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蝮は夜明けの夢を視るか [1/24] 家に戻ると、黒岩は直ぐに中島の異能力『月下獣』について今日得た情報を纏め始めた。 この間までは区の災害指定猛獣とされていたのにも関わらず、前の戦闘で中島はその能力をコントロールしながら少しずつ開花させて行った。特に目覚ましきはその回復能力だ。芥川の羅生門が完全に喰らった筈の右足膝下。それが見る間に修復されていった。 『福沢さんの影響が有ったとは謂え、其れ丈ではないな』 そう、武装探偵社社長福沢の異能力『人上人不造』は、異能力者がその力をコントロール出来るようにするもの。正式な社員は凡く、その恩恵を賜るのだ。 しかし中島の今回の働きは、本人の秘め足るものと福沢の異能力が見事に調和して発揮されたものであると黒岩は見た。 『敏捷さも目を見張るものがある……と、』 カチカチ、軽やかなタイピングの音と文章を構成する為の呟きだけが響く部屋。黒岩は静かに思考を巡らせる。 『まあ確かに、懸賞金の価値は有るかな…』 ここ数日の調査で小耳に挟んだ情報。中島敦に掛けられた懸賞金。額は七拾億と恐ろしい程だった。 『取り敢えず此の一件は福沢さんの耳に入れておかなきゃ……、ん?』 黒岩が僅かに身を捩ると、ポケットからカサカサと音がする。取り出すと、小さなメモ紙だった。見覚えのある字に瞬間的に眉を寄せたが"社長に会いに社まで足を運び給えよ"との記載に、首肯かざるを得なかった。 『まあ仕方無いね。流石に此の儘では不義理が過ぎる』 粗方、先程の接触の際に太宰がこそこそと入れていったのだろう。黒岩は紙を小さく破り塵箱に捨てると、視線をあげて耳に指を添えた。何か"聞こえた"ようだ。 『さて……、お客だね』 黒岩はゆっくりとドアへと向かう。もう数歩でノブに手が届くと言うところでノック音が響いた。 『来るような気がしていたよ』 「今晩は――ゴホッゴホッ」 『入って』 訪ねてきた芥川に促すと、彼は小さく頭を下げて部屋に足を踏み入れた。 「聞こえていたのですか」 『んー……、其の質問が、此処に来る切欠についてであれば是……来るかどうかの決定的問答についてであれば非だね』 「そうですか」 開口一番の問いに黒岩がさらり、返答すると芥川は疑うことなく受け入れた。 『……取り敢えず座って。少し話そう』 「はい」 僅かに陰鬱な様子を見せつつ、ゴホッゴホッ、細い手で口許を覆い芥川は促された儘ソファに腰掛けた。黒岩はそれを横目に、茶会の準備を始め―――参分程で芥川の待つソファへと向かった。 『どうぞ』 「あ……、」 カチャ、静かにテーブルに置かれたのは饅頭と緑茶。芥川の瞳が、ソファ脇に立つ黒岩を真っ直ぐに映した。 『謂ったよね。来るような気がしていた、って』 「ふ……、」 堪えきれない様子で芥川は控え目に笑い声を漏らす。黒岩は其の姿に目を細めて、其の短い髪を優しく一撫でした。 『御免ね……』 「涙香さんの所為ではありません、此れは太宰さんが決めたこと」 黒岩は、自らに言い聞かせるように話す芥川を目の当たりにし、長い睫毛を伏せた。太宰がポートマフィアを出る時も、出た後も――そして探偵社に入社する時も其の後も、黒岩は知っていた。太宰が連絡を寄越して来ていたからだ。其れで居ながら、マフィアと探偵社両方から依頼を受ける"中立"の情報屋を生業にしていた。 もっと言えば、黒岩は太宰がポートマフィアを抜ける前の芥川も、抜けた後の芥川も知っていて、其の瞳がずっと太宰の背を見詰めていた事をも知っているのだ。 「涙香さんの立場は……いつも苦しみと隣合せですね」 芥川は出された緑茶を一口含み、静かに言葉を溢す。視線を黒岩に遣り、二人掛けソファの隣に座るように促した。如何にも不思議だという表情をした黒岩は、ゆっくりと芥川の横に腰を下ろす。 「何故組織に属さないのですか」 『どうしたの?いきなり』 「以前から不思議に思っていました」 大きな瞳をジッと己に向けてくる芥川に苦笑を浮かべつつ、黒岩は悩む様子を見せた。 「貴方の仕事の速さや正確さは抜きん出ています。首領からの信頼も厚く、それは恐らく探偵社も同様。引く手数多である事は明確です」 『買い被りすぎだよ』 「やつがれは事実しか述べません」 『ありがとう……龍之介』 伏し目がちに微笑み黒岩は、ゆっくりと言葉を繋ぐ。その美しい指先は、芥川の髪へと伸ばされていた。芥川は、この髪を撫でる優しい手つきが、とても好きだった。 『僕はただ、君達のどちらも僕の敵で在って欲しくないと……それだけなんだ』 黒岩の瞳は何処か遠くを見つめるように揺れる。芥川は、黒岩が時々見せるこの過去に還る様な瞳が少しだけ苦手だった。 『まあ……だからこそ僕は、誰の味方にも成れない。半端者なんだよ』 「……、違います」 視線を下げて悲しむように話す黒岩の片腕にそっと触れ、芥川は繰り返す。 「違います、」 『龍之介、……』 「やつがれは貴方を責めたい訳ではありません」 芥川が眉を寄せ小さく話した後……少しの沈黙、其れを破ったのは黒岩の方だった。 『僕はね、怖がりなんだ。哀しい想いはもうしたくない』 瞬間的に黒岩の瞳に複雑な感情が燃え上がる様子を芥川は見た。芥川が背を追う太宰、そして黒岩が何等かの感情を隠しきれない其の"誰か"。芥川は知っていた。 「それは…、あの未来を見たという異能の赤髪の男の事ですか」 『……、』 「あの男が一体……」 芥川はどうしても解せなかった。まだマフィアに所属していた時、敬愛する太宰からも"彼には絶対に勝てない"と言われた上、今日此の場で、信頼する黒岩もまた其の男に囚われている様子が、兎に角解らなかった。 黙り込む黒岩に痺れを切らし、芥川は身を乗り出して問い掛ける。 「涙香さん、」 『御免ね……、』 しかし、黒岩は痛みを耐えるような微笑みを浮かべたあと、芥川を強く抱き締めるだけだった。 ――――― 『全くこの頃皆同じ事ばかりだ……』 芥川が帰ると、黒岩はそう溢しながら居間の本棚へと向かう。其の一角には倒された写真立てが一つ、二つ…三つ。内一つを表にすると、 『此れはきっと…僕の唯一の綺麗な場所なんだ……どうか誰も触らないで呉れ、』 薄暗い室内で酒を片手にした男達。不精髭の赤髪の男、蓬髪に片目を包帯で覆った男、神経質そうな瞳を眼鏡越しに見せるスーツの男、そして、ゆったりとした笑顔でこちらを見詰める黒岩涙香の姿が撮された写真が静かに嵌め込まれていた。 [前へ][次へ] 8/24ページ [Back] [Home] |