晴天見えている現実は

白い雲が優雅に空を漂っていく。ふと立ち止まって空を見上げた。予想以上に眩しい輝きがそこにあって、あまりの強い日差しに頭がぐらっとした。

「歌羽は俺が守るからっ…」

そう言った少年の言葉はずっと昔のもの。幼い頃は容易に思い出せたあの子の優しい笑顔や声も、今ではぼんやりとしか思い出せない。それでもその笑顔の温かみが今でも褪せないのは、きっと私がその少年に恋していたからだ。その笑顔にその優しさに。その少年の名前は―――





「あんた誰」
「……名乗るときは自分から名乗ってよ」
「うざぁ…瀬名泉だけど」

『瀬名泉』その単語に思わず言葉を失くした。思考回路が停止して頭の中が真っ白になったかのよう。今こいつなんてった?自分の耳を疑う。アイドル育成校なんて偉いところに来てしまったと頭を抱えた一年前。慣れない好奇の視線に耐えられず廊下をうつむき気味に歩いていた私に、遠慮なく一人の人物がぶつかってきた。

ごめんなさいと謝って去ろうとした私の腕を掴んで、初対面にも関わらず名前を尋ねてきたソイツに腹が立ったこと、今でもはっきりと覚えている。

「瀬名……泉?」
「なに、そんなに珍しい名前でもないでしょ」
「……まぁ」

私より高い彼の身長は、記憶とは少し違う。彼は確か私と同じくらいの身長だったはずだ、でもそれも当たり前か。あれからもう随分と長い年月が経っている。明るい色のブレザーから覗く手首は、細く骨ばんでいて、それでも大きな手のひらに性別の違いを感じさせられた。『瀬名泉』その名前を頭の中で何度も復唱する。

「それより、名前」
「あ……」

かすかに記憶にある色素の薄い髪の毛、青い瞳。それは、今私を見下ろす彼のものと一致していた。

「…泡瀬歌羽」

ドクンドクンとうるさく騒ぎだす胸の音。うちの教室にいなかったから隣のクラスだろうか。握られた手首が急に熱くなり、その熱が伝染してか頬が次第に火照っていく。

まさか、こんなところで会えるなんて

「あぁ、じゃあ間違いないか」
「え?」

素っ気なく手が離され、支えがなくなった私の腕はぶらりと宙に垂れ下がった。再会を祝う言葉があると胸を躍らせていた私は、意外な彼の態度に思わず唖然とした。

「最近、校内に潜り込むファンが多いんだよねぇ。てっきりあんたもその類かと思たんだけど」

今日転校してきた奴と同じ名前だし、間違いないみたい。そう言って颯爽と踵を返し歩いていく背中を、私は開いた口が塞がらない思いで見つめた。

「あ、そうそう」
「……なにか」
「あんまりうつむいて歩かない方がいいよ。自分の外見に劣等感抱いてんのか何なのかは知らないけど。傍から見たらかなり怪しいからね」
「あ……?」
「あと」

目の前の男は、動揺する私をよそに次々と話し始める。間髪いれずに話す彼は、コミュニケーションどころか会話すらする気が無いようで。

「俺のこと、なんか意味深な目で見てたけど」
「そ、それは……」

(歌羽は俺が守るからっ…)
頭をよぎった幼いころの記憶。

「あんたみたいな陰気な女、俺興味ないから」

そう言って今度は私のいる方向に向かってくる。私の頭はまだ状況が呑み込めないで、その姿を愕然と見るしかできなかった。彼が私の横を通り過ぎて、すれ違いざま鼻をくすぐったのは懐かしい石鹸の優しいにおい。それに打たれるようにして振り返る。

「待ってよ」

それなのに、まるで何も聞こえなかったかのように、私を無視してやつはどんどん遠ざかっていった。冷たいその背中、面と向かって言われた辛辣な言葉が胸を締め付ける。思い出だとか初恋だとか、そんなものが一気に色を失くしていく。そこで完全に自分の中の何かが切れた。突発的にポケットの中のものを掴んで、銀色の髪の毛に思いっきり投げつける。

「いて」
「ほんと最低!!」

煩わしそうに眉をひそめ後頭部を抑えながら振り返るそいつを、キッと睨み付ける。

「は?なんなの急に」
「初対面相手になんて失礼なの!!信じられない!」

思いっきり叫んで駆け出す。転校してばっかりの私に行く場所なんかなくて、宛もなく無我夢中に長い廊下を疾走する。なんだなんだと叫び声を聞いた人たちがざわめいているのが聞こえたが、それどころではなかった。

彼は私のことを知らなかった
覚えてなんかいなかった

それがただ、悲しくて悔しくて
どうしようもなく苦しくて

前を向いていなかったのがいけなかった。誰かに思いっきり衝突する。運が良かったのか悪かったのか、相手の身体はがっちりとしていたせいて、ぶつかった衝撃で弾き飛ばされたのは私だった。反動で後ろに倒れていく身体。次に来るであろう衝撃を、潔く目を瞑って大人しく待つ。夢ならいっそ覚めてほしい。現実ならいっそ頭でもぶつけて何もかも忘れてしまえばいい。そんな投げ槍な思いで身体が地面に叩き付けられるのを待っていたのに。

「うおっ、大丈夫か!?」

ところが、突然ぐっと引き寄せられて失う浮遊感。驚いて見上げればそこには見覚えのある顔があった。

「お!その顔は転校生だな?!ははは、そんなに勢いよくジョギングか?お前も見かけによらず元気だな」

そう言って彼は豪快に声を上げて笑った。見上げた先の明るい笑顔に、何故かひどく安堵した。白い歯を見せて笑う彼は眩しくて優しくて、どっと内側から何かが込み上げてくる。その胸元の名札には守沢千秋の4文字。

「ふっ……うぁ…」

保ってきた何かが、耐えてきた何が壊れる。食いしばった口から漏れ出した嗚咽と共に、暖かい何かが零れ落ちた。突然泣き出した私に驚いてか、背中に回った大きな掌の持ち主は、うわっと声を漏らす。どうしたなんだと戸惑う彼に謝りたいが、口から出るのは嗚咽ばかりでとても言葉なんか紡げない。

彼は私から離れることはしなかった。今日会ったばかりの私を、なにも知らない私を、突然泣き出した私を、千秋は黙って見守っていてくれた。それもはっきりと覚えている。その日私の淡い初恋はあっけないほど簡単に壊れてしまった。





「ねぇ、本当目障りなんだけど」
「え、何聞こえない」
「わぁ、耳悪いとかババアなわけ?学園から出ていきなよ」
「え、何々、貴方より髪の色濃いですけど。そっちこそ白髪が眩しい、カツラにしろよ」

「なに?やんの?」
「どうぞ表出ろや」
「男の俺に勝てるとでも」
「女の私に手が出せるとでも」

「はっはは、今日も相変わらず瀬名と歌羽は仲がいいな!!」
「良くない」「良くない」

張り詰めたような空間に、場違いの明るい声が入ってくる。そんな千秋に返した言葉、それと被るように声を出した隣の奴の顔を見ると、同じく私の方に顔を向けた瀬名と視線が合った。

「ちょっと、マネしないでくれる〜?」
「なにそれキモい。あんたのマネなんかするわけないでしょ」
「なに俺にキモイとか、鏡見たことあんの?」
「ちょっと顔がいいからっていい気になるなよ。その性悪治るほど内面洗ってこいや」

本当に綺麗な見かけして、性格がこんだけ悪ければ意味がない。腕組をして立ってる瀬名。その半袖から延びる腕は相変わらずモデルらしく美しい線をしていて本当に腹が立つ。更に千秋がまた豪快に笑うもんだから増々苛立っていく。

「なんだ、息までぴったりじゃないか」
「ちょっと千秋黙ってて」
「ん、どうした歌羽?顔がこわばっているぞ?」
「あ、本当だ。不細工な顔が一層ひどくなってるよ〜?」

長い指を贅肉のない顎に添えてくすくすと笑いをこぼす瀬名。この歪んだ笑みは、私をおちょっくっている時の悪い笑みだ。間違いない。その胸にある名札は、何度見たって同じ3文字が綴られていた。私の初恋の少年は、どうやらとんでもない成長を遂げていたようだ。

私が恋をしていた少年、瀬名泉―――

「まじでウザいんだけど」
「それは良かったねぇ、これを機に俺の視界にもう入んないでくれる?」

ふわりと優雅に弧を描いた口元。その顔はムカつくがやはりモデルというだけあるだけあって、無駄がなく綺麗だった。そんな彼に私は乾いた笑みをこぼす。

「残念ながら席がお隣ですからね」
「目が腐るんだけど」
「腐らせてやるわそのムカつくたれ目」

そういうとまた彼は口で弧を描く。その空色の瞳はちっとも笑ってなんかいない。

「あんたのそういうとこ大嫌い」
「そう、ありがとう」

嫌味を込めて、出来るだけ口角を上げてにっこりと笑って見せる。私の目だって笑ってなんかいないのだろうけど。

“私だって今日もキミが嫌いだ”

笑顔の裏で続けた言葉は、きっと君には届かない。そう思うと、少しだけ胸が苦しくなった。それはきっと気のせいだ。

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