貸した辞書はなくなりがち


「終わった……」
「今度から絶対家でやってこよう。まじで……」
「今度から先生の話ちゃんと聞こう……」
「それはもっと前に気付くべきだと思うけど」

 隣の席の清光と一緒に反省するのも実はこれで何十回目であったりする。それでも、今まで「まあいいか」と然程気にもせずのらりくらりとここまでやり過ごしてこれたのは、私達よりも悲惨な成績を出しているにも拘らず、けろっとしている王者、安定がいたからであった。

「なんでよりによって抜き打ちの鬼と悪名高い先生が担任になっちゃうかなあ」
「日頃の行いだろうね」
「あぁーそれはあるわ……」

 つい先ほど終了した小テストの結果は火を見るよりも明らかであった。絶対ヤバイ、まじでヤバイ。安定に0点とか言われて怒ってたけど、まじで0点かもしれない。呆れた笑みを浮かべている清光は、すでに次の授業の準備を済ませているようで、教材が既に机の上に整えられた状態で置いてあった。

「次は、古典かぁ」
「そうそう、ちゃんと辞書持ってきた?」
「もちもち、ロッカーにおきっぱに、あ……」

 安定に貸したまんまだわ。

「確か、堀川2つ辞書持ってたよね」
「そういえば電子と紙ので2つ持ってたね。兼定にいざという時に貸せるようにとかなんとか」

 しかし教室を見渡してみるも肝心の堀川の姿は確認できない。「まあ、別クラスになっちゃったから意味ないけど」そう言ってあははと呑気に笑っている清光に白い目を向けた。他人事だと思って悠長にしてくれちゃって。黒板の上でカチカチ秒数を刻む時計を確認すれば、授業の開始までそう余裕はなさそうだった。

「うーん、勝手に借りちゃうか」
「馬鹿、やめとけって」

 清光の眉間に皺が寄り静止する声に、ふざけ半分「冗談冗談」と笑い返せば、ほっとしたのか呆れたのか面白くなさそうにそっぽを向いた。こうされると、横顔に映えるほくろが色っぽくて、思わずつつきたくなる。

「まあでもやってみれば?絶対怒られるから」
「目に浮かぶように想像つくわ……」
「でしょ、やめときな」
「そうする。それでなんで堀川いないの?」
「どうせ兼定探しに行ったんでしょ。ホームルームで紹介しなかったってことはうちのクラスじゃないってことだろうしさ」

 なるほど、と手を叩く。ホームルームが終わった瞬間、物凄い速度で教室から誰かが飛び出していったように見えたけど、まさかのあれ堀川だったのね。兼定がうち(Bクラス)じゃないとなると、AクラスかCクラスなんだろうけど。これでもし安定のいるAクラスに兼定来てた場合、辞書を取り返しにいったところで、ハート製造機堀川である堀川のせいで絶対騒がしいことになっているだろうから行くの怖いのだけれど。

「LINE送ったら、安定持ってきてくれないかな」
「見るかわかんないじゃん」
「だよなぁ……」
「ほら、早く安定からとり返しておいで。授業、始まっちゃうよ」

 頬杖を付きながらその赤いネイルが目立つ綺麗な指で、つんつんと時計を指し示す。つられるようにして教室の前方、壁に貼り付けられている時計再度目を向ける。

「やば、もう5分で始まっちゃうじゃん」
「そうそう、わかったら早く……って、は?」

 ふらふらと緩くその腕を左右に振っていってらっしゃいのジェスチャーをしている清光。その横をすり抜けて出口へと向かうべく足を進めると、突然素っ頓狂な声を放った。私が毛玉一つない彼のカーディガンの裾をしっかりつかんでいるせいである。

「清光ついていて」
「あ?なんで?」

 そうして再度、清光の高いブランドのカーディガンをくいくいと引っ張れば、「のびるのびる」と怒声が飛ぶ。

「わかった!行くから引っ張んないでよ」
「やった!」
「ったくガキじゃないんだからさ……」

  ぼそっと聞こえた小言は聞こえなかったことにしておこう。そう言ってけだるそうにしながら椅子を引いて立ち上がってくれた清光は、なんだかんだ優しいなと、密かに口角を上げたのだった。



「え、なにこれ」

 やけに騒がしいAクラスを覗いた清光が絶句した。ぱっと浮かんだのはもし兼定がAクラスだったらっていうつい先程の妄想。嫌な予感がしながらも清光の肩からその中を覗き込んで見る。すると予感は悔しくも的中し、兼さん兼さんとありもしない尾っぽを振りまいている堀川と、久しぶりに見ない間に身長が高くなっている兼定と、耳を塞いで鬱陶しそうにしている安定が、困惑しているクラスメイト達の視線中央にいた。

「……俺、あそこ行きたくないんだけど」
「同じく」
「真空は辞書があるんだから。行きなさいよ」
「……いっそ、忘れたことにして先生に怒られるがマシまであるぞ」

 そんなことを話していれば、兼定と堀川に囲まれて頭を抱えていた安定と視線が交わってしまう。あ、やばい。そう思うも手遅れで。ガタンと勢いよく立ち上がった安定が、食べ物を目にしたときと同じくらいの勢いで、こちらに全力疾走してくる。鐘がなるまであと数分。さて、その間に私は辞書を取り返せるのだろうか。