人の不幸は蜜の味

「ねえ、今の言ったの誰?」

広場から通路への曲道に差し掛かるときそれは聞こえた。背中に感じる人々の視線から解放されると安堵の息を吐こうとしたのも時の出来事だった。敵意を含んだ低い声で鋭い語気で放たれた。不穏な予感に思わず振り返る。何故ならその声はさっきまで私に温かい笑顔を向けてくれていた駿のものだったからだ。その駿は冷ややかな瞳をして広場に佇んでいる。いつもにこにこと明るい印象の彼の異変に、私だけでなく広場中の空気が凍り付いていくのがわかった。誰?と問うた台詞とは裏腹に、彼が何に対して激昂しているのか、それは彼の視線を見れば明らかだった。

「な……」
「やばいって逃げようぜ……」

睨みつけられた2人の顔がだんだんと青ざめていく。怯えながらその場を去ろうとする2人に対して、その顔は一層険しいものになる。ぎろりと年齢にそぐわないような射る瞳で睨みつけた駿、その殺気は身震いしそうになるほどの威圧感を覚えるものだった。

「ねえ、そこの2人さ」
「な、なんだよ」
「生緒先輩の噂がなんだって?」

ゆっくりとした足取りで彼らに近づいていく駿。それは一見冷静に怒っているようにも見えるが、その表情には獣のようなギラギラとした危うさがある。いつ襲ってくるかわからない、そんな危うさだ。駿に睨まれすっかり委縮してしまった2人は、まるで蛇に睨まれた蛙のように、その場で硬直してしまい全く動く様子がない。

「あんたらに生緒先輩の何がわかるの?」
「だって、あんなに噂は広まって……」
「そんな噂で聞いただけの断片的な情報しか知らないくせに、あの人を傷つけたの?」

そこでハッとする。もともと換装していた駿は、いつでもスコーピオンを起動できる状態だ。ましてや入隊試験時ですら摸擬ネイバーを4秒で倒すほどの腕を持つ。人の首など容易いだろう。最悪の事態を想像すると、全身から熱が一気に引いていく。殺気を纏うその鋭い眼差しは、ネイバーに対して怨みが深い三輪がネイバーと対立するときのそれと似ていた。このまま放っておいては駿はなにをするかわからない。止めなければ。

「っ駿!」
「はーい、そこまでー!」

大きく彼の名前を呼んだと同時、広場の凍え切った空気には似つかわしくない、陽気な声が静寂に響いた。その人物は、駿の首を腕で捕まえてぐいっと自身へと引きよせた。予期せぬ人物の登場に、2人は目を見開きながら硬直している。

「陽介……」
「生緒、お前相変わらず運悪いなー」

こちらを向いて屈託のない笑顔をした陽介に、自然とこわばっていた肩の力が抜ける。

「よねやん先輩……」
「わりぃな緑川、待ったか?」

一方で駿は驚いたように目を見開いていたが、邪魔されたことが気に食わなかったのか、その顔はすぐに険しい表情に戻り、後ろの陽介を睨み見つける。

「この手邪魔」
「お前が冷静になったらな」
「オレ、冷静なんだけど」
「今にもスコーピオン起動して襲い掛かりそうだったやつが何を」

へらりとした様子の陽介から出た言葉に、駿は不服そうに下唇を噛みながら目を伏せた。首にある陽介の腕に、反射的に添えられていた手のひらをぎゅっと握りしめている。思いがけぬ救世主に2人は「ありがとうございます」と声を裏返しながらも必死に陽介へと頭を下げる。

「おー。今のうち行け」
「ありがとうございます!」
「ただ……」

そう言って、2人にそっと耳打ちをしてから、にっこりと微笑んで見せた陽介。囁く様な小さな音声を私は聞き取ることができなかったが、途端に、畏まった様子で背筋伸ばし「はいぃ」とおびえ切った様子で、一目散に駆けていくのを見るに、きっと良い台詞ではないのだろう。それを見て駿は「うわあ……」とドン引きしたように、陽介をじとっとした目で見つめていた。

「よねやん先輩、こわ」
「スコーピオンで首跳ねられる方が怖いだろ?」
「同じぐらいでしょ」
「いやいやいや」

「ないわぁ」と笑っている陽介に向かって、駿も呆れたように眉を下げながら小さく笑った。そんな駿はいつもの穏やかな雰囲気に戻っていて、安堵の息をつく。それは隣で共に見守っていた鳥丸も同じようでほっとした表情を浮かべていた。2人になにか声かけたほうがいいかと迷っていると、隣のとりまるが、「あの…」おずおずと話し出す。

「そろそろ行かないと、まずいんじゃないですか」
「あ、ほんとだ……」

再び広場の時計を見れば、時間はすでに指定された時刻をオーバーしていた。迅のことだから怒りはしないだろうけど、もし彼と一緒に鬼怒川さんや城戸さんがいでもしたら…。そう思えば全身から血の気が引いていく。

「生緒先輩」

その時、駿が駆け寄ってくる。ばつのわるそうに俯き気味の彼は、私と目を合わせようとはしなかった。

「先輩、ごめんなさい……」
「え?」
「オレ、かっときちゃって…つい……」

さっきまでの威勢はどこへ行ったのやら。うなだれている駿は、覇気がなく、まるで飼い主に強く怒られてしまった子犬のように見えた。顔を伏せているその頭にそっと手を乗せ、彼の癖のある柔らかい髪質をそっと撫でた。

「ごめんね、いやな思いさせちゃって」
「先輩が謝ることじゃ…!むしろあいつらが…!!」
「駿、ありがとう」

彼が私のために怒ってくれたのはもちろん嬉しい。しかし、もしあの時彼らの首を落してでもいれば、彼は処分を免れることはできなかっただろう。せっかくA級まで来たのに、B級に降格にでもなろうものならたまったもんじゃない。こんなことで彼の未来を台無しにしてほしくはない。その意を込めて「でも、無理しちゃだめだよ?」真っすぐと視線を合わせてそう諭せば、駿にしては珍しくなんだか煮え切らないような様子で渋々頷いて見せた。

「まあ、お前ら急いでんだろ?行った方がいいんじゃね?」
「うん。とりまるいこう」

「陽介もありがとう」と言えば「コーラ一本で良いぞ」と呑気な返事が返ってきた。どうやらさっきのは有料サービスらしい。流石、陽介、ちゃっかりしている、そう思うと自然と頬が緩んだ。普段事あるごとにおごってもらっていたことを思い出して、たまにはいいかな、なんて思いながら迅の待っている方向へ後輩の手を引いて駆け出した。