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独歩との邂逅を経て、寂雷と静満は一休みすることで一致した。新宿に昔からある喫茶店に腰を落ち着けて、昼食を摂ってから寂雷と静満は珈琲を飲んでいる。の、だが。

『あの、…寂雷さん』
「なんだい?」
『……、僕の顔、何か付いていますか?』

そう、寂雷は喫茶店に入ってからずっと。会話をしている時も、物を食べている時も、静満の顔を見詰めているのだ。静満も始めは気のせいかと思ったのだが、食後の珈琲タイムになってもそれが継続されるため質問を投げ掛ける事に決めたのだった。

「ん?いや…?」
『そうですか…、なんでしょう。寂雷さんの視線があるような気がして…』
「……、おや。そうか。ごめんね、見すぎてしまったようだ」

寂雷は無意識で見ていたようで、静満の言葉に謝罪し、思案するように唇に指先を添えて言う。

「静満君の笑顔を久し振りに見たものだからね」
『笑顔…?』

静満の怪訝な切り返しに、うん、さっき独歩君に笑ってただろう。と寂雷は答えた。

『あ、ええ。初対面の方ですし、寂雷さんの…多分、患者さんですよね。そう思って、礼を尽くそうと思ったのですが』
「なるほど」

それが一体どうしたのだろう。静満は疑問符を隠せないでいるが、寂雷は簡単な四文字の切り返しをしただけで、黙り込んでしまった。何か思考しているのだろう。視線は、珈琲の水面に向かっている。

笑顔。静満にとっての笑顔、等というものの概念が"作るもの"になってしまったのはいつからか。答えなんてもう解りきっている。しかしながら幸いな事に、作ったものであれど、笑顔は笑顔だ。カフェでの仕事で不自由する事もないのだから、静満の生活に何ら支障はないはずなのだ。

「静満君……、私は君の笑顔がとても好きだからね」
『……、』
「もっと見られる機会が増えたら嬉しいと思うよ」

寂雷は深い思慮のもと、自身の中で答えを出したのだろう。恐らくそれは、静満が持っている答えとほぼ同義だ。そしてその静満の思考の深淵を踏み躙ることなく、寂雷は普段より眉尻を下げつつ、静かな優しい声で静満に伝えたのだが。静満は返答をすることなく寂雷のその表情を真っ直ぐ見詰める。
静満は、ゆっくりと大きく瞬きをして、口を開いた。

『この後はネクタイを見に行きましょう』

静満はこの話は無意味だとでも言うように、話題を変える。寂雷は落胆の様子を僅かに見せたが、静満の言葉に是の意を返した。



――――――



寂雷のネクタイを購入して、その後数日分の食材を手に入れた寂雷と静満は、二人では広すぎる家へと帰宅した。
寂雷は、静満に閉ざされてしまった心の中が気になって居たものの、無理に開くことは治療的観点からも良くないだろう、と感じて、特にその話題を蒸し返したりはしなかった。

『寂雷さん、』

静満が作ってくれた夕食を共に囲んでいると、声をかけられる。

「なんだい?」
『今日は色々と買っていただいてしまって…、ありがとうございました』
「ご丁寧にありがとう。どういたしまして」

律儀な静満が静かに頭を下げるので、寂雷もそれに倣ってペコリ、頭を下げた。

「楽しくて年甲斐もなくはしゃいでしまったなあ。一日付き合わせてしまったね」
『いえ、僕も楽しかったです』

表情を変えることはないものの、静満は本心で言っていた。久し振りに寂雷と同じ時間を過ごせたことは、静満にとって、何よりのご褒美だった。

『明日、ランチからバータイムまで通しでシフトが入っているので。買って頂いた新品の洋服で気合を入れて行きます』
「ふふふ、うん。…それにしても明日は当直だから迎えに行けないけれど大丈夫かい?」
『はい、大丈夫です。クローズまでは居ないので、日付は跨がず帰って来られます』

静満の働くカフェは、18時からをバータイムとしている。店が締まるのは深夜2時。静満が勤め出してから五カ月程であるが、時折入ってくるバータイムのシフトの際には心配性な寂雷が車で迎えに来ることもあった。

「そう、…なら気を付けて帰って来るんだよ」

静満は、はい、と頷く。箸を置く寂雷に倣って"ごちそうさまでした"と手を合わせてから、空になった食器を手早く集めて洗い場へ移動した。

寂雷が入浴に行き、食器の洗い物を済ませた静満は自室に行って、今日買って貰った服と靴を袋から出し、タグを切る。
ベストは気温によって判断するとして、シャツとスラックスは絶対に明日着ていくと決めていた。靴は惜しいところではあるものの、初日から立ち仕事に履いていくのも少しだけ心配で、玄関の靴箱の中にソッと仕舞った。

部屋に戻り、紙袋を畳もうとしてひっくり返すと、中から小さな紙がはらり。――名刺だった。静満はそれを拾い上げ、ジッと目を通す。

観音坂独歩。…聞いたことのある会社の名前。医療機器メーカーに勤めているようだ。所属しているのは、営業課………、営業課?会社の所在地、電話番号、メールアドレス。

『物凄い個人情報………』

思わず、静満の唇から言葉が洩れる。確かに、名刺と言うのは見ず知らずの良く分からない相手に渡すものとしては適切ではない。静満は、自分が悪い人間だったらこの情報をどう使うだろうか、と考える。勧誘の詐欺電話やメールをしたりするかもしれない、と過った。思い出される赤い髪の男性とはかけ離れた"営業"と言うワードから、"名刺交換が癖になってしまったのかも知れない"と静満は結論付けて、引き出しにその小さな厚紙を仕舞った。

「静満君、お風呂空いたよ」
『はい、分かりました』

寂雷が自室のドア越しに声を掛けてくれる。静満は答えると、着替えを持って浴室へと向かう。思えばこの寝巻きも、寂雷が買い与えた物だ。白地に、黒の縁取りラインが入った前開きの上着と、揃いのズボンだ。

ゆるゆると入浴を済ませ、出る前にサッと掃除をする。明日の夜は寂雷も当直故に帰宅しないし、静満も帰宅するつもりはないのだ。寂雷にはああ言ったが。
水場は放置したら汚れがこびりつくし、カビが生えるかも知れない。静満はいつの間にか主婦思考になっている考えのままに、掃除を終えて浴室を出る。浴室乾燥機をパチ、と付ければ完了だ。

髪を乾かして、歯を磨いて。後は寝るだけ、の状態にしてリビングへ。寂雷はソファで寛ぎながら、A4サイズの論文らしき物を読んでいる。入室してきた静満に気付くと、微笑んだ。

『自室で少し仕事をしてから休みます。おやすみなさい、寂雷さん』
「そうか。程々にして、ゆっくり休むんだよ。おやすみなさい」

はい、と返事をした静満は自室へ。電気をつけて、部屋の奥に設置された仕事道具のPCを開く。起動画面で更新プログラムのパーセンテージが表示される。静満は小さく息を吐く。もう少し、時間がかかるらしい。視線をサイドテーブルに向けると、スマホの通知ライトが光っているのに気付いた。手を伸ばそうとしたものの、気が乗らない。

『今日は気分じゃないな…』

静満は、小さく小さく呟く。スマホを開くのを諦めて再度PCに向かう。調度良く表示されたデスクトップ画面のメールを開けば、新しい仕事が一つ舞い込んできていた。




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