04

ジェイドはオクタヴィネル寮の自室へ戻ると背負っていたリュックを机の横に置き、携帯を取り出しながらイスに座った。携帯に表示されている時間はジェイドが鏡舎へ向かう前に確認した時から十分と少ししか進んでいない。
 ジェイドは眉間にしわを寄せながらも検索エンジンを立ち上げ、トレイと迷い込んだ村について調べ始める。以前ひとりで訪れた山、海辺の村、海神様、供物の貝殻。思い付く限りの言葉をしらみ潰しに検索した。

「あれ、ジェイドじゃん。今日山行くって言ってたのにまだ行ってねーの?」

 ドアが開いたことに気づかず、そう声をかけられてからジェイドはやっと部屋にフロイドが入ってきたことに気がついた。携帯から顔を上げると、不思議そうな顔のフロイドと目が合う。

「先輩と行く〜ってうぜぇぐらい機嫌よかったのにケンカでもしたわけ?」
「僕がトレイさんと?まさか。そんなことありません」

 頭の後ろをかくフロイドにジェイドは笑った。フロイドは首をかしげつつも、自分のクローゼットへと向かう。

「じゃあなんでまだいんの」
「残念ながらトレイさんとは行けなくなってしまって。今は個人的に調べものをしてます」
「やっぱケンカ?」
「違います」
「ふーん」

 興味を無くしたのかフロイドは制服から寮服へ着替え始める。ジェイドはぼーっと着替えているフロイドの背中を眺めながら、村での出来事を思い出した。
 村で貝を差し出してきた女がトレイに執着しているアレというのはわかった。けれどアレを連れてきたのはジェイドだとサムは言っていた。胸がむかむかする。それを落ち着かせようとジェイドはふーっと息を吐き出した。

「ジェイド機嫌悪いね」

 気づけば寮服へ着替え終わっていたフロイドにつんつんと頭をつつかれ、ジェイドはフロイドの手を軽く叩いた。フロイドは大人しく手を引っ込めると小さく笑う。

「早く仲直りしなって」
「ケンカなどしてません」
「なんでもいいけど」
「フロイド、そろそろ行かないと開店時間に間に合わないのでは?」

 ジェイドはそう言ってイスから立ち上がると、フロイドが片手で持っていた帽子を取り、そのまま頭に被せてやる。フロイドは何か言いたげな顔でジェイドを数秒見つめたあと、結局何も言わずに軽く手を振って部屋を出ていった。
 ひとりになったジェイドは再びイスに座り、携帯を手に検索をかける。しかし三十分ほど経っても特にこれといって何もわからなかった。これならマジカメの裏アカウントを特定する方が楽だ。携帯を机に置き、ジェイドは大きくため息をつきながらベッドの上に横になった。
 アレがなんなのかわからないことにも、アレがトレイへ執着していることにも腹が立つ。しかも原因はジェイド自身かもしれない。それよりなにより、トレイが人間でも人魚でもないおぞましいもののことをジェイドへ話さなかったことに怒りが体の中で滾った。ジェイドはぎゅうっと耐えるように目をつむる。


・・・


 波の音に目を開くとジェイドは膝を抱えるようにして波打ち際に座っていた。隣には人魚が座っている。満月に照らされた浜辺は明るく、人魚がどこか悲しげに真っ直ぐ海を見つめているのがわかった。ジェイドも人魚と同じように海を見つめる。

「あなたは彼が好きなのね」

 人魚が急に口を開いたことにジェイドは面食らった。けれどすぐに頭にトレイの顔を思い浮かべる。人魚が言う彼とはトレイのことだろうと確信めいたものがあった。

「好きですよ」

 ジェイドは海を見つめたままそう言った。人魚がどんな表情をしているのか少しだけ気になる。

「私は人間が嫌いよ」
「どうしてです?」
「私が人魚だから」

 どこか悲しげな人魚の声にジェイドが隣を向くと、人魚もジェイドを見ていた。その顔は今にも泣き出しそうだが、どうにか笑顔を保っている。

「あなたは人魚だけど、人間の彼が好きなのね」
「僕はトレイさんが好きです」

 今度は間を置かなかった。人魚はジェイドの答えに満足したのか今までの悲しげな表情は消え、満面の笑みを浮かべる。ジェイドもトレイのことを思い出しながら笑い返した。

 いつの間にか眠ってしまっていたジェイドはむくりとベッドから起き上がった。右手にはあの白い貝殻が握られている。夢に出てくる人魚はトレイに執着しているアレと関係があるのだろうが、それが何なのかはわからない。夢の中で全てを聞き出せればいいのだが、いくら不思議な夢でも夢は夢らしくジェイドが自由に思考し、行動できる訳ではなかった。
 答えが手に入りそうで入らないことへのもどかしい気持ちにジェイドは歯を噛み締める。するとぐぅ、と拍子抜けするような腹の音が鳴った。机に置きっぱなしだった携帯で時間を確認するとすでにラウンジの閉店時間を過ぎている。お腹も空くわけだとジェイドは着たままだったハイキング用のウェアから部屋着へ着替えた。それからおそらくまだ人が居るだろうラウンジへ向かう。

 仕事終わりの寮生たちとすれ違いながらラウンジへ入ると厨房の方からフロイドの声が聞こえた。もしまかないを食べるのなら一緒に作ってもらおうと、ジェイドが厨房へのドアを開けるとフロイドがパスタを口に入れようとしている所だった。フロイドはジェイドを見たとたんに「げえ〜」と声を出しながら顔をしかめる。

「またそのキノコ柄のシャツ着てんのぉ?」
「ええ、お気に入りですから。それよりフロイド、僕もお腹が空きました」
「これオレのなんだけど」

 ジェイドはじっとフロイドが手に持つ、トマトソースのパスタが巻かれたフォークを見つめる。フロイドはジェイドからパスタを隠すように手をかざした。

「お腹が空きすぎて泣いてしまいそうです」
「え〜……」

 フロイドはほんの少しの間、何かを考えたあとフォークを置き座っていた丸椅子から立ち上がった。

「あげる」
「おや、いいのですか?フロイドの分は?」
「どうせジェイドはそれだけじゃ足りないでしょ。オレの分とジェイドのおかわり今から作る」
「ありがとうございます」

 フロイドの気が変わらないうちにと、ジェイドはフロイドと入れ替わるように丸椅子へ座り、フォークを手に持った。クルクルとパスタを巻き付け、口に運ぶ。熱々のパスタにトマトソースがよく絡む。トマトの旨味にジェイドはもぐもぐと口を動かしながら口角を上げた。

「フロイド、食べ終わったら片付けを……ジェイドもいたんですか」

 締め作業が終わったのかアズールが厨房へ顔を出したため、ジェイドは頬をパスタでいっぱいにしながらアズールに笑いかけた。トマトソースとパスタをフライパンの上で混ぜているフロイドもアズールへ顔を向ける。

「アズールも食べる?」
「いえ、僕はけっこうです。ジェイド、お前今日シフトも入ってないのにフロイドにまかないを作らせてるんですか?」

 もぐもぐとパスタを食べているジェイドはもう一度、アズールへ笑って見せた。アズールは呆れたように肩をすくめる。

「いーじゃん。ジェイドは先輩とケンカしちゃって元気ないんだし。ねー?ジェイド?」
「トレイさんと?ケンカしたんですか?」
「してません」

 ごくんと口の中のものを飲み込み、ジェイドは素早く答えた。アズールはジェイドを疑うように眉を寄せ、確認するかのようにフロイドを振り返る。フロイドは機嫌よく鼻歌を歌いながらパスタを皿に移していた。

「今日出かけなかったのはトレイさんのせいでも僕のせいでもありません。もちろんケンカなどしておりません」
「出かけなかったんですか?気味が悪いほどあんなに楽しみにしていたのに?」

 確かめるように問いかけてきたアズールにジェイドは頷きながらパスタの最後の一口を口へ入れる。すぐにフロイドによって目の前に出来立てのおかわりパスタが置かれた。フロイドは厨房の隅に置いてあった丸椅子を引きずってくるとジェイドの隣に置き、その上に座る。二人で並んでパスタを食べる正面でアズールが腕組をした。

「ケンカではないならなぜ?」

 ジェイドは熱々のパスタに息を吹きかけ冷ましながら、今日の出来事を回想する。見知らぬ村に迷い混み、化け物の女に追われ、ソレを蹴り飛ばしたと思ったら闇の鏡の前に立っていた。出来事を語るのは簡単だろうが、体験したジェイドですら何が起きたのかわからないのだから説明は難しいだろう。さらにトレイからは大事にしたくないと言われている。

「そうですね……トレイさんに口止めされているので秘密です」

 フロイドとアズールはその言葉にうんざりしたように露骨に顔を歪ませた。ジェイドは気にせずパスタをフォークへ巻き付ける。

「ケンカじゃないならなんで機嫌悪かったわけ?」
「トレイさんのせいですね」

 「はあ?」とフロイドとアズールの声が重なる。ジェイドはそんな二人をものともせずパスタを口いっぱいに頬張った。


・・・


 翌朝、ベッドから起き上がると机の上に置いたままの携帯のランプが点滅してることに気がついた。フロイドへそろそろ起きるように声をかけながら携帯を手に取ると、トレイの名前が表示されている。ぼんやりとしていた頭が一瞬にして覚醒した。トレイがメッセージを送ってくることなど珍しい。ジェイドはさっそくトークアプリを開いた。
 そこには昨日ハイキングへ行けなかったことへの謝罪と、いつか行こうと誘いの言葉があった。嬉しさと恋しさからジェイドの携帯を持つ手に力がこもる。なんと返事を返すか悩み、結局は無難に挨拶と了承の言葉を返した。頬が緩んでいることはわかっていたがどうしても引き締めることは出来ない。ジェイドは早くトレイに会いたかった。

「また朝からニヤけてんの?」
「おはようございます」
「おはよ……先輩と仲直りしたんだ?」
「違います。ふふっ、でもそういうことにしておきましょうか」

 寝癖でボサボサの頭をかきながら起き上がったフロイドは大きな欠伸をこぼしてからぐっと体を伸ばした。しかし再びベッドの上に仰向けになってしまう。

「フロイド、起きてください」
「やだ……ジェイド意味わかんねーし起きる気無くした」

 ベッドの上でゴロゴロと転がるフロイドへ声をかけつつジェイドは身支度を整え、制服へ着替える。今日は朝からトレイに会える気がした。

「またニヤけてるし」
「ふふ、ほら、寝癖を直しましょう」
「え〜……」

 いつもと同じようにフロイドの身支度を整え、どうにかして制服を着せ、連れ立って部屋を出た。すぐにアズールとも合流し、朝食を済ませてしまおうと学園の食堂へ向かう。
 食堂でフロイドと並んで席に着くと、ケイトと談笑しながらテーブルの前をトレイが通り過ぎた。トレイはすれ違い様にジェイドへ笑みを向け、ジェイドも微笑み返す。やはり今日は朝から顔を見ることが出来た。満足感にも似た高揚感に包まれるが、隣のフロイドと正面のアズールからじっとりとした視線を向けられジェイドは首をかしげる。

「どうしました?」
「別にぃ〜」
「お前が続けると言うなら僕らは何も言いませんよ」
「そう言う割には顔に不満が出てますよ、アズール」

 アズールはふんっと鼻を鳴らすと特に反論もせずに食事を始める。フロイドも食べ始めたため、ジェイドも話を切り上げ自分の食事に手をつけた。


・・・


 放課後、ジェイドはトレイを探してあちこち歩き回っていた。トレイとは朝に食堂ですれ違ってから一度も会っていない。教室にすでに姿はなく、リドルやケイトもどこへ行ったのか知らないと言う。部活動の日ではないはずで、もしかしたらとジェイドは図書館へ入った。
 図書館にトレイの姿はなかった。しかし前にトレイを探しに来たときと同じように監督生が奥のテーブルで本を広げているのが目に入る。ひょっとしてトレイは少し前までここにいたかもしれないと期待を持ちつつ、ジェイドは監督生へ歩み寄った。

「こんにちは、監督生さん」
「あ、ジェイド先輩こんにちは」
「読書中にすみません。トレイさんを見かけませんでしたか?」
「トレイ先輩ですか?昼休みに少し話したぐらいでその後は見てないですけど……」

 監督生は何かあったのかと言いたげな顔でジェイドを見つめた。ジェイドはまたトレイが何かを隠しているのかとぎゅっと手を握りしめる。イラつきが表へ出ないよう努めて笑みを浮かべながら、ジェイドは監督生の正面へ座った。

「トレイさんと昼休みに何をお話したのかうかがっても?」
「え?あ、えっと、神様に貝殻をお供えする文化はあるのかってきかれて」

 監督生はトレイとの会話を思い出そうとしているのか「うーん」と眉を寄せながら天井を見上げる。肌寒いのか両手でそれぞれ二の腕を擦りながら監督生は「確か……」と前置きし話始めた。

「自分は神社とかにあんまり詳しくないのでわからないんですけど、場所によっては珍しい物とか変わった物をお供えすることがあるって話をしました」
「なるほど。わかりました。僕からもひとつきいてもよろしいですか?」
「はい」
「海神様をご存知ですか?」

 監督生はすぐに首を振った。その反応にジェイドは落胆する。監督生が何かを知っていればアレの対処について何かヒントになったかもしれない。そうすればトレイからアレを引き剥がすことも出来ただろう。

「あ、でも海神様ってことは海に関する神様ってことだから、漁業とか航海の安全とかのご利益があるんじゃないですかね?」

 確かにジェイドたちが迷い混んだ村は海が近いのか潮の香りがした。海辺の村が漁業で生計を立て、その神を奉るというのは不思議ではない。だがどうして女がトレイへ執拗に貝殻を神社へ供えさせようとしたのかはわからない。

「……なぜ供え物が人魚の貝殻なのでしょう」
「人魚が海の生き物で神秘的な存在だからですかね?本当かどうかはさておき、ご利益がありそうだからとか?」
「え?」

 ほとんど独り言のつもりだったが、監督生の言葉にジェイドは少しだけ目を見開いた。監督生は「載ってないかな」と言いながら極東の本のページをめくる。しかし載っていなかったのかぱたんと音を立てて本を閉じた。それから指先を暖めるように両手で手を揉み、体を縮ませる。

「自分の故郷では人魚の肉を食べると不老不死になるって伝説があったみたいですよ。まあそもそも人魚は想像上の生き物とされてる世界なので迷信なんですけど」
「それはそれは……監督生さんは人魚の肉を食べてみたいですか?」
「え?ジェイド先輩がそれ聞いちゃいます?」

 驚いたような監督生に笑いかけると、「ひえっ」と監督生が小さな悲鳴を漏らした。どこに怯える要素があったのだろう。不思議に思いながらジェイドがイスから立ち上がろうとした瞬間、監督生がくしゃみをした。

「寒いのですか?」
「さっきまで何ともなかったんですけど……冷房強くないですか?」
「……言われてみれば気温が低い気がしますね」

 ジェイドはぐるりと図書館の中を見回した。他の生徒たちは気温の変化に気づいていないのか特に寒がっている様子はない。もう一度、監督生がくしゃみをする。

「おかしいですね。ここだけ気温が低いのでしょうか」
「また魔法石に何かあったんですかね……?」
「それにしては他の生徒たちが落ち着いています」

 その時、ジェイドのポケットからパキッと何かが割れるような軽い音が響いた。ジェイドはポケットに入れていた貝殻を取り出す。白い貝殻には小さくひびが入っていた。

「ん?あれ?寒くないです……え?」

 監督生が困惑した声を出しながら確認するようにペタペタと手で自分の顔や体を触っている。ジェイドは気温が変わったことどころではなかった。貝殻が割れたと言うことはアレが関係しているのだろうか?ここにアレがいたのか?それともトレイに何かあったのだろうか?

「ジェイド先輩?大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。お話ありがとうございました。もしトレイさんに会ったら僕が探していたと伝えていただけますか?」

 早口で監督生へそう伝え、返事をもらう前に貝殻を握りしめたジェイドは走り出していた。図書館を管理しているゴーストから叱責を受けたがそれすら無視して図書館を飛び出す。今日トレイを捜していない場所で思い当たるのは植物園だけだ。そこにトレイが居なかったらどうすればいいのだろう。
 ジェイドは全力で走り、ほとんど飛び込むようにして植物園の中へ入った。すぐさま緑色の頭が見え、一瞬安堵する。しかし白衣を着たトレイは花壇の前でうずくまっているのか、しゃがみこみ背中を丸めていた。

「トレイさん!」

 ジェイドはほとんど叫びながらトレイに駆け寄る。トレイは驚いたように勢いよく振り返った。真ん丸にした目が何度か瞬きをして、やっとジェイドの存在を認識したのかへにゃりと笑う。
 呑気に笑うトレイへジェイドは掴みかかる。トレイが尻餅をついたため、ジェイドが馬乗りになった。腹が立つような悔しいような、胸の辺りがもやもやとして胃がムカムカする。

「何もないですか?ケガは?どうして笑ってるんですか!」
「落ち着け、ジェイド」
「貝殻が割れたんです!」
「貝殻なんだから割れることもあるだろ?」

 ジェイドのトレイの白衣を掴む手により力がこもった。トレイが好きだから、トレイを失いたくない一心なのに、どうして本人があっけらかんとしているのだろう。ジェイドはなんだかそれが悔しくて涙が滲んだ。けれどここで泣いてしまうことはもっと悔しくてジェイドはぐっと歯を食い縛る。

「……どうして僕を避けるんですか……?この前だって僕が問いつめなければ何があったのか教えてくれませんでしたよね」

 トレイは困ったような、悲しそうな顔でジェイドを見上げている。ジェイドはトレイの白衣から手を離し、自分の顔を両手で覆った。

「……僕はトレイさんの恋人なのに……知らないところであんな化け物にトレイさんを奪われるなんて嫌です」

 涙は出ていなかったが、ジェイドの声は涙声でほとんど泣いているようなものだった。小さくトレイが息を飲む音が聞こえたが表情はわからない。ジェイドは手で顔を覆ったまま、涙を流すまいとぎゅうっと強く目をつぶっていた。

「ごめんな、ジェイド」

 ジェイドの背中にトレイの腕が回され、優しく抱きしめられた。トレイの弱りきったその声に今度はジェイドが息を飲む。

「……お前が、死んでる夢を見て……怖くなったんだ」
「……僕が死ぬかもしれないと?」
「そうだ。ジェイドが俺のせいで死ぬかもしれないって、怖くなったんだ……」
「ふふ、夢ですよ。トレイさん、ただの夢です。僕はここにいますよ」

 弱々しいトレイにジェイドは笑った。顔を覆っていた手を外すと、潤んだトレイの目と目が合う。きゅーんっと胸の奥から音が聞こえた。

「トレイさん泣いてるんですか?」
「お前も泣いてただろ」
「泣いてません」
「俺だって泣いてない」

 不毛なやり取りをしてジェイドとトレイは笑い合う。涙はいつの間にか引っ込んでいた。ジェイドはトレイの首に腕を回してぎゅっと抱きつく。するとトレイもジェイドのことを抱きしめ返し、二人はたっぷり一分程抱きしめ合った。
 満足して体を離した時、ここが植物園だということを思い出してジェイドは慌ててトレイの上からどき、トレイが立ち上がるのを手伝った。トレイも植物園に居たことを思い出したのか照れ臭そうに笑っている。

「ねえ、トレイさん。隠さないでください。教えて欲しいんです、全部」

 ジェイドが静かな声でそう言うと、トレイはゆっくりと頷いた。

「不安にさせてごめんな。ちゃんと話すよ」
「ありがとうございます。僕も、ちゃんとお話しします」

 ジェイドはトレイにひびの入った貝殻を見せた。トレイはジェイドの手の上に置かれた貝殻を凝視する。

「図書館に居るとき、急に割れたんです。それでトレイさんに何かあったのかと思いまして」
「なるほど……それであんなに取り乱してたのか」
「トレイさんこそ花壇の前にしゃがみ込んで何を?」
「育ててるハーブの様子を見てたんだよ」
「……てっきりうずくまっているのかと……」

 勘違いしたことにジェイドの顔が熱くなる。トレイは穏やかに笑っていた。それすら気恥ずかしくジェイドは少し顔をうつむかせる。

「朝の、メールはどうしたんですか?トレイさんが送ってくるなんて珍しいじゃないですか」
「あー……あれか……。ジェイドが死ぬ夢を見たから生きてるか確認したくて送った」

 次はトレイが恥ずかしくなったのかほんのりと顔が赤くなった。ジェイドは思わずクスクスと笑いが零れ、トレイから咎めるように睨まれる。

「わざわざ僕らのテーブルの前を通ったのも僕が生きてるか確認するためですか?」
「……そうだよ」

 ふてくされた顔でぶっきらぼうに言ったトレイにジェイドは抱きついた。胸の奥からずっときゅんきゅんと音がして、締め付けられるように胸が苦しくて、いてもたってもいられない。驚いたトレイは少しだけよろめいたが、それでもしっかりジェイドを受け止めた。

「ふふふ、トレイさんはかわいいですね」
「かわいいは止めてくれ……ジェイドの方がかわいいよ」

 とんとんとトレイに優しく背中を叩かれ、ジェイドは渋々体を離した。けれど離れる瞬間、トレイの頬に軽く唇をつける。不意打ちをくらったトレイはぽかんと呆けた顔をして、ジェイドは悪戯が成功したと言わんばかりにニンマリと笑った。

「今度こそ約束してください。何かあったらすぐ連絡すると。僕に隠さないで」
「約束するよ」
「遠回りに僕の無事を確認しなくたっていいんですよ」
「そうだよな」

 トレイは今さら自分の行動が恥ずかしくなったのか、はにかみながらジェイドから顔を反らした。かわいらしい仕草についいじめたくなる。追いかけるようにジェイドが顔を近づけると、不意に柔らかいものが唇に触れた。

「お返しだ」

 目を細めて悪戯っぽく笑うトレイに、ジェイドは顔が熱くなる。もうキスなんて何度もしているのにまだ慣れない。ドキドキと鼓動が早くなって、顔だけでなく首まで熱くなる。

「……お前が照れると俺も照れるな」

 言葉の通りトレイの耳は赤くなっていた。ジェイドはまだ顔を熱くさせながらも笑みを浮かべる。

「同じですね」
「同じだな」
「ふふふ、ここが放課後の植物園であることをお忘れですか?」
「あっ」

 トレイの顔が今度こそ真っ赤になる。ジェイドは声を出して笑った。

「僕はかまいませんよ?」
「俺はかまうなぁ……」
「おやおや」

 こめかみを片手で抑えるトレイにジェイドはまた笑った。周りを気にせずに手を繋いで、キスが出来たらどれほど良いだろう。けれど今はジェイドの片割れや幼なじみに怯える恋人のために秘密にしておいてもいい。

「……お一人で大丈夫ですか?」

 ジェイドの聞きたいことがわかったのかトレイはまだ少しだけ顔を赤くしながらも真面目な顔で頷いた。

「せめてこの貝殻をトレイさんに渡すことが出来ればよかったのですが」
「そうしたら今度はジェイドが危ないかもしれないだろ?それに俺は大丈夫だよ。何かあったらすぐ連絡するって約束もしたしな」

 トレイがジェイドの両手を包み込むように握った。ジェイドは小さく頷く。けれど頭の中ではアレをどう始末するか、あれこれと考えていた。得たいの知れないあんな化け物にトレイを絶対に奪われたくない。ジェイドはぎゅうっとトレイの手を握り返した。