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蝮は夜明けの夢を視るか

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目が覚めると辺りは既に深い闇の中。事後特有の気だるさを感じつつ黒岩涙香はゆっくりと身を起こす。
横たわっていた寝台の置かれた部屋には己の他誰も居らず、静寂が冷たくも優しく身を包んでいた。

『みず……、』

意識が鮮明になるにつれて、喉の乾きが際立った。掠れた声で呟くと重い腰を上げて、黒岩はコップ一杯の水を求めて隣室へと向かった。
殆ど羽織っただけの着流しの裾が床に触れ、スルスルと密やかな音を立てる。水差しからクリアグラスに注ぎ、舌に触れた水は甘く乾きを癒し、鋭い温度で黒岩に思考を働かせた。

『ああ、』

窓際のテーブルに、一枚のメモ書き。歩を進めると、お世辞にも綺麗とは言えない字が書かれている。黒岩は其れを手に取りクス、と笑うとメモ書きを静かに折り畳み、すぐ横に置かれていたマッチを発火させて灰に還した。彼の中原中也と言う男はなかなかどうして、面白い男なのである。黒岩はその面白い男、中原との遊びを存外楽しんでいるのだった。


さて、此の空間、黒岩の部屋は文字通り無音である。其れには『異能力の影響でどんな些細な音も聴こえすぎてしまうから』と言う理由があるのだが、しかしながらそんな理由が無効化されてしまう要因が1つだけあった。
つまり黒岩には一人だけ、此の部屋で対峙したくない男が居たのだ。其れはとても記憶に新しい、例の木乃伊男である。
其の男が、どうやら、―――

「涙香君」
『太宰……、悪趣味だね、君も。立派な不法侵入だと思うけれど?』
「誉め言葉として受け取っておくよ」

中原が消え、誰も居ない筈の黒岩の部屋には、「だって鍵が空いてたんだもん」等と宣い、我が物顔でソファに寝そべりながら【完全自殺読本】なる本を開いている太宰治が居た。

「ちょっとからかいに来ただけなのさ」
『そう』

太宰は普段のにへらとした表情で本を閉じつつ、窓辺に表情無く立つ黒岩に視線を送る。

「つれないなあ」

クスクス、状況を楽しむように太宰は笑う。何を考えているやら解らないその黒い瞳に一筋の月明かりが映り込み、鋭い輝きを灯した。
寝そべっていた身体を起こし、太宰は窓辺に足を運び黒岩に近付いた。

「美しさは時に罪だね、涙香君」

太宰は、己に背を向けるようにして立つ黒岩にそんな声を掛けながら手を伸ばす。その長い指先が黒岩の造り物のような美しい頬に触れる寸前で留まる。

『触るな』

黒岩は決して視線を太宰には向けず、短く言った。

「解っているよ」

太宰は、なんとも言えない色をその瞳に称えている。行き場を無くしたその右手に瞬間的に視線を向けて僅かに一歩、黒岩に踏み込むと、避けようとする黒岩は窓辺の壁に背をつける事となった。

「私には触らせてすらくれないのに…其の誰かには意識を遣るぐらい深く追わせるなんてね」

苦笑と共に、太宰は黒岩を壁に閉じ込めるが如く両手で彼の行き場を奪った。鼻先や唇が触れそうな距離感、衣擦れの音が聞こえる。

『……相も変わらず滅裂だ、君は』
「涙香君こそ。こんなに怯えて、どうするんだい」

意地悪く、太宰は問い掛ける。黒岩は目前の太宰の存在に身を固くして、美しいその唇を引き結んだ。

「私はね、君のこういう姿を見るのが好きなんだ」
『外道、』
「ん、何とでも言い給えよ。涙香君のこんな姿は私以外の誰も知らないのだから、恥ずかしがることはないさ」

太宰は春風のような軽やかさで宣う。黒岩は沈黙を貫き、視線すら合わせようとしない。其れは、太宰の興が削がれるのを待っているようだった。
面白く無いとばかりに、壁に押し付けられていた包帯だらけの腕がゆるゆると動いた。

「例えばこうして、私が君に触れた瞬間、」
『っ、』

太宰は指先を黒岩の唇すれすれ迄近付けて留めると、僅かに視線を下げた。

「……、君には一切の音が無くなる。其処に在るのは君の恐れる無音の世界だ」

黒岩は伏せていた視線を少しだけ上げて独白する太宰を視界の片隅に入れた。

「君にとっては何れ程恐ろしい世界だろうね。でも私は……、其の点に於いてのみ、君の唯一になれるのだよ」

バチ、そんな音が聞こえそうな程真っ直ぐに、黒色と藤色の瞳が対峙した。

「涙香君」
『……、』
「信じては貰えないだろうけれど…私が自身の異能力を恨んだのは後にも前にも君の事だけなのだよ」
『…は、愉しんでいるの間違いだね。時偶押し掛けては、僕の目の前に恐怖をチラつかせて帰っていく。本当に、悪趣味な話だ』

黒岩の感情が其の視線から棘となって太宰に突き刺さる。此れは余り見せては貰えない、寧ろ太宰しか見たことは無いかもしれない、黒岩の姿だった。

「……まだ彼奴の姿を追っているのだろう?彼に何処かしら似た人間なら誰でも…………、あ、」
『出ていけ』
「涙香く、」

失言、そう理解しながら太宰の唇は音を乗せて動いた。そして黒岩も、この男の挑発には乗るまいと決意しながら、やはり沸き上がる怒りのような感情を押さえることが出来なかった。

『不愉快だ』

黒岩は瞳を閉じて、眼前の気配が遠ざかるのを観察していた。消え入りそうな詫びの言葉の後、玄関の扉が閉まる音を聴くと、黒岩は力なく壁に凭れてしゃがみこんだ。
太宰がここまで踏み込んだ失言をするのはとてつもなく久々だった。入れ替わるように部屋に入り込んでいた太宰に出会し、真逆、元同僚の中原との関係を見透かされてしまったのではないか、そんな不安が脳裏を掠めたが、杞憂に終わったようだ。

『僕も僕だ……いつまでもあの背を見詰めて居るから……』

解っているのに。
瞳の奥に焼き付いているあの赤い髪を、記憶の外に追いやることなんて出来やしないのだ。

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