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蝮は夜明けの夢を視るか

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馴染みのビルヂングで爆弾騒ぎが発生したのは黒岩が武装探偵社へ赴いた、その翌日。……最も、死者怪我人共に不在の未遂事件となったのだが……。

『…このシナリオ、太宰が組み立てたに違いないね…』

黒岩はクスクスと笑いながら小さくコメントする。左耳に指先を添えているその様子、何かを聞いているようだった。

―――社長はどこだ?社長をだせ!!

『おやおや。谷崎の迫真の演技がまた愉快…』

どうやら黒岩が聞いている音声は、今現在武装探偵社で起きている物事のようだ。彼にしか聞こえないこの音声、其れ則ち、黒岩涙香が持つ異能、【伊呂波歌】の賜物だった。


住み慣れた部屋。ひっそりとした界隈に佇む煉瓦造りのビルヂングの一画が黒岩涙香の部屋だった。室内はアンティーク調の家具が並んでいる。背に大蛇が描かれた黒地に濃紫の差し色が美しい着流しをさらりと着て、カップアンドソーサーで紅茶を嗜みながら格子のついた出窓に寄り掛かっている。

―――生きていればきっといいことがある!
―――いいこと…?
―――……ち、茶漬けが食える!寝ておきて朝が来る!!

このなんとも言えないアグレッシブな発言を叫ぶように続ける少年。彼こそが、黒岩が気にかけねばならない人物だった。

『中島敦―――、虎に成れる異能の子』

昨日武装探偵社の社長である福沢から、中島敦に関する情報を収集するように言われた黒岩は、早速彼の過去から現在まで、そしてその他周囲の動きについて調べ始めていた。今わざわざ自身の異能【伊呂波歌】を使って、武装探偵社の内情を聞いているのもその一貫……、と言うわけでもなさそうである。黒岩の表情は、楽しげであり、安堵したようでもあった。

―――…武装探偵社へようこそ。中島敦君
――――ちょ、待ってください…

『ふふ……直ぐに馴染めそうだね』

己にしか聞こえないらしいこの音。もし今の黒岩の姿を何も知らない外部の人間から見られたのならば、ただただ独り言を楽しげに話す怪しい人認定をされることだろう。

『さて、……』

僅かに外の空気が揺れるのを感じ、黒岩は自ら異能力を弱める。テーブルの上にコロリと置かれたアメジスト色の小さな何かを耳栓のように左耳に嵌め込むと、窓に遠く映る街並みから、視線を室内に移す。すれば、

ゴンゴンゴン、

ドアノッカーの重い音が響いた。
黒岩は少し口許を弛め、軽やかな足取りでドアへと向かい、そのアンティークなデザインが美しい焦げ茶色の扉を開いた。

「よお」

ドアップで目の前に広がるのは黒。形としては、黒い中折れ帽子。

『……僕からは君の顔が視界に入らないのだけど』

細かく言えば見えるのは黒い帽子の鍔部分……と、そこからはみ出して見える、鮮やかな橙色。

「あぁ?分かって言ってんだろ手前!」

黒岩が軽く言葉を返すと、頭に来た様子を隠しもせず一歩下がって顔を上げ、黒岩の顔を睨み付けたのである。…下から。―――その身長差凡そ20糎。

『まあ、こんな汚い言葉の遣い方をするのは君くらいだろうね。中原』
「ちっ」

不機嫌そうな表情を浮かべつつ、中原こと、中原中也は部屋の中に視線を向けた。ある一点を認めると、小さく息を吐く。

「また盗み聞きしてやがったのかよ」

窓際にあるティーセットを顎で指し、眉を寄せる。

『人聞きの悪い。いつも謂っているだろう?世の中の物事総ては音楽、歌だよ。僕は聴講させて貰っているだけ』
「は、物は云いようだな」

黒岩は中原との"いつもの問答"に苦笑をしつつ、中原に入室を促した。

『どうぞ?』
「ああ。邪魔する」

中原は黒岩の部屋に足を踏み入れると眉を寄せ、右手の小指で耳を塞ぐような仕草をしながら言った。

「涙香……相変わらず薄気味悪いな。手前の部屋は」
『ふふ、俗世が騒がしいだけだよ。僕は静かなのが好きなんだ』

そんな風に穏やかに答える黒岩の家には、一切の音がない。どんな仕組みになっているやら分からないが、本当に"無音"という言葉が正しく合うのである。

「静かっつーレベルじゃねえだろ。此れじゃあ鼓動や血の巡る音すら雑音になりそうだ」
『おや。君にそんな感覚があるとはね。感心したよ』
「チッ……馬鹿にしやがって」

中原は呆れ顔をしながらソファに腰掛け、サイフォンで珈琲を淹れ始めた黒岩に目を遣る。恐ろしく美しいこの男。彼の持つ異能【伊呂波歌】の弊害とも言えるだろうか、黒岩の聴覚はとてつもなく過敏になっているのだという。それ故、両耳に耳栓を常日頃装着しているのである。

『ブラックで良いのかい?』
「…、ああ。」

中原は、黒岩が己の前に芳ばしい薫りを燻らす珈琲を置く姿から目をそらすことが出来なかった。

『それで今日は?』
「いや……」
『?』

黒岩は当然の疑問を投げ掛ける。しかし中原は歯切れの悪い言葉をモゴモゴと返す始末。黒岩も不思議に思った様子で、コテ、と首を傾げた。

「み、明朝!西方に発つんだよ」
『へえ?西方か……長くなるのかい?』
「まあな……恐らくは」

妙に静かな声で答える中原。対照的に黒岩は悪戯っぽく微笑み、中原の斜め前にあるアンティークチェアに腰掛けた。

『そう。じゃあ真逆……暫くの間、会えないから…なんて理由で僕に会いに来てくれたのかい?』

余裕すら見せる黒岩に、中原は沈黙を返す。ゆっくりと、トレードマークの帽子を手に取り、テーブルに乗せた。

「……、」
『中原。君、マフィア向いてないんじゃない?……んっ』

憎まれ口をきく黒岩の唇を己の其れで塞ぐと、中原は睨むように黒岩を見下ろす。

「るせえな。静かにしろ」
『君はこんな時ばかり僕を欲しがるけど、どう謂うつもり……、っ』

着流しの袷を強く引き上げ、軽すぎる黒岩の身体を放り投げるが如く、二人掛けのソファに移動させる。覆い被さってくる中原を見上げながら、黒岩は困ったような笑顔を作った。

『乱暴だなあ……。まあどうしてもと謂うなら……ひよ屋のプリン一ヶ月分で手を打つよ』
「けっ、仕方ねえから後で届けさせてやるよ。きっかり三ヶ月分な。」
『其れは……乗った』

黒岩は悪戯っ子のような微笑みを浮かべると、何処か夢見心地に、中原の首元にふわふわと揺れる橙色の髪に美しい指を這わせた。



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