助かるかもしれない。
 未来は、変わった。
「シリウス、どうしたの?」
 喜べよ、と自分の胸に拳を置く。温かな感情の代わりに吐き気が込み上げた。
「ちょっと失礼」
 校長室を出て、一番近くにあったトイレに駆け込んだ。戦闘の前に食べたサンドイッチ(リリーの手作りだった)まで吐いてしまう。つわりかよ、と自嘲した。そして反芻した。無数の声が蘇る。


(何事もなく、つつがなく)
(お腹に子供が)
(シリウス、皆、えーと……その……リリーが、妊娠した)
(子供の名前は)
(ハリー)

 ハリー・ポッター。



 死ぬはずだった人間が生きる。
 ではどこかで、生まれるはずだった人間が生まれず、生き延びるはずだった人間が死んだかもしれない。
 それでもいいじゃないか、と嘯く自分がいる。
 他の奴なんて知ったことじゃない。全部を救えるはずもない。
 自分はただ生きているだけだ。他の誰とも同じように、ただ生きている。精一杯、自分の手の中のものを守るために。ただ、生きて……死んだ後に……また、生きて……
(生まれるはずだった人間)
 未来は変わった。ではその結果、もしもハリーが、生まれないことになっていたなら?
 ロン・ウィーズリーが、ハーマイオニー・グレンジャーが。
 今はまだ存在しない多くの命。
 状況が、環境が、世界が変わったことで、存在そのものが消え失せたのなら?
(違う。違う。違う。だとしたら「私」がここにいない)
 矛盾している。シリウスがいることで未来は変わり、しかし変化した未来では、自分の知るシリウス・ブラックの人生と死が導かれない。
 あり得ない未来。
 望んだ未来。
 誰も知らない、語られない物語。
「パッドフット?」
 頭ががんがんと痛んだ。解放を求める誰かが、内側から頭蓋を叩き割ろうとでもしているかのようだった。
「パッドフット、どうしたの?」
 背後から呼びかけられた。
「……ワー、ム、テール」
「大丈夫? 水持ってくる?」
「いや……」
 今何か口に含んだとして、飲み下せそうになかった。厚い掌が躊躇いがちに背に触れた。いつもなら拒否するけれど、そんな元気もなかった。
「大丈夫?」
 大丈夫に見えるか、と気遣いを嘲笑いたかったがそんな余裕もなかった。なぜリーマスではなく彼が来たのだと思った。リーマスが治療中だったからだろう。
「他にやられたところあった? 頭とかは打ってないよね? 大丈夫?」
 ピーターは繰り返し問いを重ね背中を撫でた。なかなか眠れなかった一時期に、よく弟がそうしてくれたように。
 不安そうな小声だった。もしかすると様々なものを犠牲にして突き進もうとしているこの道の先で、自分は彼に対し何を望むだろう、と思った。
 まだ為されていない罪と、今ここにいる己を思った。
「私が……」
「うん?」
「私、は……今、生きてる」
「……うん、さっきは少し危なかったね、僕達みんな」
「少なくとも今、死んでいない」
「うん」
「生きている」
 撫でていた手が止まり、ピーターの声がふと泣きそうに歪んだ。
「うんそうだね。生きてる。温かいし」
 ぎゅっと背中に抱きつかれた。
「生きててね」



 いてくれる方がいい。
 そう小さく告げた弟の声を思い出す。
 それは望みだった。
 生きていてほしい。
 それは自分だけの望みだと思っていた。だけど違うのだ。
 ――――改めて実感する。以前のシリウス・ブラックが、このような「今」を知らなかったのと同じように、これから先、未来は白紙だ。嘆こうと、怯えようと。
 ただその望みと共に生きるしかない。



「ワームテール、俺たちのこと好きか?」
 振り返らずに、そう問うた。学生時代と同じ質問。ピーターはしばし無言だった。そして静かに答えた。
「大好きだよ」
 イエスと頷く、その言葉の末尾がまだ震えていた。
「大好きだよ。だけど信じられないと言われても仕方ない。僕はまだ何も成し遂げていないから。仕方ない。だけどこのままで諦めもしない。いつか信頼は行動で得る」
「……そうか」
 シリウスはそれだけ答えると校長室へ戻ろうとした。しかしガーゴイル像の前で立ち止まり、やっと振り返った。まだピーターはそこにいた。シリウスに何かあったら支えるつもりなのだろう、気丈な顔つきをしていた。シリウスはやっと、やっと躊躇いを捨て、彼に右手を差し伸べた。ピーターは一瞬きょとんと瞬き、それから真っ赤な顔で、恐る恐るその手を握った。
「裏切るな」
 そう望んだ。
「君たちを? まさか!」
「さきほどのお前自身の言葉を」
 友情を、とは言えなかった。今自分達は友人なのだろうか。シリウスには分からなかった。命奪われ、過去に遡り、目覚めたあの夜から、自分達は友人だったのだろうか。
 少なくとも自分の態度はその名にそぐうものではなかった。しかしピーターはしっかりと頷き、真っ直ぐにシリウスの目を見て告げた。
「裏切らない。どちらも」

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