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この週、静満は珍しくカフェの仕事が二日連続で入っている。何でも、普段ランチタイムのシフトで入っている店員が怪我をしたとかで暫く休むことになったそうだ。この両日は静満は、どちらもランチからバータイムの通しシフトだった。
フロアのテーブルを拭き終えた所で、カフェの入り口がカランカラン、と来客を報せる。静満は顔を上げて、いらっしゃいませ、と呼び掛けた。すると視界に入ってきたのは、どこかで見た姿、赤い髪。俯き加減で店員を待つその人はストライプのシャツに、緑の地に黄色のチェックのネクタイを締めていた。
『いらっしゃいませ』
「あ、」
誰も手が空いていなそうだったため、おしぼりと水、そしてメニューを持って入り口まで向かう。静満が声をかけると、独歩は目と口を瞬間的にぽかん、と開く。どうやら静満の事を覚えているらしい。一名様ですか、の質問にひっ…はい、と答えた独歩を静満は窓際の角の席に通す。
『こんにちは。…観音坂さん、でお間違いないですか』
「は、はい。観音坂、独歩です」
独歩が着席した所で、静満が話し掛ければ、その瞳は焦りつつもホッとした様子を見せる。フルネームでの自己紹介は、静満が独歩を不思議の国の住人なのだと改めて認定するには充分すぎた。
『ふふ。良かった。おしぼりをどうぞ』
「あ…あ、りがとうございます、えと、静満さん、ですよね」
『はい。覚えていてくださってありがとうございます』
何故か酷く恐縮している独歩に、静満はにこ、と微笑んでおしぼりを渡す。水とメニューをテーブルに置いて、お決まりになりましたらお呼びくださいね。と言って、一度別なテーブルの対応に向かった。
対応が終わると、控え目な声ですみません、と呼ばれる。
『はい、お決まりですか?』
「ブレンド珈琲と、ミックスサンドを、お願いします」
『畏まりました。少々お待ちくださいませ』
静満は、ではこちらお預かりします。と言って独歩からメニューを返却して貰い、キッチンへ向かう。マスターに"ブレンド1つとミックスサンドです"、と注文を伝えると嬉しそうな返事が返ってきた。それもその筈。珈琲はこのカフェの売りの1つなのだから。
出来上がった珈琲とミックスサンドを独歩のテーブルまで運ぶ。
『お待たせ致しました。ブレンド珈琲とミックスサンドをお持ちしました』
「はい、…ありがとうございます」
配置が終わった所で、独歩の視線を感じて、静満は顔を上げる。パチ、と目が合うとビクリ、肩を震わせた独歩は一度珈琲に口を付けて、深く息を吐いた。
唇を小さく動かしており、何か言いたげな素振りを見せている。静満は疑問符を浮かべながらも、会話の辞書の中で一番当たり障りのなさそうな質問を投げ掛けた。
『――、お仕事の休憩中…ですか?』
「はい。あ…その、今日は珍しく、休憩が取れて。それで次のアポの場所に近いから、ここで…」
『そうでしたか。お疲れ様です』
珍しく休憩が取れる、とはどういう状況なのか…と静満は困惑するも、柔らかな表情を変えること無く独歩を労る。
「あ、の、ここで働かれていたんですね」
『時々ですが、お手伝いさせて頂いています』
静満が問いに頷くと、独歩は思案するように瞬きをして、コーヒーカップを手にする。
「珈琲、あの。すごく美味いです…」
『ふふ、ありがとうございます。珈琲はこだわって淹れているので、そう言って頂けると嬉しいです』
静満はやはり、爽やかな笑顔を見せて答える。独歩は雲のなかにいるような心持ちでそれを見ていた。会話も一段落し、独歩の雰囲気が和らいだ所を見計らって静満は、では、ごゆっくり。そう言って他のテーブルの対応に向かう。
幾つかの注文を取ってマスターに伝えると、"休憩入ってね"と声を掛けられた。時計を見ると、確かにそんな時間だ。静満はマスターに頭を下げてから、スタッフ用の休憩室に入った。
『ふぅ…、』
大きく息を吐く。制服のエプロンのポケットから、小さな包みを取り出し口に放る。静満のお気に入りの飴。蜂蜜と甘さと、時折ほんのりと薫るハーブが身体に染み渡るようだった。
少しだけ外の空気を吸ってこよう、と静満は飴を数個ポケットに仕舞ってから、裏口から表に回るようなルートで歩き出す。野良猫がゆるり、静満の動向を探るように視線を向けて来る。静満がその姿に向かって小首を傾げると、猫は路地からサッと抜け出していった。
店の入り口付近に出ると、調度店から出てきた独歩に出会う。
『、ありがとうございました』
「ごちそうさまでした。……エプロン…ない……、休憩中ですか?」
『はい、そうです』
不意討ちで出会したと言うのに、独歩は瞬時に静満の服装の違いを指摘し、状況を把握した。静満は陰鬱な雰囲気ではあれど、この人は見かけより仕事ができる人なのだろうなと推察する。
『…あ、そうだ。観音坂さん、蜂蜜はお嫌いですか?』
「え、いや、嫌いではない、です」
ふ、と静満の口から零れた問いに、独歩は怯みつつ頷きながら答えた。静満は目を少しだけ細めて、ポケットから二粒、飴を取り出した。
『それじゃあ良かったら、これ。どうぞ』
「…あ」
『リラックス効果の高いハーブが配合された飴です。蜂蜜の味が、上手くハーブと合っていて、僕のお気に入りなんです』
「あ、ありがとう、ございます…」
独歩は静満の生っ白い掌とその顔を交互に見て大いに戸惑った後、ソロリ、と飴を受け取った。
静満は、疲れた時や寝る前がお薦めです。と付け加えて微笑む。
『お仕事頑張ってください』
「はい―――、また、来ます」
『お待ちしてますね』
独歩は、意外なほど確りとした口調で切り返してから、綺麗に頭を下げて仕事に戻っていった。
これが、15時頃の話である。
その少し後、休憩が明けて店に戻れば、あとは怒濤の時間。静満自身、マスターの人柄と小ぢんまりしているが雰囲気のあるこの店が気に入っているものの、やはり余りの混雑は辛いものがある。…店が繁盛するのは良いのだが。
お陰さまで、上がれる時間になる頃には静満はヘトヘトで。明日も同様のシフトで、果たして自分は大丈夫だろうか、と帰る身支度をしながら静満は息を吐く。
「お疲れ様」
23時頃に、裏口から店を出ると、そこには美しい人が微笑みと共に立っていた。寂雷だった。
連絡もなく寂雷が迎えに来るのは初めてで、静満は驚いていた。
『…、お迎えに来て頂いてすみません、…ありがとうございます』
「うん、やっぱりこの時間帯は心配だからね」
連絡を入れずに来てしまったよ。と寂雷は静満の髪に触れた。車に乗り助手席に腰掛けると、ドッと疲れが出るのを感じる。
寝てしまいそうで、何となく思い出したことを口にして脳を働かせる。
『…そう言えば、今日はあの方、観音坂さんが来てくれました』
「独歩君が?…そう、今日は休憩が取れたと言うことかな…それは良かった」
『はい、そう仰有っていました』
昼間に聞いた時も引っ掛かった発言ではあるが、寂雷からもその状況を示唆する言葉を聞くと、何とも言えない恐怖感を覚える気がした。
『なんだか…すごい労働環境なのですね』
「そのようだね。……気になるかい?」
寂雷の優しい声に眠気を誘われつつ、今日まじまじと見た独歩の姿を思い出す。疲れを見せるものの、ただ単に塞ぎ込むだけではなく――社会への破壊衝動も携えながらも、自身の遣るべき事を全うしている。
『気になる……と言うか、あの方のちぐはぐな感じが、掛け違えた釦、みたいな…』
不思議だ。静満は霞んできた脳内でそれだけを思った。寂雷の安全運転で心地好く揺れる車内と、大好きな寂雷の穏やかな声と、寂雷の薫り。
「…なるほど。それは興味深い解答だ」
『――、』
寂雷は静かにそう回答したが、静満は遂に夢の中へと入っていった。
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