8
日々はバタバタと過ぎていく。
気付けば、独歩が初めて静満の働くカフェに来店してから1週間以上の時が経とうとしている。
静満は朝食の準備中だった。キッチンから見える位置にあるカレンダーを視界に入れて、寂雷が今日から三日間、学会のため不在になる事を目視する。静満は、ふ、と息を吐いてから、ジュワーッと良い音で主張するフライパンを操作した。どうやら、ふっくらとした卵焼きが完成しようとしているようだ。
今日の朝は和食。そこまで静満のレパートリーが多くもないため、余り手製が食卓に上がることは無いのだが。
「おはよう、静満君」
『おはようございます、寂雷さん』
「今日は和食だね、とっても良い香りだ」
『はい。もう少しで出来ますので、どうぞご準備なさってください』
「うーん…、仕方ない。そうだね」
何が仕方ないのか知らないが、寂雷が出発するまで余り時間も無いため静満は黙々と料理を皿に盛り付けて行く。
『完成…、かな』
彩り良く、バランス良く。食卓に並んだ献立は、その鉄則をピッタリそのまま表現したような物だった。
静満は寂雷と暮らし始めるまで、料理など殆どしたことが無かった。当然だ。大抵の事は母親がやってくれていたのだから。
暮らしが始まってすぐ静満が、家事を頑張りだした時。寂雷は切ない顔をして"そんなことは無理しなくて良いんだよ"と、いつものように優しく言ってくれていた。でも、静満は、それでは納得が行かなかったのである。始めこそ寂雷から教えてもらう機会もあったが、一カ月もしない内に静満は手順をものにして動くようになっていた。
「お待たせ」
粗方準備を終えた寂雷が食卓に着く。美しい所作でいただきます、と挨拶をすると味噌汁をひと口。
「静満君、ありがとう。今日も美味しいね」
『、お口に合って良かったです』
静満はその言葉に、小さく頭を下げてから自らも箸を進め、思考する。
寂雷から与えられるぬるま湯の様な幸せに浸かり続けるだけなのは嫌だった。それは、そうしたら。本当に、本当に、静満が寂雷と対等になるための術を無くしてしまう事になるからだった。静満は、寂雷に何かして貰うだけの存在で居ることが、どうしても耐えられないのだった。
「それじゃあ、家を空けるけれど…。気を付けて生活するんだよ」
『はい、寂雷さんもお気をつけて』
寂雷が食事と身支度を終えて、玄関に立つ。傍らにはキャリーケース。学会は横浜方面で行われるのだと言っていた。
静満が寂雷に視線を向けると、その首元には見覚えのあるネクタイが締められていて。
「ふふふ、静満君が選んでくれたものを付けたんだ。とても良いね」
静満の視線に気付いて、機嫌良さそうに寂雷は微笑む。濃紫地に薄紫と銀のストライプが入ったネクタイは、両親の墓参りに行った後一緒に選んだものだった。
『寂雷さんは、何でも似合います。研究発表、頑張っていらしてください』
「ありがとう静満君、頑張って来るよ」
寂雷は静満の髪に触れて、その指先をゆるりと遊ばせる。柔らかい髪を耳に掛けると、静満の米神に一つ口付けた。
「行ってくるよ」
『、――』
穏やかに微笑んで、寂雷は部屋を出ていく。パタリ、と扉が閉まると静満は瞬間的に硬直していた全身の力が急激に抜けるのを感じて、その場に座り込む。
『いってらっしゃい、』
小さく小さく呟いた言葉は、恐らく寂雷には届いていない。静満は優しい唇が触れた米神を細い指先でなぞると、自身の身体を抱き締めるようにして踞る。
"大人"は何時だって狡い。人が折角、諦める積もりで思考の端に追いやろうと努力している感情を、一時の気紛れな行為によって想起させてしまうのだから。
静満は遣り切れない想いが堰を切ったように溢れるのを感じた。全身がカッと熱くなる。肩が震える。息が苦しい。
気付けば、抱え込んでいた膝が湿り気を帯びて、黒いパンツをより一層黒く染めていた。
『くろ、い』
静満は痙攣する喉と、重たくなった目蓋をコントロールして、言葉を零す。脈動に合わせて痛む頭で立ち上がり、玄関の鍵を閉める。視線を横にずらすと、シューズボックスに備え付けられた姿見に、真っ赤な目をした脱け殻のような自身の姿が映っていた。
―――
夜は何を隠すのか。将又何を暴くのか。静満にとってはそんなことはどうだって良かった。
好きな人が居る。でも、叶わない。側に居るのに届かない。
そんな気持ちを何かで少しだけでも埋めたかった。…消したかった。……忘れたかった。
今夜も静満は夜の新宿の路地に居た。
歌舞伎町のすぐ裏側にある路地。照らす光も僅かで、陰惨な雰囲気を醸す。誰かが棄てて行ったらしい空き缶が、風で転がりカラカラと音を立てた。
ざわめきが遠い。路地の少し先に視線を向けると、人々の往来が見える。幸せそうな人、幸せだと思い込もうとしている人――、不幸の化身足ろうとしている人。この街のこの区画は特にそれがぐちゃぐちゃと雑ざりあっていた。
「君、1人?」
背後から声が掛かる。静満の隙間を今夜埋めてくれるかもしれない相手。
静満は偽名の顔で微笑んで、首肯く。こうして夜は更けていくのだった。
――――
セックスがイマイチでも、静満にとっては特に問題点無かった。夜の静けさを掻き消してくれる相手が居るだけで、多少は自己を保てるからだった。
静満がホテルを出ると、朝の閑散とした新宿の景色がそこにはあった。殆ど人通りは無い。少し歩けば、昨晩の空き缶が滑稽にもまだ転がっていた。歌舞伎町がひっそりと息を潜めている様は不思議だ。
「そこの黒猫君」
静満がぼんやりと歩いていると、交差した路地の向こうから声を掛けられる。視線を遣れば、そこには新宿の夜の街の帝王と名高い男が居た。
「こんな時間に、どうしたんだい?」
『貴方の様な方が気にすることではありませんよ』
夜のネオンに汚されない、高潔な光色の髪。所々黄緑色が入っている。グレーを貴重としたスリーピースのスーツをさらりと着こなしており、正にこの夜街のナンバーワンと言われる男、そのものだった。
「僕を知っているのかい?」
『ここで貴方を知らない人が居ますか?』
「褒めるのが上手だね、黒猫君」
静満は、さっきから黒猫黒猫となんなのだ、と訝しむ。確かに、今の静満の服装は黒地のレジメンタルストライプシャツに黒い細身のパンツだったが。
『黒猫、ではありません』
「おや?てっきり迷子の仔猫なのかと思ったけれど」
当然ながら、この男、静満が今の今まで何をしていたのかを分かった上で言っている。質が悪い、と思った。
「僕は伊弉冉一二三。ここでホストをしているよ」
『ええ』
知っています、と言外に伝える。一二三は少し笑った後、眉尻を下げて尋ねてきた。
「黒猫君、君は名前を教えてくれないのかい?」
『―――、偽名』
「ああ――君があの"天使"なのか。なるほど」
静満が嫌々であることを隠しもせず名前を伝えると、一二三は合点が行った、とでも言いたげに思案する。そして静満の顔をまじまじと見詰めてから、再び口を開く。
「確かにとても綺麗だ。そんな君が何故こんなことを?」
静満は、愚問だ、と思った。静満にしてみれば、この伊弉冉一二三と言う男の方こそその質問が当てはまると感じたからだった。
『貴方こそ、人工的な光より太陽の方がずっと似合いますよ』
「……そうか、失言だったね。すまない」
『いえ』
わざと嫌な切り返しをして、場を濁す。一二三が面喰らった様な表情をした後、僅かに瞳の中の光を弱めたのを見て、静満は自分の言葉が相手にとっても刃になったと感じた。それでも、良いと思った。お互いに侵略し過ぎないことが大切なのだ。触れられたくない事は誰にだってあるのだから。
「本当の名前を教えて貰えないかな?」
一二三が、静かに尋ねる。静満は様々な点でのリスクを瞬時に考える。しかしながら、この伊弉冉一二三と言う男は警戒心を抱かせない何かを持っていた。静満も、何故かこの人なら大丈夫、と思い立ったのだった。
『―――――、静満』
「うん。良い名前だ」
ビル風が通り抜ける。昨晩から見慣れた空き缶が、再びカラカラと音を立てた。
『……それじゃあ、失礼します』
「また会えたら良いな」
静満が軽く頭を下げて足を進める。一二三はそれを見ると、普段から言い慣れているのであろう言葉を零す。
『どうでしょうか。一晩買ってくれるなら考えますが』
静満は流すようにそう言って、陽の当たる大通りへと抜けていった。
- 10 -
*前次#
ページ:
ALICE+