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今日もカフェは繁盛。バータイムになって漸く、客足が落ち着いたようだった。それでもほぼ満席。各々の席に付いた人々が緩やかな夜の時間を過ごしている。静満が身に付けて行った新しい服はスタッフにもお客様にも評判が良く、何度か誉めて頂いた。
「静満君、上がっていいからね!」
『はい、マスター。では、お先に失礼します』
現在の時刻は23時。大体予想通りの時間で上がることが出来た。制服として仕事中着けているエプロンを取って、専用のロッカーに戻す。自分の荷物を取り出して、従業員専用の出入口である裏口から出た。
夜のギラつく新宿。空高く輝く星は霞んで見えない。我こそがその代わりなのだ、とでも言うように、ネオン達は主張する。
ポケットのスマホが震える。メッセージの通知のようだ。取り出してみれば、それは寂雷からのメッセージだった。
"お仕事は終わった?"
そんな短い言葉だったが、寂雷の優しさや気遣いの全てが詰まっているように静満は思った。
"はい、お気遣いありがとうございます。これから帰ります"
そう返すと同時に既読になる。静満は少し目を見張って、寂雷からの返信を待った。
"そうか、お疲れ様。気を付けて帰るんだよ。"
"ありがとうございます。寂雷さんも、お疲れ様です。また、明日"
ゆっくりとした寂雷の暖かい返信に、定型文のような自分の返信。相反するようなその二つが、一つの画面に並んでいくのが、静満は不思議だった。
"ありがとう。それじゃあ、おやすみ。"
"おやすみなさい"
ツキリ、何処かが痛んだ。
返信を終えた静満は、ポケットにスマホを仕舞う。誰も居ない家に、帰るのは辛かった。この寂しさと、もうどこにも遣り場のない気持ちを、誰でも良いから忘れさせて貰いたかった。例えそれが、刹那的なものであっても。―――例えそれが、大好きな人に嘘を吐いて得るものであっても。静満はもう、それでしか自分を守れないのだ、と結論付けていた。
静満はカフェのある通りから遠ざかり、人通りの疎らな路地を歩く。夜風は少し冷たい。身体が少しだけ冷えてくる。ふと空を見上げると、月が薄雲に隠される一歩手前だった。
「偽名君?」
どこかで聞いた、声。ゆるり、振り返れば少し前に相手をして貰った紳士が立っていた。何の仕事をしているやら分からないが、こんな夜遅くにも関わらず今日も仕立ての良いスーツを着ており品の良い鞄を手にしている。
『こんばんは、』
静満は笑う。偽名の顔をして、綺麗に笑う。
「一人なのかな?」
『ええ』
「私に君の時間をくれる?」
『ふふ、喜んで』
差し出された大きな手に、するり、熱を誘うように触れる。夜風に冷えていた静満の指先を温めるように、紳士の手は華奢な手を包み込む。そして闇の中にゆっくり溶けていく二つの影は、やがて見えなくなった。
――――――
人々が活動し出す頃帰宅した静満は、そう言えば、とスマホを取り出した。
昨々晩、通知が光っていたものの面倒がって開かなかったメッセージを確認するためだった。
『あ、』
スマホの画面を点灯した瞬間に新しいメッセージが入る。
"おーい。反応しろ、生きてんのかよ"
送信元は、山田一郎、と表示されていた。時折、一郎はこうやって静満にメッセージを送ってくる。一つしか変わらないものの、一郎の方が年下なのだが、頼り無げな静満を心配していつも声を掛けてくれるのだ。本当に彼は兄業が板についている。
一郎からのトーク画面を開けば、8件ものメッセージが送られてきていた。その全てが静満の調子を伺ったり、反応を待つものだった。
何か返事をせねば、と思ってキーボードを開いた途端、通話の画面に切り替わった。大方、既読が付いた事に気づいた一郎が、この先のやり取りに焦れてそのまま通話ボタンを、と言った所か。
『あ、おはよう一郎くん』
「おい静満、そうじゃねえだろ。返事くらいしろよお前」
『うん。ごめん』
スマホ越しの声は少しだけ疲れたような印象を与えてくるものだった。そういう所を人に見せない一郎なのに、と静満は不思議に思う。電話越しに一郎が、はあ〜、と大きなため息を吐いたことが分かった。
「はよ。元気かよ」
『…、うん』
「なら、良いけどよ」
『……、うん』
律儀に朝の挨拶を返してから仕切り直す一郎に何故だかホッとする。静満が同じ返事ばかりなので、一郎はそればっかじゃねえか、と苦笑していた。
「静満」
『ん?』
「……ああいうコト、もう辞めろよ」
少しだけ、言い難そうに。一郎は言葉を紡ぐ。"ああいうコト"。つまりそれは静満が苦しみを紛らわすためにしている、夜の出来事。一郎はその職業柄、静満の仮初めの姿を良く知っていた。それでなくとも、静満が戯れを始めて直ぐに気付いたのも一郎だったし、誰よりも静満の吐露する場面を知っていて、心配しているのも一郎だった。
『どうして?一郎くんは、僕がこうしないと苦しくて息が出来ないことを知っているでしょう』
「それでも、だ」
静満は淡々と言葉を返す。一郎は、その返答は想定内だとばかりに断定的に答える。一郎が真剣な表情をしているのは電話越しにも伝わってくる。
『…そしたら、僕は生き方が分からないよ』
「方法なら、見つければ良いだろ。俺も一緒に考えるから」
優しすぎる言葉。余りにも、静満の現実感とはかけ離れていて、もう良く分からなかった。ただ、一郎が本気で、静満の事を考えて言ってくれている事だけは、分かっていた。
『…一郎くんが、優しさから言ってくれてるのは、ちゃんと知ってるけど。すごく、苦しい』
「―――分かってる」
一郎はいつも真っ直ぐに言葉をくれる。傷付くこともあるが、それでも、その言葉には悪意ではなく相手を想う気持ちがのっているのだ。それが分かるから静満も、一郎には素直に、率直に物を言う。どうせすべてバレているし、取り繕う必要もないのだから。
一郎は静満の言葉を静かに受け止めた後、
「ダチを売りたくねえんだよ。ここんとこ、お前の事を調べろ、とかそういうクソみてえな依頼があんだぞ」
『そう…』
「…、全部上手く誤魔化してる。ただ、別な所に話が行ったら、厄介だぞ」
お前が危険な目に遭うかもしんねえ事を、俺は見過ごせねえ。と一郎は絞り出すように呟く。
『気を回させてごめん。…でも、僕は別に、』
「俺が嫌なんだ。静満、お前、本当に自分を大切にしろよ、」
自分を守るためにしている筈の行為が、自分を大切にするための行為とは相反するものだった、と言うことなのかも知れない。静満はぼんやりと、ただ、思考の進まない頭で、唇を震わす。
『……、分からない。僕はもう、自分の事が一番どうでも良くなっちゃったから』
一郎が息を呑む。
「っ、笑えねえよ」
『むしろ笑って欲しいくらいだよ、僕は』
「お前、…」
静満は穏やかに言う。一郎は、表現し難い声色で詰まりかける言葉を何とか吐き出したようだった。
『ごめんね。いつもありがとう、一郎くん』
「静満…」
『仕事に支障があるなら、僕の事は気にしないで欲しい。何とかするから』
「何とかって……、」
淡々とした様子を崩さない静満に、一郎は僅かに咎めるような声を上げかけたが、口をつぐむ。
そして、小さく息を吐いた後、優しい兄のような声で言った。
「いや、……静満、近い内に俺んち来いよ。目一杯甘やかしてやる」
『……うん、ありがとう』
「じゃあな。次からは返事早く寄越せよ」
『気を付ける』
通話終了、の表示。
一郎にかなりの心配をかけてしまっている、静満はそれを強く認識した。自分を守るために、他者を、それも親しい人に面倒をかけることは嫌だった。
スマホをベッドサイドに置き、充電器に繋ぐ。
静満は静かに家事を済ませてから、デザインの仕事に取り掛かる。珍しくタイプミスが続き、いつもよりも時間をかけて一つの依頼を終えるのだった。
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