沈む水中眩む世界

今日はこの夏の中でも、少し涼しい日のようだ。頬を撫でる風が気持ちいいと感じられる。でもやはり、照り付ける太陽の光はとてもまぶしくて。これでは引き取り手を見つける前に、手元のパンが痛んでしまうのではないだろうか。行く当てもなく足を進める。なんで外に来たのか、その問いにはっきりとした答えはないのだが、強いて言うなら、多分、この澄んだ空気を求めていたんだと思う。ざわざわと鮮やかな葉の揺れる音が心地よくてそっと目を瞑る。

木々の涼しいざわめきの音色に耳を傾けていると、ふとその中に異なる音が耳に入る。水の流れるような、はじけるようなそんな音。気が付いたら、その方向へ勝手に足を向けていた。そこで進んだ先にある噴水、そこに浮かぶ人型に一瞬ぎょっとするが、直ぐに納得がいった。そんなことする人物に1人心当たりがあったのだ。いくらこんな熱からってこんな奇行を行う人物、絶対彼しかいない。

「…奏汰くん」

正直、彼のように何を考えているかわからない子の扱いは苦手なのだけど、自分の手の中の大量のパンの存在と先ほどの千秋が彼にもパンをあげたかったといっていた台詞を思い出し、恐る恐る彼の名前を呼んだ。

「ぷか・・・ぷか・・・」

しかし、彼には聞こえていないらしい。仕方がないので、噴水に手が届くくらいの距離に近づいてみる。彼は透明な水に身体を沈めながら、心地よさそうに目を閉じている。その姿が一瞬人魚に見えて目を瞬くが、やはりそこには美しく整った顔と伏せられた長い睫毛があった。

「ねぇ、奏汰」

このパン、もらってくれるかな。本当はパンパン言っている満くんに上げるのが一番なんだと思うが。元の持ち主の意向でもあるし、ここであったのも何かの縁だ。よし、そうしよう。

「奏汰ってば」
「・・・あぁ。歌羽〜」
「うん、このパン……」

「いっしょにぷかぷかしましょう」そんな声が聞こえたと思った瞬間、腕加わる強い力に抗う間もなく身体が傾く。ばらばらに地に散らばったパンを心配する暇もなく、水の中へと引きずり込まれた。

「きゃっ……!?」

ろくに空気を溜め込む間もなく落ちた私は、すぐ酸素を求めて体を起こす。一瞬ではあったが水中の中でゴゴゴと水の音が耳をふさぐ中感じたのは、いつの日かの幻想的なものとは異なる、息苦しさと恐怖であった。ざぱんと顔を上げて、目を落とした揺れる水面の向こうは白くて硬い面。ぽたぽたと滴る雫をが煩わしくて咄嗟に前髪をよけた。

「ふふ、きもちいいですか?」

隣から聞こえた声に視線を向けると、すぐ近くでふわりと笑う奏汰くんがいた。いつの間にかお揃いになってしまったずぶ濡れの身体から、ぽたり、ぽたりと止め処なく雫がこぼれていく。噴水の溢れる音が耳元で響いている中、それらが透明な水面に波紋を残していく。

「……ぁ」

不思議と喉が空っぽになった感覚に声がでなかった。驚いたからなのか恐怖からなのかどちらが唇を硬直させているかわからないで呆然としゃがみ込んでは奏汰を見つけ続ける。

「こんのバカ!!」

不意に降り注がれる怒声。同時に腕を乱暴に引っ張られ目を丸くして振り返れば、そこに意外な人物が立っていて再び思考が停止する。

「せ…せな?」
「早く立って」

引きずられるようにして噴水から這いずり出る。重くなった衣類からはぼたぼたと水が滴り、暑さで乾ききった地面に落ちては濃い跡を残した。頭では現状を呑み込めないまま、引かれるままに歩いていく。

「瀬名、なんでここに?」
「いいから黙って付いて来て」

彼は振り返らずに、一言言葉を吐き捨てるだけで黙々と足を進める。腕をがっちりと掴まれているため逃げ出しようがない。どこか怒っているようなピリついた背中の瀬名に困惑しながらも、今はいう通りにする他手立てがなかった。ぽたり、私から落ちる雫が、やけに密着している彼の衣類を濡らしていることに気が付く。

「瀬名、ズボンが濡れるよ」
「だから何?」
「…離れた方がいいんじゃないの」
「……あんた、今自分がどういう格好してるか気が付いてないわけ」

相変わらず前しか見ない瀬名、そこで自分の格好に目を落として、ようやく事の重大さを理解した。馬鹿、なんで気がつかなかったんだろう。夏服の白いシャツ、濡れればどんなことになるかなんて容易に想像つくことなのに。覚醒した意識と共に沸き上がる羞恥心に、だんだんと顔に熱が溜まっていく。

「瀬名離して!」
「はっ?なんで」
「今すぐジャージに着替えてくる!!」

腕を思いっきり振り払う。力一杯腕に力を込めたのた、その拘束はなかなか解かれてくれない。

「あんたのジャージ教室でしょ!?」
「だからなに」
「見られんでしょーが」

「ちょっとは考えなよ、ここ男だらけなんだから」そこで初めてまともに視線が交わる。真っ直ぐな空色の瞳は怒気を含んでいて何も言い返せなかった。なんだかいつもと様子の違う違和感を抱きながらも「わかったら大人しく俺の後ろにくっついてきて」静かな声に大人しく従い再び腕を引かれて歩き出す。





「これ、着てれば」

乱雑にタオルを頭にかぶせてきた瀬名が去ってから再び現れるのにそう何分もかからなかった。そう言って雑に渡されたジャージを慌てて受け取る。2人っきりでいるのは先生のいない保健室。静かな保健室に佐賀美先生は不在だったのだ。

「え、誰の」
「……名前見ればいいでしょ」

緑色の3年生のジャージ、裏側の品質表示のところを見ればそこに「せな」と黒インクで書かれていた。意外と庶民的な明記方法だと内心感心する。そっと顔を上げれば、瀬名は体温計を持ったまま、いつもの仏頂面で窓の外を眺めていた。先程から気になっていたのだが、何故そんなものを持っているのか。

「じゃ、ちゃんと洗って返してよね」
「わかってるわ」

渡されたジャージからは、ほんのりと懐かしさを覚える石鹸の香りがした。「ありがとう」そう小さく呟けば、瀬名は変わらずに目を背けたまま。聞こえたのか聞こえてないのか無反応に、仕切りのカーテンをそっと閉めた。「ほんとバカ」桃色の向こうから聞こえたその言葉を、瀬名がどんな顔して吐いたかなんて、私には知る由もなく。数分前乱暴に乗せられたタオルを未だに被ったまま、優しい香りのするジャージに袖を通した。

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