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蝮は夜明けの夢を視るか

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黒岩は、横浜の街を歩いていた。程好く人がいて、程好く緑が在り、建物も程好く並んでいる。更には海にだって面していて、常に留まらず変化し続けようとするこの街を、黒岩は案外気に入っていた。
しかしながら……、今はそれを楽しむ余裕もなく。何とは無しに心此処に在らずな黒岩はとあるポストの前で立ち止まっていた。かなり寂れた――人通りの少ない道路脇にあるポストだ。其の所為か小脇に抱えたA4サイズの茶封筒が少しだけ草臥れて見える。

『本来ならば僕が直接出向くべきなのだけどね。……福沢さんなら多少汲んでくれる筈だ』

黒岩が小さく呟いた言葉から、彼の葛藤は武装探偵社社長行きと書かれたその茶封筒から来るものであるとわかる。彼の視線が斜め上を捉えると、そう遠くない位置に探偵社のビルヂングが見えた。
"本来出向くべき場所へ出向かず、手渡しすべき書類を郵送しようとしているらしい"この黒髪の麗人は、端的に言えばそう、件の木乃伊男―太宰治との確執…のようなものにより昨日の今日では、武装探偵社に足を踏み入れ辛い…、そう言うことである。

『とは謂え流石に此れはね……』

苦笑しつつ、そう呟いた黒岩の元に、郵便配達の男がバイクを鳴らしながら近付いてくる。
距離凡そ500米。黒岩はすぐ脇の物陰に隠れ、視界の端にその姿を認めると唇を少しだけ吊り上げて左耳に埋めていた耳栓を外した。男がバイクのスピードを緩め、地に足をつけると――

『――伊呂波歌』

甘い囁きのような口上が風に乗り、ポストに近寄った男が瞬間的に身体をビクリと痙攣させて崩れ落ちる。
全身をコンクリートに投げ出す寸前で黒岩がそれを支え、先程まで自身が身を隠していた物陰へとその男を運んだ。

『さて、制限時間は拾分って処かな』

言いながら振り返った黒岩は、いつの間にやら郵便配達員の制服に身を包んでいた。トレードマークの帽子を深く被って。

其の後は皆様のご想像通り、黒岩涙香は郵便配達員に扮した姿で堂々と探偵社へと出向き―――玄関先に出て来た白髪の少年に書類を届けると、まるで時間操作でもしたかの様に素早く先刻のポストに戻り、制服も配達員へと返却したのである。正に速業。

「あ、あれ……?俺……」
『大丈夫ですか?』
「へ?あの…」

目を覚ました郵便配達の男は混乱を抑えきれずに訊ねる。米神辺りを擦りながら小首を左右に傾げていた。

『通り掛かったら倒れていらっしゃるので驚きました。ご気分は如何ですか?』
「だ、大丈夫……です」

どの口が言うのか、どの顔の皮が微笑むのか。そんなことは気にしてはならないのである。
――喩え、"会わせる顔がない"と言う理由だけで善良な市民に、自身の異能力である音量操作を掛けて脳震盪を起こさせたのが黒岩涙香張本人だとしても。

『それは善かった』
「ありがとうございます……?」
『では、僕は此れで』

くるり、探偵社と郵便配達の男に背を向ける。暫くすると、ポストの投函物を回収する音とバイクが走り出す音が聞こえてきた。黒岩はホッと小さく息を吐く。

『……久しぶりにリスクを負って仕舞ったけれど、まあ話題の小虎君を間近で観られたから良しとしようか』

そう独白する黒岩の表情は柔らかいものだ。まるで木乃伊男との一件が無かったかのような清々しさすら見える。
確かに、黒岩が太宰と衝突するのは珍しい事ではないのだ。否――、衝突と言うよりは太宰が口を滑らせた失言により黒岩が耐え兼ね会話を切る、大概がそんな流れであるが。其の失言階級にも上級から下級まで様々であり、今回は恐らく黒岩にとって"最上級"に近い階級だったと思われる。

『其れにしても、この咳……、近くに居る様だけど、』

異能力故に聞こえてきてしまう遠くの音声。其の中に混じる知人の気配にふと意識を取られると―――

―――あの男っ!!
ドオォォォン―――

『あ、』

突如耳に聞こえてきた女性の叫び声と同時に大きな爆発音。そして目測壱粁程先の空には巨大な黒煙が上がっていた。

『芥川……』

――ゴホッ、ゴホッ

咳の音。徐々に近付いているようだ。
黒岩は何と無く足を止めて、ビルヂングの隙間から見える黒煙を見詰める。

武装探偵社社長福沢から依頼された"仲間を守れるだけの情報"を定期的に渡すこと、其れ則ち、ポートマフィアの活動を妨げる事に繋がる。
そして反対に、

「涙香さん」
『随分派手だね、芥川』
「ゴホッ、ゴホッ」
『咳……、酷くなってない?』
「やつがれの事は御構い無く。其れで、あの人は」

ポートマフィアからの依頼を受けると言うことは、言わずもがな武装探偵社の仕事を妨げる原因になるのだ。

『――僕の口からは謂えないと言うのは変わらない。唯……』
「唯?」
『もう直ぐ、君達は再会する。其れがどんな形であれ、邂逅は直ぐ其処だ』
「そう……ですか」
『御免ね』
「否――、涙香さんが言えないと仰有るのはあの人との関わりを持っている何よりの証拠。やつがれは貴方の信念を崩させたい訳ではない、故にこの答えに満足しています」

黒岩の信念、其れは"恒常的平等"。黒岩は所属先を持たぬ情報屋であるが故に、敵対する組織双方からの依頼を受けており双方への情報開示には細心の注意を払っている。
黒岩が"言えない"と言う事は、ある意味依頼主への最大限の配慮であり、芥川は其れを正しく理解していた。

『恩に着るよ、芥川』
「……龍之介です」
『え?』
「―――ゴホッ、ゴホッ」

驚きもあって視線を向けると、口許を押さえ咳をしつつ、少しだけ耳が桃色になった芥川。

『ふ、……龍之介』
「ゴホッ…、この辺りの軍警にも看破されていました。聞かれては面倒故、今後はそう呼んでください」
『承知したよ』

黒岩が微笑みと共に小さく首肯くと芥川は静かな瞳で其れを見届けて、歩を進めて行く。

「ではまた」
『そうだね』

遠くから火薬の臭いが風にのって流れてきていた。

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