ひねられた何かの栓

緊張していたのか、慌てて走ったのがいけなかったのか。気が付けば喉がカラカラで、口の中が砂漠になってしまったかのような心地である。水分補給をしてから戻ろうと、窓からの太陽光を受けてそれを反射する銀色のシンクに近づいて蛇口をひねった。丁度その時。

「……ねぇ、ちょっと」
「……」
「ねぇ、こらババア聞こえないわけ?」
「わ、私を呼んでいたのですね」

まさか、こんなに早く話すことになるとは思っていなかった。どうしたって蘇る先日の記憶を必死に思考の外に押しやって、引きつりそうな口角を気にしながら振り返る。しどろもどろに返事をして見やるそこには仏頂面の奴がいて。いつも休み時間は大抵教室にいるお前が、よりによってなんでいまここにいるのかと恨めしく思えた。

「……」
「…用があるんなら言ってよ、じっと見つめて気味悪い」
「……あんたさぁ」

疑わしそうに眼を細めて一歩踏み出す瀬名。思いがけないその一歩に私は面食らう。ただひたすら蛇口から流れる水がシンクに当たって弾ける音を聞きながら、瀬名がゆっくり近づいてくるのを眺めているだけ。その間を詰めてくる彼の表情はいつもどおりで、何を思っているのか推測することはできなかった。

「な、なに?」
「……まさか」

近づいた距離に、封じたはずの記憶が鮮明に蘇り、顔が一気に熱くなる。足のつま先がこつんと触れ合い、心臓がドクンと音を立てた。目前の空色をした瞳は、瞬き一つせず、じっと私の瞳をみつめている。それは、私の胸の内まで見透かそうとするかのようで。距離故、止めた息が苦しくて、すっと小さく唇を開いた、その時。


「あんた、俺のこと好きになったんじゃないでしょうね?」


「……は?」
「さっきから俺のこと避けてるのも、頬赤らめてんのも、なんかおかしいと思ったんだよねぇ」
「……」

コイツの頭は、意外とおめでたい作りなのかもしれない。目をパチパチと瞬かせる。やれやれと呆れたように首を横に振るその姿は、いつだって偉そうで、腹立たしくて。見ていて苛立つはずなのだが。

「…ふふっ」


「…は?」
「ふっ、あはは!!」

今は、なんだかその姿が面白く見えてたまらなかった。よくよく考えてみれば、この年でこんなに偉そうなことって、ある意味すごいことではないか。よく爺婆と罵りあっているが、これではまるで本当に屁理屈なおじいちゃんのようだ。それとは相対的に、わざわざ人のことを煽るようなしぐさも、なんだか構ってほしい子供のように思えて面白い。

「ちょっと、なに。なんで笑ってるわけ」
「ご、ごめっ…っふ、あっは…っ」
「なに、超うっざいんだけど?」
「ふ…ごめっ…ふふ」

見る見るうちに不機嫌になっていく瀬名。今はその機嫌の悪そうな顰められた顔を見るだけでも笑えてしまう。

「なんかもう、何でもいいや」

なんだか、吹っ切れてしまった。

「はぁ?なにさっきから訳の分からないことを…。もう付き合ってらんない。俺、先に行くから」
「待って、瀬名!」
「なにか用?…って、なに、ちょ……」

去っていこうとする彼の腕を奪い、そこに先ほどひなたくんからもらった飴を半ば強引に握らせる。動揺する瀬名のことは完全無視。

「飴、あげる」
「は?いらないんだけど」
「大丈夫、次の先生ばれても何も言わないから」

先程、腹を抱えるほど笑った余韻もあってか、ついにこにこと頬が緩んでしまう。腑に落ちていない様子の瀬名から逃げるようにして、踵を返し駆け出した。

「じゃあ、お先」
「はぁ!?ちょっと!!」

きっと今頃、背後の瀬名は気に食わなさそうに、私を睨みつけているんだろうな。そう思うとまたおかしくて口角が上がる。先日の、あの出来事は、私の胸の内で秘めておこう、そう決めた。あれはきっと事故だったのだ。偶然に瀬名が倒れて来ただけ。名前もきっと、悪夢の中で私がいたとかそういうオチ。忘れよう、それでいい。だってきっと真意は誰にもわからないだろうから。

悩みの種がようやく解決したのと同時に、一つの結論にたどり着く。もしかしたら、それはずっと素直になれなくて、受け入れてこなかっただけで、とっくの昔から私の中にあったのかもしれないが。ずっと喉に引っかかっていたその存在を認めてしまった瞬間、それはすっと私の胸の中に納まるように落ちてゆき、溶け込むように胸に宿った淡く切ない恋心。


私、瀬名のことが好きなんだ。


気付いてしまえば最後、きっともう戻れない。






「…っ、本当わけわかんねぇ」

あれだけ、人のことを避けておいて、何事かと思えば、次は人の顔を見て大爆笑する。一体どういう心境の変化なのだろうか。去っていく背中を見つめながら呟いた言葉。消え入りそうなこれは、きっとあのバカには届かない。熱を帯びる頬を、手のひら覆い、俯いた。横では、びちゃびちゃと、彼女が閉め忘れていた蛇口から、水が絶え間なく落ちている。

そんな時、不意にチャイムが校舎全体に高く鳴り響いた。

白い包みを開いて、口にまん丸の玉を放り込めば、たちまち口内に甘酸っぱい味が広がった。沸き上がってやまない感情の行き場もないまま、口の中で転がるイチゴ味に歯を立てた。

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