
重要な中身がありません
カツカツと黒板に文字を綴る音が静かな教室に響く。先ほど大きな声を上げて怒鳴ったばかりだからか、そのチョークの音は荒々しい。
チラッと横目で隣の瀬名を見たところ、つまらなそうに頬杖をつきながら黒板を眺めていた。さっき怒られたばかりだというのに、切り替えが早いというか、飄々としているというか。そんな隣が気に食わなくて、ノートに集中して気を紛らわそうと筆箱を開いた。適当に筆箱の中に腕を突っ込んで、がちゃがちゃと音を立てる。そこであることに気が付いた。
(……あれ?)
血の気がさっと引けていく。カツカツと黒板を叩く音が遠くなって、代わりに自分の鼓動の音が耳に届いた。筆箱を手元に持って来て、今度はしっかりと目で中身を確認しながら筆箱を漁る。
まさか……ない?
そんなバカな。いや非常にバカだ。間抜けだ。なんで、よりによってこの席替えをしたばかりの、鬼教師の授業のタイミングに。教室からガチャガチャとした雑音が消える。ゆっくりと息を吐き出して、もう一度筆箱の中をのぞいてみる。だけど結果は変わらない。
誰かに借りる?前か?いや先生にばれたらまずい。
右か……あ、コイツ一本しか持ってないな。
左か……視界の左側で揺れた色素の薄い猫っ毛……論外だ。
……後ろだな。
こうなれば藁にも縋る思いであった。白い文字は既に黒板の半分を埋め尽くしていて。あの先生の話を挟まずにひたすら書いていくスタイル、少し見直してほしい。鬼教師に感知されないようにと恐る恐る身体をひねると、幸いにも前を向いていた千秋と早急に視線が合う。
零したくなる安堵の息を押し殺す。教室は厳粛な雰囲気に包まれている。不届き者がいないかと目を光らせる鬼教師、極めつけにその鬼の虫の居所が悪いと来た。ばれない様に声を殺してパクパクと口を動かす。
「…………」
“シャ、ぺ、ン。貸、し、て”
「……んぅ?」
不思議そうに首を傾げた千秋。これはきっと私の口パクの言葉を理解できていない、絶対にわかっていない。再度、前へ向き直り、横目に両隣を確認する。右の机の上にある透明なペンケース。透けている中に見えた数本の色ペン。中心を通るカラフルな管のそれはどう見たって色ペンだ。
恐る恐る、左にチラリと目を向けると、頬杖をついた奴と視線がぶつかる。目があった瞬間そのすらりとした指先がビクッと動くのが見えた。夏服、白い半そでから伸びる引き締まった男らしい腕。骨っぽい右手に握られた黒いボディのシャーペンには光沢がある。震えた指本が気がかりで彼から目を離せないでいると、彼は視線はそのままゆっくりと頬杖を外す。一瞬のその動きが、何故か長く見えてしまった。
「……」
そして、ヤツの口元が動く。憎らしい言葉しか出ないその口が音もなく、ゆっくり、ゆっくり動く。
“う、ざ、い”
僅か3文字。その言葉を理解してしまうのに数秒もいらなかった。まるで1+1の回答を頭に浮かべるかのような速度で察してしまった3文字。理解してしまう自分もそうだが、なによりこんなサイレントモードでもなお憎まれ口を叩くヤツに腹が立った。
勢いよく後ろを振り返る。短気な私の頭には既に血が上っていて、先生のことなど眼中になかった。
「…………!!」
“シャ、ア、ペ、ン。貸、し、て”
はっきりと口を動かす。千秋はそれをぼーっと見つめている。もうこの際恥じらいなんて持っていられない。
数秒もしないうち、千秋ははっと何かに気が付いたようなリアクションをして笑った。良かった、ようやく伝わった。感動に浸るも束の間、シュッと布の擦れる音、天上目がけて伸びた逞しい腕に、一瞬呼吸が止まる。
「先生!!歌羽が言いたいことがあるそうだ!!」
「ば、ばかばかばかばかばか」
辞めさせろ、脳がそう命令する頃にはもう手遅れ。そう高らかに発言した声は静かな教室の隅々まで響き、当然前方の先生の耳にも届く。ニコッと私に向かって微笑む千秋の顔に小声で馬鹿と繰り返すがもう聞いちゃいない。
「……なんだ泡瀬、質問か」
「いや……違っ、なんでもないです」
「なに、遠慮するな、先ほど俺に必死に何か訴えかけていたではないか」
内側からじわじわと汗が噴き出るような感覚に襲われる。違います、あくまで貴方に訴えかけていたんです。てか、お願いもう黙って。そんな言葉が喉ギリギリまで這い上がってくるが、緊迫した教室の中でんなこと言えない。後ろの達成感満ち溢れている笑顔を殴りたい。
「守沢に……どうした、具合でも悪いのか」
「いや、本当になんでもないです」
「歌羽、遠慮はいらな…」
「元気です!!!!」
千秋の発言が終わるまえに被せて声を上げる。先方から注がれる鋭い眼差しがとても痛く感い。それは先生の風貌に威厳がありすぎる所為か、教室が静かだからなのか、またしても両者のせいか。
「そうか……守沢、泡瀬。次、私語や何かで授業の妨害をした場合、減点だ」
そう言って再び黒板に文字を書きだす先生、再び教室は静寂に帰る。良かった助かった、取り敢えず怒鳴られはしなかった。ほっと肩の力を抜いてノートを開き、筆箱の中のシャーペンを探す。そして重要なことに気がつく。
積んでいる。
良かった助かった、じゃない。最後の頼みの綱である千秋は頼れない。話しかけて失敗すれば次こそ雷が落ちる。
思いっきり積んでる。もうシャーペンを借りる当てはない。顔を上げれば黒板には恐ろしいくらいの文字が書かれていた。頭を抱えて顔を伏せ目を瞑る。暗転した視界に、黒板をチョークで叩く音が響く。更に耳を澄ませてみれば、カリカリと文字を書く音までもが鮮明に聞こえていた。なるほど、おしゃべりするのは難しい環境ではあるが、居眠りするには最適だ。
諦めてただひたすらに夥しい文字数であふれた黒板と、意味もなく開かれたまっさらなノートの間を視線で往復する。暇故に重くなる瞼のせいで周りの音が遠くなった頃。突然開いてあったノートの上に何かが落ちた。思わず肩を跳ねらせ目を開けると、そこには黒のシャーペンが転がっていた。
あれ、これどっかで見たような。
先ほどまで瀬名が握っていた黒いシャーペンと、手元にあるそれと形が一致する。ギギギと固い動きをする首を無理に動かして左を見れば、そこには集中した様子で、ノートと黒板へと交互に視線を送り黙々と板書を写すヤツの姿があった。その手には先ほどとは異なる白の真新しいシャーペンが握られている。
と言うことは、これ……。
使え、ということなのだろうか。持ち主であろう人物にしばらく見つめているものの、知ってか知らずか、一向にこちらを向く気配がない。仕方ないから後で、お礼言おうか。思いもしなかった救いの手に戸惑いを覚えながらも、黒いシャーペンでノートを書き始める。握ったそのペンは、こころなしか暖かいような気がした。
今日は、もしかしたらそこまで悪い日でもないかもしれない。密かに思うままノートの端に本日の日付を書き足した。
*
板書もようやく先生に追いつきそうだ。密かな達成感に浸りながら、先生が下の板書を書き終わり、退いてくれるのを待っていると、ポンと左から消しゴムが飛んでくる。机の左端に着地したそれは、数回小さくリバウンドをして、丁度真ん中辺りに止まった。何だと思い、即座に彼の方に視線を送るが、横目に一瞥されただけで、すぐにその視線はノートに向いてしまう。
まさかこれも貸してくれるのか?いや、流石にそれは。
気持ちが悪いな。
いくらなんでも態度が変わり過ぎではないか。
糊だらけとかなんか地味な嫌がらせが?爆発したり?
青、白、黒のカバーに包まれた消しゴムを恐る恐るつまみあげる。しかしそれはべた付いているわけでもなく、至ってただの消しゴムだった。おもむくままに消しゴムを裏返してみると、そこに現れた無地の付箋。そこに書かれていたメッセージに私は愕然とするのであった。
“金払え”
前言撤回。
やはり今日は厄日のようだ。
思わずバッと見上げた先で、あの悪魔が満足そうにほくそ笑んでいた。その顔を私はおそらく未来永劫忘れることはないだろう。そう私は温まった黒いシャーペンを握りしめながら痛感していた。
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