星涙病

※捏造設定ばかりです


「おや」

 ふいに目から何かが零れ落ちた。それは涙を零すのによく似た感覚だったが、ころりと床に落ちたものは小さな鉱石のようだった。
 ジェイドはそれをつまみ上げ目の前に持っていき、じっくりと眺める。小さすぎてはっきりとわからないが見た目は翡翠のようだ。それがなぜジェイドの目から落ちてきたのか理由はさっぱりわからない。アズールならば何か知っているだろうか。
 ジェイドは錬金術の材料にもならないその小石をポケットへ入れる。その仕草に気がついたのか隣の席に座っていたリドルが訝しげにジェイドを見た。さすがに授業中だからか声はかけられなかったが、ジェイドは笑みを返す。
 この授業が終わればもう放課後だ。ラウンジが開店する前にアズールへ小石を見せに行こう。そう決めると授業終了の鐘が待ち遠しかった。





「星涙病ですね。錬金術の時にでも塵か何かが少し目に入ったんでしょう」

 なんてことないようにアズールはそう言った。つまらなそうにジェイドが渡した小石をテーブルの上に置き、もう興味を失くしてしまったのか仕事の書類に手を伸ばしている。

「死ぬ病気ですか?」
「まさか。数日で治りますよ」
「そうですか。さすがアズール、物知りですねぇ」

 そんなことはないと思いつつも冗談のつもりで聞いたことが冷たくあしらわれ、ジェイドはにっこりと笑った。アズールは書類から顔をあげずに早く出ていけとジェスチャーをする。時計を見ればもうすぐラウンジの開店時間だった。
 それならば仕方がないとジェイドは大人しくVIPルームから出た。ラウンジは開店前準備で慌しく、忙しなく駆けまわる寮生の中にはフロイドの姿もある。今日は働く気分なのかと思いながら指示を飛ばすフロイドへ歩み寄った。

「フロイド、今日は機嫌がいいですね」
「は?ちげーし。ジェイドがいないから仕方なくじゃん」
「おやおや」

 むすっとわかりやすく不機嫌な顔になったフロイドは「オレ今日は料理したい気分〜」と言って厨房へ消えてしまう。厨房の方が若干ざわついたのはわかったが、残されたジェイドはまだ終わっていない準備に取りかかった。

 開店後、しばらくして少しだけ店内も落ち着いてきた頃。楽しそうに会話しながら複数人のハーツラビュル寮生が来店した。その中にはトレイの姿が見え、ほんの少し心臓が跳ねる。
 ラウンジのスタッフに案内される姿をつい目で追ってしまう。後輩を連れてきたらしいトレイはにこやかだ。しかしあまりにも熱心に見つめすぎたのか、ふいにトレイと視線がぶつかりジェイドは思わず息を飲む。

「おつかれ」

 トレイに朗らかな笑顔でひらりと片手を振られ、跳ねる心臓を抑えながら会釈をする。ジェイドは平常心を装って笑みを浮かべてはいたが、熱くなる頬に、息苦しい呼吸に、高鳴る胸に、出来ることならば今すぐにでもここから逃げ出したかった。さらにそれらが全てトレイに伝わってしまうのではないかと心配でたまらなくなる。
 けれどそんなことを知らないトレイから「注文を頼む」と呼ばれてしまえば行くしかない。トレイでなければ他のスタッフに任せるところだが、トレイからの注文を他のスタッフが取るのかと考えただけで嫉妬が胸の中で渦巻いた。

「以上でよろしいですか?」

 スムーズに注文を受け、淀みなく反復し、にこやかにテーブルから離れる。背中に視線を感じた気がしたが、ジェイドが振り返った時にはトレイはすでに後輩たちとの会話で笑い合っていた。
 その時、目から涙が零れ落ちる。床に落ちたものは雫ではなく価値もない翡翠のカケラだが、涙を流す感覚にジェイドは目を片手でおさえた。しかし片目からだけではなく、反対の目からもカケラは零れ落ちてくる。

「え!?」

 そんなジェイドに驚いたのは偶然近くを通りかかったオクタヴィネル寮一年のスタッフだった。彼の声は思いのほかラウンジ内に響き、ジェイドは注目を浴びることになる。ジェイドの様子をうかがう生徒たちの中にはもちろんトレイもおり、ジェイドは表には出さなかったが内心は本当に消えてしまいたかった。

「大丈夫か?」

 近寄ってきたトレイにそう声をかけられ、ジェイドは目を擦る手を止めた。その間にも目からはポロポロと翡翠が零れ落ちる。

「ジェイド?」

 答えられないでいるジェイドの手をトレイが優しくつかむ。そのまま顔の前から退かされ、まじまじと顔を覗き込まれてしまう。ジェイドは何が起きているのか理解できず、頭が真っ白なままトレイを見つめ返した。

「副寮長、大丈夫ですか?」

 傍にいた寮生のその言葉にようやく頭は回り始めたが、状況を理解すればするほど余計に体は動かなくなる。トレイの手はすぐにでも振り解けるはずだ。それなのにそうする気は起きない。

「ジェイド?」

 もう一度名前を呼ばれる。困った顔で笑うトレイにジェイドの喉から「ヒュッ」と音が鳴った。
 もう誰でもいいから助けて欲しい。心の底からそう念じた瞬間、ジェイドの近くからトレイが引き剥がされる。ようやくまともに呼吸が出来た心地で深呼吸をすると、今度はジェイドの体が誰かに引かれ無理やりラウンジから連れ出された。

「どけよ、おら!」
「……フロイド?」
「そー」

 やっとまともに思考する力が戻ってきたジェイドは自分の腕を引いているのがフロイドだと理解し、こわばっていた体の力を抜いた。先ほどまで止まることなく零れていた涙はいつの間にか止まっている。
 フロイドは廊下を歩く寮生たちを蹴散らしながら二人の部屋にジェイドを押し込んだ。訳がわからずにジェイドは面倒くさそうな顔をしているフロイドを見つめることしか出来ない。フロイドは大げさにため息をつくと、今度は眉をつり上げ、ビシッとジェイドを指差した。

「それ、厄介だってアズールが言ってたけど?なに?」
「おや、僕が聞いた時はそんなこと言っていませんでしたが……」

 やはり死ぬ病気なのだろうか?トレイに腕をつかまれ顔を覗き込まれた時は確かに死んでしまいそうだったが、この涙が原因とは思えない。
 顎に軽く手を当て悩み始めたジェイドの頬をフロイドが引っ張る。「痛いですよ」と笑いながら言えば、フロイドはわかりやすく口を尖らせた。

「話は後で聞くから。仕事は戻んなってアズールが」
「優しいですねぇ」
「ジェイドが騒ぎ起こしたからじゃん!」

 声を荒げたフロイドにより強く頬をつねられ、ジェイドは涙を零した。それはやはり翡翠のような小石に変わり、フロイドの手にこつんっと当たって床へ落ちる。それを無言で見ていたフロイドは怒っているのか悩んでいるのかよくわからない微妙な顔になり、そのままジェイドの頬から手を離した。
 ジェイドが声をかけても生返事を返すフロイドを引き止めようとしたが、フロイドは部屋を出てラウンジへ戻って行ってしまう。気分の急降下はたまにあることで、ジェイドは少しばかり気にかけつつ部屋でおとなしく待っていることにした。





 仕事を終え、部屋に戻ってきたフロイドはジェイドの涙への興味はなくなっているようだった。むしろジェイドの顔を見た途端に「げえ」と顔をしかめたのでアズールから何か話を聞いたのだろう。なぜジェイドには伝えないのかと不思議ではあったがもうすでに夜は遅く、その日はもう寝ることにした。

 翌日、アズールは部活動のことで用事があると言って先に学園へ行ってしまい、スマホで連絡を入れていたがそれにも返信はきていない。話を聞くこともできないまま、ジェイドもフロイドと共に登校したが、アズールに会うよりも先に廊下でトレイと出会ってしまった。「げえ」っと昨夜と同じようにフロイドが隣で顔をしかめる。

「おはよう、ジェイド。昨日は大丈夫だったのか?」
「お、おはようございます。もちろん大丈夫でしたよ」
「本当か?」

 突然距離を詰められ、ジェイドは反応も出来ず棒立ちになる。トレイにじっと顔を見つめられると顔が熱くなり、恥ずかしさから思わず涙が滲んだ。それでもトレイはジェイドの前から退くことはせず、むしろより顔を近づけてくる。昨日のラウンジと同じような状況にジェイドは脳内でパニックを起こしていると、ついに涙が零れてしまった。
 ぱらぱらと散る自分の涙にジェイドは何も考えられなくなり、目で涙が落ちるのを追っているトレイの顔を凝視し続ける。顔だけでなく体中が熱くなり、頭がクラクラし始め、胸が締め付けられる感覚に呼吸まで苦しくなってきた。

「ジェイド?ん、顔が赤いな……熱か?」

 さらには手を額に当てられ、ジェイドは上げそうになった悲鳴をどうにか飲み込むことになった。視線を動かしフロイドを探すが、その姿はどこにもない。裏切られたような気持ちで恨めしく思いながらぐっと歯を噛み締めて耐える。

「なんだか星が降ってるみたいで綺麗だな。痛みはなさそうでよかったよ」

 しかしそう言うトレイに頬を撫でられ、ついに耐えられなくなったジェイドは「アズールを探しているので!」と叫び、その場から走って逃げ出した。最後はトレイの顔も確認できなかったが、もうそれどころではない。いまだに目から零れる涙を拭う余裕すらなくジェイドはボードゲーム部の部室まで走り抜けた。
 ジェイドが勢いよくドアを開けると、中にいたイデアが悲鳴を上げる。あわあわとしながら体を縮こまらせるイデアを尻目にジェイドはまっすぐアズールに歩み寄った。

「これ、なんなんですか?」
「……自分で気づかなかったのか?」
「フロイドには教えたのに当事者の僕には教えていただけないのですね、しくしく」

 いつもの泣き真似だが、今回はまだ目から涙が零れていたため本当に泣いていた。アズールは呆れた様子で机に広げられたボードゲームを再開する。それに「え?」と声を上げたのはイデアだった。

「この状況で?本気でござるか?」
「イデアさんも何かご存知なのですか?」
「ひっ……いや知ってるというか……」

 イデアは助けを求めるようにアズールに視線を送る。ジェイドもそれを追うようにアズールへ目を向けると、ようやく話す気になったのかアズールは手を止め、椅子に座り直した。

「恋煩いですよ」
「恋煩い?僕が?誰にでしょう?」
「えっ」

 また驚きの声を上げたのはイデアだった。話を促すようにジェイドが顔を向けるとおどおどと視線を彷徨わせ始める。それでもじっと見つめているとイデアは体を震わせながら口を開いた。

「アズール氏の話を聞く感じだと……ジェイド氏は、トレイ氏が好きなんじゃないの……?」
「僕が?トレイさんを?」

 ぽかんと呆けるジェイドに、イデアは唖然とし、アズールは深い深いため息をついた。けれどそうなのかとジェイドは一人で納得する。トレイに恋をしていたから、トレイが気になるのも、心臓が騒がしくなるのも当然のことだった。さらにはフロイドが昨日も今日もジェイドとトレイに対して顔をしかめた理由もわかり、ジェイドはクスリと笑う。

「……これが恋なんですね」

 なんて厄介なものだろう。だが手放すのは惜しい。

「星涙病のきっかけは錬金術あたりでしょうけど、片思いの状態が続けばその分病も長引きますよ」
「なるほど、わかりました。それより僕がトレイさんに恋していることをフロイドとイデアさんの他に言いふらしました?」
「人聞きが悪い言い方をするな。それに僕が言わなくても昨日の騒ぎで察しがつきます」

 そうか、とジェイドはひとつ頷く。もうどうしようもないことだが、恋心を自覚したので今後はどうにかなるだろう。おそらくもう人前で泣くことはなくなるはずだ。

「朝の活動のお邪魔をしてしまいすみませんでした」
「あっ、はい」
「全く……今日はしっかり働いてもらいますからね」
「ええ。それではお邪魔しました」

 そうして部室から出たが、外に立つ人物を確認した瞬間に再び中へ戻ることになる。ジェイドは今までにないほど迅速な動きで音も立てずに部室へ入り、ありったけの力でドアをおさえつけた。

「おーい、ジェイド」

 外からトレイの声がするがここを開けるわけにはいかなかった。そもそもなぜトレイがジェイドの出待ちをしていたのか。激しく脈を打つ心臓が煩くて何も考えられないが、とにかくもう泣き顔を見られるのはごめんだ。
 ジェイドは恋心は思い通りにいかないのだと思い知りながら、顔面蒼白のイデアと、うんざりとした顔のアズールと共にボードゲーム部の部室に授業が始まるまで閉じこもった。