悪魔とドルチェパロ

 呼びかけに興味本意で応えてみると、悪魔を呼び出した本人であるはずの青年はきょとんと目を丸くしていた。青年の手には何か小さな包みが握られている。

「僕を呼び出したのはあなたですか?」
「あ、ああ」

 青年はぎこちなくも頷いた。ジェイドはにっこりと微笑みかける。青年は未だに丸くした目をパチパチと瞬いていた。

「何をお望みですか?」
「小麦粉がなくなったから買ってきて欲しいんだ」
「なるほど、小麦粉ですね」

 うんうんと頷きながらジェイドが指をならすと、青年の目の前に小麦粉の袋が現れどさりと音を立てながら床に落ちた。「おわっ」と青年は驚き、声をあげていたがジェイドはかまわずにずいっと青年につめよる。

「望みは叶えました。対価をいただけますか?」
「そうだな……用意してあるのはこれなんだが」

 青年はジェイドに持っていた小さな包みを差し出す。「これは?」とジェイドが指差しながら問うと、青年は「クッキー」と何でもないように答えた。

「この僕を召喚し、使役しておきながらその対価がたったこれだけのクッキーですか?」

 すうっと周囲の空気が冷たくなる。青年もことの重大さに気がついたのか顔をひきつらせていた。ジェイドの足元からはゴポゴポと水が溢れだし、青年の足を絡めとる。

「あなたのはらわたを引きずり出して……」
「待て待て待て!」
「大人しくしてください……うん?」

 抵抗し身を引く青年の腕を掴み、強く体をぐいっと引き寄せた。その瞬間、ふんわりと甘い香りが鼻をかすめジェイドは目を見張る。

「……甘い香りがします」
「タルトタタンを焼いてたからな」
「それはどちらに?」
「食べさせれば許してもらえるのか?」
「出来栄え次第ですね」

 青年は急に大人しくなったジェイドの様子に苦笑いを顔に浮かべていたが、素直にキッチンまでジェイドを案内した。キッチンには出来立てのタルトタタンが置かれている。ジェイドは思わずふらふらとそのタルトタタンへと近づいた。

「そこに座ってくれ。今切り分けるから」

 青年は初めてジェイドを見たときとはうって変わり、冷静に食器を用意し始めていた。ジェイドはタルトタタンの魅力に抗えず大人しく指示されたとおりに椅子に座る。青年によって手際よく切り分けられたタルトタタンの一切れが差し出されたジェイドは「ふふっ」とつい声を出して笑った。

「紅茶も飲むか?」
「お願いします」

 笑顔で了承し紅茶の準備を始めた青年から改めてタルトタタンへ視線を戻し、ジェイドは大きく口を開けぱくりとかじりついた。りんごの食感、クリームの甘さが絶妙で酸味とのバランスがいい。ジェイドはもごもごと口を動かしながら口角を上げ、目を細める。

「うまいか?」

 テーブルに紅茶を置いた青年にジェイドはこくこくと頷いた。あっという間に一切れを食べ終わってしまい、残りのタルトタタンにも手を伸ばす。青年は怒ることもなく、楽しそうに笑っていた。


・・・


「こんなに美味しい甘いお菓子を食べたのは久しぶりです。あなたのはらわたを引きずり出すのは止めます」
「それはよかった」
「ところでまだお名前をうかがっていませんでしたね」

 青年は困ったような笑顔で「今さらだな」とぼやくように言った。ジェイドはタルトタタンを食べ終えたあとに差し出されたクッキーを食べながらじっと青年を見つめる。最初は大皿に山盛りにされていたクッキーもすでに残り少しだ。

「トレイだ。君は?」
「ジェイドといいます。トレイさんはなぜ悪魔を使役しているのですか?」

 ジェイドはテーブルの向かい側に座っているトレイを観察するように見た。ただの人間のようだが悪魔を使役することには慣れている。お菓子を作るのも上手い。どんな人間なのか興味が湧いた。

「母さんが教えてくれたんだ。甘いお菓子の作り方に、悪魔を呼び出す魔方陣も」
「そのお母様はどちらに?」
「今は父さんと一緒に海外だよ」
「なるほど」

 トレイは今はこの家に独りで暮らしているが悪魔を呼び出せるため困ったことはないのだと言う。確かにジェイドを満足させるほどのお菓子を作れるとなれば下級悪魔を従えるのは容易いだろう。

「トレイさんは毎日お菓子作りを?」
「まあだいたいそうだな。趣味みたいなものだし」
「それなら明日も来てよろしいですか?」

 クッキーの最後の一枚を食べ終えたジェイドがそう言うと、トレイは一瞬呆気にとられていた。しかしすぐに声を出して笑う。

「ジェイドは強い悪魔だろ?こんな普通の人間の家に入り浸る気か?」
「普通の人間?あなたが?」

 今度はジェイドが声を出して笑った。悪魔を従える人間が普通とはいったいどこの基準なのだろう。トレイはジェイドが笑いだした意味がわからないのか首をかしげていた。

「あなたが普通かは置いておきましょう」
「普通だと思うけどなぁ」

 また笑いだしそうになるのをこらえ、ジェイドは紅茶の入ったカップに口をつけた。納得していないらしいトレイも渋い顔で紅茶を飲む。

「とにかく明日も甘いお菓子を作ってください。もちろんそれに対価として願いを叶えて差し上げます」
「まあ、俺はかまわないけどな。いつも自分で食べるだけだから誰かに食べてもらえるのは嬉しいよ」

 トレイのその言葉にジェイドはにんまりと笑った。こんなに美味しいお菓子を毎日食べられると思うと今から心が踊る。

「どうぞこれを」

 ジェイドが指を鳴らすと、トレイの前に一枚の羊皮紙が舞った。そこには複雑な模様で構成されている魔方陣が描かれている。

「ジェイドの魔方陣か?」
「はい。何かありましたらお呼びください。その時はもちろん……」
「とびきり甘いお菓子を用意しておくよ」

 にっこりとジェイドは笑い、おもむろに椅子から立ち上がった。帰ることを察したのかトレイも立ち上がる。ジェイドはこの人間がどんな願いを持つのか想像すると笑いが止まらなかった。どうせどんな願いだろうとジェイドは甘いお菓子を食べられる。

「それではトレイさん、また明日」
「ちょっと待ってくれ」

 ふわりと宙に飛び上がっていたジェイドは自分を呼び止めたトレイを訝しげに見た。トレイは慌てたようすで紙袋に何かを詰め込んでいる。ジェイドはもう一度床に足をつけ、トレイへ向き直った。

「これ、お土産に」

 ジェイドはトレイに差し出された紙袋を受け取り、中を覗き込んだ。紙袋の中にはカップケーキが二つ入れられている。

「昨日焼いたから今日中に食べてくれ」
「はい!ありがとうございます!」

 満面の笑みを浮かべ、今度こそジェイドは宙に高く飛び上がり、紙袋を大事に胸の前で抱え片割れのいる魔界へと帰った。







"いい?トレイ、悪魔は甘いお菓子が大好きなのよ"

 トレイはジェイドが置いていった魔方陣が描かれた羊皮紙を弄びながら幼い頃に聞いた母親の言葉を思い出していた。

"悪魔は本当に使えるわ。いいのを見つけたら私みたいに捕まえておくのよ"

 タルトタタンやクッキーを美味しそうに食べていたジェイドという悪魔は今まで使役してきた悪魔の中でも特に力が強い。トレイは魔方陣を眺め、にんまりと口角をつり上げた。

「捕まえておかなくちゃな」