溺れているのは

「いずみくん!!」

そう言って俺を目にした途端、パッと表情を明るくさせてにこやかな笑顔を浮かべた少女。パタパタと此方に駆けてくる少女。いつの日か見たこの懐かしい光景は、夢なのか幻なのか。

「……なに」
「いずみくん!!見て!!」

ドヤっと効果音が付きそうなぐらい自信に満ちた様子で、差し出されたのはおとぎ話の絵本。そんなの興味ないっていくら言えば、こいつはわかってくれるんだろうか。

「…興味ない」
「いや、見るんだよ」
「やだ」
「見るの!!」

どんどんと顔を近づけてくるのがウザったくて、ため息交じりに「わかった」と頷く。わかりやすいように嫌悪感を露わにしたつもりなのに、少女はそんなことお構いなしに跳ねて喜んだ。本当にバカみたい。

「俺なんかじゃなくても、他にたくさんいるだろうに」
「え?いずみくんは1人しかいないよ」
「……」

じとりと目を細めて目前の少女を見つめる。そうすれば少女は増々わからないというように難しい顔をして首を傾けた。そうか、本物の馬鹿なんだ。

「そういうこと言ってるんじゃなくて…」
「ははん、わかったぞ」
「なに」
「いずみくんも、読みたかったんだね!!」
「なにをどうしたらそうなるの」

もはやこのバカ娘には何を言っても無駄らしい。上機嫌に鼻歌なんて歌いながら絵本を開き始める彼女。本当はこれくらいが年相応な子供なんだろうか。小さい身長に短い手足を見つめながら考える。いや、それにしたってコイツは相当阿呆な部類なのではないか。気が付けば自分まで難しい顔をして悩んでいて、バカバカしくなった。

「いずみくんみたいに難しいことはわからないけど」

絵本を見落としながら呟いた少女、その長い髪がさらりと耳から零れ落ちる。

「いずみくんは1人しかいないよ」
「そんなん当たり前…」
「いずみくんの代わりなんていないの」

その言葉に言葉を止めた。

「わたしが遊んでほしいのはいずみくん、だよ」
「……やっぱりアンタはバカだ」

俺なんかと遊んだって楽しいことなんてないのに。思い返してみたらコイツは何時だって、へらへらとしていつでも幸せそうに笑っていたのだ。

「ねぇ読もう!おすすめなんだ!!」
「わかった、付き合うよ」
「やった!!」

そうして静かに少女が文字を声に出して読み始める。その滑舌は幼いためか、お世辞にも聞き取りやすいものとは言えなかった。それでも俺はその少女の声を黙って聞いていた。その本の表紙には『にんぎょひめ』と書かれてあった。



話を読み終えた後、幼い2人は揃って絶句していた。特に少女の方なんて自らが読み手にも関わらず途中で「泡になっちゃうの!?」なんて間抜けな声をあげるほど驚いていた。

「……まさか、これ初めて読んだの」
「うん」
「そっか」

普通読んだこともない本を人に勧めるだろうか。まぁこのバカなら有り得る。未だポカンと口を開けている少女の顔を眺めて、ふと息をついた。

「……なんか寂しいね」
「は?」
「だって可哀想だよ。泡になるなんて」
「そうだけど……」
「人魚ってどこで会えるかな?」
「はぁあ?!」

予想外の質問に思わず声を上げてしまった。どうやら心の底から出た言葉のようで、ない知恵を必死に働かせているのか、眉を潜ませながら考えにふけている。

「あのねぇ、これはあくまで作り話で……」
「早く教えてあげないと!!」
「ちょっと、聞いてるの?」
「だって!!」

いつもニコニコとしている顔が眉を切なげに下げる。そんな顔今までに見たことなかったから、思わず口を閉ざしてしまった。

「声も無くして王子様にも忘れられて、海の底で1人なんて切ないよ」

子供はどうも純粋すぎて嫌いだ。

「……勝手にすれば」

ぷいっと顔を背ける。トタトタ軽い足音で遠ざかっていくその背中を一瞥して、再度つくえの上に残された絵本に目を向ける。

「こんな馬鹿な王子もいるんだなぁ」

わかるでしょ、命の恩人で恋した女の子の顔くらい。というかあのバカ女もそうだよ。本ぐらい片づけていけっての。綺麗な表紙のそれを持って立ち上がる。これは確か玄関の絵本コーナーにあったやつか。本を戻すため玄関に足を向ける。そこでようやく少女が正真正銘、底抜けの馬鹿であることに気が付いた。いつもならそこにあるはずの彼女の黄色い靴が無くなっていたのだ。

「あのバカ…」

血の気が全身から引いていく感覚、まるで生きた心地がしなかった。その時呆然としながら聞いた雨の音。今でもよく覚えている。



昔から王子様だとかおとぎ話とかが苦手だった。それは恐らく俺自身が捻くれたガキだったからだ。

「いずみくんってさ王子さまみたいだよね」

そんな俺とは反対に少女はおとぎ話が大好きだった。彼女は王子さまに恋い焦がれていた、とても純粋な子供だったから。そんな彼女は俺を王子さまみたいと嬉しそうに話していた。そんな風にしてキラキラと自分を見つめる目が嫌いだった。しかし、あの馬鹿みたいに真っすぐな少女の存在にいつの間にか毒されていたようで。そんな彼女の笑顔を守りたいなんて、柄にもなく考えるようになっていたのだ。





今でもはっきり覚えている。忘れたことなんて一度もなかった彼女の名前を。

「歌羽……」

どこかで彼女の声が聞こえた気がした。

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