再会


手を動かせば装飾がついたそれがジャラ、と小さな音を立てる。本来鎖の部分がゴムで出来ているそれは髪も結ぶことが出来るという。朔は嬉しそうに目を細め、優しくそれに触れる。


あぁ…好きだなぁ


旧校舎の屋上でしみじみそんなことを思ってみる。昼休み、一人本を読んでいたが目はいつのまにか左手首を見ている。

ふと数日前のキスを思い出し、顔に熱が集まる。目を閉じ、きゅっと痛いぐらいに締まる心臓を落ち着かせるため、後ろの柵にコツンと後頭部を預ける。


こんなに、彼を好きになるとは思わなかったなぁ、と朔は苦笑いを浮かべるーー…




高校の入学式。
再会は呆気なく訪れるもので、新入生代表の挨拶をする彼を見て、ポカンと口をアホのように開けたものだ。そこで初めて彼の名前も知った。


声を、掛けてみようか。


いや、しかし…と朔は迷う。何故ならこの高校に同中の子はいない。つまり降谷零は朔の昔の恥ずかしい姿を知る唯一の人物になる。前の中学では陰で番長だなんて呼ばれていたのだ。恥ずかしくて記憶から抹消したいぐらいである。

Wまた引き合わせてくれますようにW

鞄に入れてきたテニスボール。半信半疑であったが、会うことが出来たのはこのボールのお陰なのだろうか。ぎゅっと肩に掛けてある鞄を握る。

覚えて…いるだろうか。
忘れないで…いてくれているだろうか。

ざわざわと廊下が騒がしくなる。新入生がつけるコサージュを胸元につけ、彼が友達と一緒に前から歩いて来た。新入生代表も務めたことと人目を引く容姿が相なってすごい注目を浴びていた。

気づくだろうか。

ドキドキと胸が高鳴った。気づいて欲しい気持ちと、昔を思い出されたら恥ずかしい気持ちが混ざり合う。

彼が近づいてくる。
目が、合った。

朔の体は石のように固まってしまう。

来る!と朔は手を握りしめる。

「…っ…」

スッ、と朔の横を通り過ぎる。期待とは裏腹に一瞥もくれることなくすれ違う。


気づ、かなかった?
いや、でもさっき目が合った。


朔は握りしめていた手を弱々しく解く。

もしかしたら知らないフリをしたのかもしれない。彼からしたらラケットを壊された記憶など思い出したくもないだろうし…


忘れていることだって…


落ちた肩から鞄が少しだけずり落ちる。

彼がそう望むならこのまま何も触れずに過ごした方がいいのかもしれない。

チクリ、と胸が痛む。

あんなに会いたかったのに…と朔は寂しげに彼の背を見つめる。初恋が終わる瞬間なんてきっとこんなものだろうと無理やり気持ちを押さえ込んだ。





ぼんやりと過ごした一年はあっという間に過ぎ、もうすぐ二年生になろうとしていた。そんなある日の学校の帰り道。路地でカツアゲされている男子学生を目撃する。相手はどうやら隣区の高校の生徒のようで、被害に遭っている子は制服から同中の後輩のようだった。

高校生が中学生相手にカツアゲ…。

今の学校ではなるべく目立たぬよう穏便にと思っていたが見過ごすわけにも行かず足をそちらに向ける。

「ねぇ、ちょっと…」

同い年ぐらいの男子生徒の肩に触れ、そう声を掛ける。相手は「あ?」と不機嫌そうに眉を寄せ、こちらを向いた。すると彼は朔の顔を見て酷く驚いたような顔をした。それに朔は怪訝そうな顔をするも、直ぐ様思い出す。髪が伸びていて気づかなかったが、墓の前でラケットを壊していた輩の一人だ。お互い目を丸くし、黙っていると「お巡りさん!こっちです!!」と幼い少年の声で互いに我に返る。


黄色い帽子に青いスモックを着た男の子が手招きし、誰かを呼んでいる。その声に周りがなんだなんだと集まってきて、彼はチッと舌打ちし、バツが悪そうにして去っていってしまった。

「大丈夫?」

男が去ったことによりヘナヘナと力が抜けたように座り込んでしまった中学生の彼に声を掛ける。鞄から花束が見えている。どうやら彼は今日卒業式だったらしい。

「た、助かりました」

「お礼ならこの坊やに…」

「なぁ、あんたって喧嘩強いのか?」

ぐいっと手を下に引っ張られる。黄色い帽子を被った例の少年が朔の手を掴み、何やら興味深しげに見ていた。

「この手の甲にあるタコって喧嘩する人がよくなるって、父さんがこの間の事件で言ってた」

事件?と思いつつも朔は感心したように頷く。

「すごいわね。でもこれはボクシングを始めた時、バンテージがうまく巻けなくて出来たタコよ」

「へぇ…なぁもっとちゃんと見てもいいか?」

それに頷くと小さな手が臆することなく朔の手に再度触れる。朔は見やすいように少しだけ屈んだ。

「勉強熱心なのね」

「ホームズみたいなすごい探偵になるためには洞察力と勉強が必要なんだ」

ホームズ。シャーロックホームズのことだろうか。服装からして幼稚園生。四、五歳だろうか。それにしては難しい言葉を知っている。

「じゃあ今はまだホームズの弟子なのね」

それに少年は「弟子…」と少しだけ嬉しそうな顔をしたあと照れ臭そうに口を窄めた。

「そ、そうだな。まだホームズの弟子だな」

胸元に折り紙で作ったサクラの形をした名札がちらりと見える。自分で書いたのであろうか。可愛い字で『さくらぐみ/くどうしんいち』と書いてあった。

「そういえば君、ひとり…」

「あー!新ちゃん!こんなところにいた!」

その声に肩をビクつかせたその子は慌てて朔の手を離す。奥から綺麗な女性がサングラスを外しながら目くじらを立ててやってくる。この人、何処かで見たことある。

嵐のように去っていった親子に呆気に取られていると中学生の彼がポツリと呟いた。

「藤峰有希子…」

あっ、そうだ。藤峰有希子だ。元大女優の。通りで綺麗な筈である。

「あー!有希子のサインも貰えもばよかった!」

彼は悔しそうに本を取り出し、がくんと頭を垂れた。元気が戻ったようだしその場から黙って立ち去ろうすれば慌てて呼び止められる。

「あっ、ま、まって…!」

あの、これ!と言って本を差し出す。朔は首を傾げ差し出されたそれを見つめる。

「今日、この本のサイン会があって…それで、その…助けてくれたお礼に。」

それに朔は困ったように眉を下げる。

「大したことしていないし、寧ろ助けたのはあの子だから。お礼はいらないわ」

大切な本なんでしょう?と言えば彼はもう一冊同じ本を鞄から取り出した。

「保管用でもう一冊買っていて、それで、お金がなくて渡すものといったらこれしかないんですけど!で、でも!二冊ともサインして貰っていて…!」

とても面白い本だから読んで欲しい、と彼は捲し立てながら朔にその本を押し付けた。

本など普段は読まず、寧ろ活字は苦手な方なのだが…。

困っていると彼はさらに続ける。

「僕、来月から貴女が通う高校に行くんです!先輩になるなら、なおさら貰って欲しいです」

朔の制服を見て彼はそう言った。これは受け取るまで引き下がろうとしない雰囲気だ。前にもこんなことがあったな、と既視感のあるそれに苦笑いしながら二冊あるなら、としぶしぶ朔はその本を頂いた。




家に帰り『死人の消息』と書かれたタイトルを指で触れる。試しに1ページ読んでみる。気付いたら2ページ目を捲っていた。次へ、次へ…とページはどんどん進んでいく。引き込まれる世界。気づけばその本の虜になっていた。

ページを捲る手が止まらない。
活字を追う目が止まらない。

それは朔が本を好きになるきっかけだった。

とある一文で目が止まる。

Wやり直すのに時の縛りはないのだからW

自殺に見せかけて逃げ回っていた家出人を女探偵が探し当て、親御さんの元へ一度帰るよう説得するため、その女探偵が家出人に言うセリフである


時の…縛りはない、か。


やり…直せるだろうか。
彼と、もう一度出会うとこから始められるだろうか。
今度は成瀬朔として君の友達に、なれる…だろうか。


まずは見た目から変えてみよう。
伊達眼鏡を掛けて。
髪は三つ編みに。

ボクシングなんて無縁な真面目な女の子になってみた。

鏡に映る自分の姿を見て苦笑いする。どうやら自分は形から入るタイプらしい。

案の定、中学の朔を知る練習生には大笑いされた。極端すぎる、と。





願いが通じたのか二年生になって彼と同じクラスになった。

舞い上がる程嬉しかったが、再会した時に素通りされたことが頭から離れず、また同じ展開になったら今度こそ立ち直れない、と中々自分から話しかけることが出来なかった。




ある日、先生に頼まれ、現国ノートと次の授業で使う資料を運んでいると「おい」と誰かに肩を掴まれる。振り向いて驚く。なんと彼だった。どうやら落としたハンカチを拾ってくれたようだ。

平静を装い、なるべく冷静に受け応えをする。W普通Wに見えるよう心がけた。

緊張する。

ちゃんと違和感なく笑えてるだろうか。
不自然なく会話出来ているだろうか。

彼を見る。
ちゃんと目を見て話してくれている。

避けられてる、というわけではなさそうだった。




終業式前日。
練習生のミット打ち練習に付き合っていたらヘマをしてしまう。久々にグローブを顔面に受けてしまった。

朝ギリギリまで冷やしていたがそれ以上腫れが引く事はなく、いつもより遅めに家を出る。教室に足を踏み入れるとクラスメイトが朔の頬を見てどよめいた。

あぁ、こうしてまた裏番などと呼ばれるのか。と内心苦笑いしながら自分の席に着く。ふと窓の外から黄色い帽子を被った子たちが校門の前を横切っているのが見えた。あの服装はシャーロックホームズの弟子の子が着ているものと同じ。散歩コースなのかいつもは四限目あたりにあそこを通るのに、今日はその時間が早いらしい。

女の子と手を繋いで歩いているWしんいちWくんの姿を見かけ、少し照れ臭そうな顔をしている彼に思わずフッと笑ってしまう。いつか本当に探偵になれる日が来るといいね、と小さく笑ったーー…



終業式が始まると同時に頬の傷の件で先生に呼び出され、気分は一気に下がってしまう。質問されたことに素直に応えると先生は顔を顰める。しかし普段の生活態度からそれ以上は言及されず、取り敢えずその顔ではなんだからと保健室へと連れて行かれる。


ホームルームが終わると同時にジムの手伝いがある為、急いで教室を出る。昇降口で靴を履き替えているとふと階段付近が騒がしいことに気づく。何やら誰か絡まれているらしい。上履きのラインの色を見て絡んでいるのは上級生だとわかった。彼らの隙間からちらりと見えた見覚えある明るい髪色に朔の目つきは変わる。

上級生が拳を振り上げる。

助けに走ってもここからじゃ間に合わない、と鞄に手を突っ込み、ずっとお守りのように持っていた黄色いボールを咄嗟に窓ガラスへと投げつけた。

瞬間的に見えた彼の獣の様な瞳に朔はハッとする。


ガシャーーンッ!


ガラスが飛び散る。
気づいた上級生が慌てて去っていく。

「私が窓ガラスを破りました」

駆けつけた先生にそう打ち明ける。ぽつんと取り残されたようにその場に佇む彼と一瞬目が合った気がした。

そのまま先生に生徒指導室へと連れられ、長い説教をされる。

目の前から聞こえてくる怒声を右から左へ受け流しながら先程のことを思い返す。一瞬しか見えなかったが、彼は拳を構え反撃しようとしていた。また、余計なことをしたのかもしれないな、と心の中で苦笑いする。

長い長い説教から漸く解放され、あの場所に直ぐ様戻った。ガラスの破片は綺麗に片付いており、破れた箇所には新聞紙が張られていた。一応誰もいない窓ガラスを狙ったのだが軽率だったかな、と反省する。怪我人が出なくて本当によかったとボールを探しに外に出る。

あれ?と朔は顔を顰める。

この辺だと思ったんだけどな…

しかしボールはどこにもなかった。落とし物カゴや、ゴミ捨て場、テニス部員にも確認したが出てこなかった。

かなり落ち込みながらその日は帰り、家に着くと学校から既に連絡が入っていた父にこってり絞られた。



ペナルティでの夏期講習初日。
まさかの彼がいた。そして一緒に帰ろうと声を掛けられる。

驚いた。

窓ガラスの件を見ていたならば距離を置かれると思っていたからだ。舞い上がる程に嬉しい誘いだったが、まさにその窓ガラスの件で父からジムの手伝いはもちろんのこと、その他に一週間練習生に混じってのロードワークが課せられたのだ。破ったらもっと面倒な事になる。まぁ、つまり夏期講習が午前中に終わるとは言え、早く帰宅しないといけないことに変わりはなかった。

残念そうに用事があるからと断れば彼は「わかった」とだけ言って自分の席に戻ってしまった。理由だけでも訊いておけばよかったかな、と少しばかり後悔した。



帰宅途中にロードワーク中の練習生に声を掛けられる。当たり前のように渡してくる月収に朔は溜息をつく。

「そろそろ引き落としに変えない?」

そうお金を数えながら相手に提案すれば「いつかね」とふざけた回答が返ってくる。

「しかも足りないんだけど」

「あー!ごめんごめん!」

急いでいるのに、と小言を漏らせば相手は可笑しそうに笑った。

「窓ガラス破ったんでしょ?会長から聞いたよ」

「私のプライベートはいつも筒抜けね」

そんな会話を行く先々でしながら帰路に着いているといきなり他校の生徒に囲まれる。その中に中学生をカツアゲしていた彼がいた。また髪が少し伸びていた。彼から話があると路地裏に案内される。

「こんな大勢で何のよう?」

朔は周りの男たちの体格を見る。以前の面子と違い明らかに喧嘩慣れしてそうな風格だった。なるほど…と朔はぎゅっと拳を握る。

わざわざ集めてきたのか、と内心冷や汗を掻く。次からは何が遭ってもいいように何かしら仕込んでおこう、と心に誓う。流石に武が悪い。

「携帯、渡してもらおうか」

「もう、その動画は消してるわ」

「嘘つくんじゃねぇ!」

「本当よ」

男が無理やり携帯を奪おうと鞄に手を伸ばす。朔は咄嗟に月会費が入っていることを思い出し、守るように鞄を抱える。

「触らないで」

ちっ、と男は舌打ちする。以前のがトラウマになっているのかそれ以上は近づいて来なかった。すると他の仲間が口元を歪めてこう切り出す。

「さっき、金を受け取ってたよな?」

ぎゅっ、と鞄を抱き締める力が増す。

「金を渡してくれれば今日は大人しく家に帰してやるから」

「おい、勝手に話を進めんな」

「別にいいじゃねぇか」

「俺に口答えすんじゃねぇ!」

仲間内で口論している隙に逃げてしまおうと後ろに下がる。しかし他の仲間が既に背後に回っており朔の肩を掴んだ。

「バカッ!そいつに手を出すな!」

気づいて声を上げても時既に遅し。ドスッと仲間が腹を押さえて倒れる姿を見て他の仲間が一斉に襲いかかってくる。彼も舌打ちしながら参戦してきた。

「悪く思わないでね」

朔の後を降谷零がついて来ているとも知らずに朔は全員を伸し、その場を後にした。




「今日絡まれてただろ?大丈夫だったか?」

ロードワークに参加中、減量中の練習生にそう声を掛けられる。見られていたのか、と朔はその言葉に苦笑いを浮かべる。

「大したことなかったから大丈夫」

「まぁ、俺が様子見に行った時には全員倒れてたから安心したが…」

あんまり酷いようなら言えよ、と朔の頭に手を置く。彼は他の練習生にも面倒見が良く、そんな彼を朔含め、皆兄貴分として慕っていた。

しかし動画を撮り、彼らの恨みを買ったのは朔が招いたこと。誰にも関わらせる訳にはいかなかった。

そして彼は試合を控えている身。余計な負担を掛けさせない為にも詳しい話はせず、問題がないことだけを伝えればどこか腑に落ちない顔で朔を見た。それに朔は困ったよう笑い、本当に大丈夫だからと念を押すように言えば彼はしぶしぶ頷いてくれた。






「成瀬、少し話せないか」

翌日、降谷零からまた声を掛けられる。
願ったり叶ったりだが、やはり今日も急いで帰らないと行けないのである。

「3分だけなら」

最大限の譲歩だが、我ながらないなとも思っていた。しかし彼は律儀に腕時計で時間を確認し、わかったと頷いてくれた。

「歩きながらでもいい?」

「あぁ」

とは言ったもののそんな距離もないので昇降口にはすぐ着いてしまう。

「昨日、君がお金を受け取っているところを見た」

下駄箱で靴を取り出していた手がぴくりと止まる。

「そう」

しかしすぐ動きを再開し靴を降ろす。朔の素っ気ない返答を訊いて彼は不服そうに片眉を上げていた。

その顔にもやもやする。こちらの勝手な思い込みも入っているのかもしれないが、先程の口調も朔を責めているような、まるで何かを疑っているような言い方だった。

彼が朔を覚えているなら態々こんな回りくどいやり方をするだろうか?しない気がした。なら本気で自分のことを忘れているのだと胸がチクチク痛む。

「あれはなんの…」

「降谷くん」

遮るように名を呼ぶ。

「3分…」

「は?」

「もう3分経ったよ」

ポカン、と口を開けたまま動けずにいる彼を置いてまた明日ね。と言い残して昇降口を出て行く。

このもやもやした気持ちを晴らすには彼に「覚えてる?」と素直に訊けばいい。それが出来ないのは覚えていないと返されるのが怖かったから。

君と友達になりたいのに。
やり直すと決めたのに。

過去の気持ちがそれを邪魔し、前に進むのを拒んでしまう…。

昨日と同じルートで帰路に着いていると複数の気配を感じる。尾けられている。まさか、また彼らなのだろうか。

わざと電話を掛けるフリをして立ち止まる。向こうも立ち止まったのがわかった。明らかに尾行されている。

この間の報復に来たのだろうか。

朔は携帯を鞄に仕舞い、走り出す。人混みを利用して相手との距離を開ける。角を曲がったところで物陰から相手が出てくるのを待つ。

現れた人物に目を開く。

なんで、君が。

降谷零の背後に現れた練習生にさらに目を見開いた。複数だと思っていた気配には彼も入っていたらしい。振り上げた拳に朔は駆け出す。

そんな、待って!ダメ!

しかし間に合わず、彼は降谷のことを殴ってしまう。

「なにしてるのっ!」

もう一発殴りかかろうとしている腕を掴み、降谷を守るようにして間に割り込んだ。

「止めるな!こいつなんだろ?お前を襲ったやつ」

「ちがうわっ!それにだからといって拳を使うなんて!」

朔の言葉にハッと我に返ったようだった。悲しそうに眉を下げる彼に朔の瞳も揺れる。

「彼を、父の所に連れて行きます」

下唇を噛み、そう告げれば彼はぎゅっと拳を握ったあと、小さく頷いた。彼がトレーナーに連絡している間にくるっと体を降谷に向け、傷の具合を確認する。

「降谷くん、ごめんなさい。大丈夫?」

口の中が切れてしまっている。しかも胸ぐらを掴まれた際に首までもが締まったようで上手く声が出せないようだった。大丈夫だと頷く彼に、朔は急いで鞄から水が入ったペットボトルを取り出す。ハンカチを濡らし、殴られた頬に優しく当てる。痛みに顔を歪めた彼を見て朔は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「本当にごめんなさい。家すぐそこなの。手当てさせて」

ジムに連れて行き、降谷の頬の怪我を見て父は顔を顰めた。

「だれだ?」

その傷が殴られたものだと理解したようだった。その低い声は怒っているのだとわかる。ドアノブに掛ける手が震える。

「だれにやられた?領じゃないだろ」

「お父さん、やめて」

大勢がいるこの場所でその話はできない。今彼がトレーナーに話をつけてもうじきここへ来る。

「領がわざわざ連れてきたんだ。うちのもんがやったんだろ」

だから、だからお願いそれまで待って、と目で訴える。朔の顔を見て何かを察したのか父は呆れたように溜息を吐いた。

「もういい。行きなさい」

その言葉にホッと胸を撫で下ろしたが、心中は穏やかではなかった。






降谷の傷の手当てが終わったところで父と例の彼が入ってくる。

頭を下げ、ここを辞める流れになった。彼は面倒見が良くて、朔のことを気にかけているのがわかっていたのなら今日のことは予測出来たはずだ。何故もっと注意深く見て置かなかったのだと後悔する。全て自分のせいだ。

「あの…」

降谷零の声に伏せていた顔を上げる。

「…その必要はありません。僕も勘違いさせるような行動を取ったことは間違いありませんし」

「いや、しかし…」

父が戸惑った声を上げる。練習生の彼も困惑した表情を浮かべていた。

「僕にも非があるんです。だから彼を許してやってください」

「君…」

「いい…のか?」

練習生の声が震えている。朔の手も震えた。

「そのかわり彼女にもうこんな顔をさせないと約束できますか?」

朔は驚いた顔で降谷零を見る。

「降谷くん…」

彼は小さく笑ってこちらを見た。その笑顔もその強い心も、その真の通った声までも昔とちっとも変わってなどいなかった。


彼は、あの頃のままだった。


聡明な彼はわかっていたのかもしれない。わかった上で不問にするよう願い出てくれたのかもしれない。そう思ったら気持ちが涙となって溢れ出てきそうだった。

きゅっと下唇を噛み、言葉の代わりに頭を下げる。父には全てを打ち明けるつもりであったが、彼の声がなければ練習生のプロとしての道は断たれていただろう。

ありがとう、と声にならない声で彼に礼を言ったーー…。



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2020.7.30
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