ポアロ



「朔」

「なに?父さん」

早朝、ロードワークに出るため玄関先で靴紐を結んでいた朔は父の声に背を向けたまま返事をする。

「一週間前、彼を見た」

きつく引っ張っていた靴紐の手は止まる。微かに目を開く。

父が敢えて彼の名前を出さなかったのは警察を辞めたことも、別れたことも知っているからだ。

もう過去のことだ。もう彼のことは気にしていない、と装うようにまた静かに靴紐を結び始めた。

「…へぇ…どこで?」

降谷零と成瀬朔との関係は元恋人であり、六年も前に終わった関係。その後の降谷など知らない人間を演じなければならない。


演じる…?


いつまでそんなことを言っているのだ。
連絡が途絶えてもう六年だ。流石の朔も、分かっていた…。

「試合会場だ」

「試合会場?」

訝しげに眉を寄せ、朔はそこでようやく振り返る。

「なんでそんなところに…」

「さぁ。真剣に試合を観てたから声はかけなかった」

帽子を目深に被り、彼は観客席には座らず後ろの立ち見席にいたそうだ。

長い間彼にボクシングを教えていたのだ。その父が見間違える筈がない。

「トリッキーな変則ボクサーとして今話題の選手が出てたからかなり盛り上がってな」

「具体的に言うと?」

「コンバーテッドサウスポー対、サウスポーの試合だ」

コンバーテッドサウスポー…

本来右利き選手が左利きの構えに矯正した選手のことを言い、右利きサウスポーとも言われてる。

その試合を彼が観戦していた?
なんで今更ボクシングなんか…

「まぁ、興味があったのはその試合だけだったみたいでな。次の試合の時にはもう姿が見えなかった」

単純に右利きサウスポーの選手に興味があったのだろうか。右利きの彼ならあり得ることだが…


彼が、生きている。


それだけでも十分だ。潜入先で命を落とした場合、ご遺体への配慮はもちろんされず、親族にも知らされない。ましてや元恋人など誰も気にかけないだろう。

生きているとなるとやはり伊達のロッカーに封筒を入れたのは零である可能性が高い。リスクを犯してまで伊達に頼みたかったこと…。考えると嫌な予感しかしなかったーー…






「あれ?成瀬刑事?」

今朝のことを考えながらぼんやりとした頭で米花町の街中を歩いていると聞き覚えのある声に呼び止められる。視線を下に向ければランドセルを背負った江戸川コナンがいた。登校中だったのだろう。何人かの友達と一緒にいた彼は友達を待たせ、走ってこちらに来たようだ。

「あら坊や、久しぶりね」

「こっちにいるなんて珍しいね。何か事件?」

「いいえ。実家に寄ったついでに上司に頼まれた土産を買いにここまで来たの」

嘘はついていない。しかし本人がいないのに高明の件を出すわけにもいかなかった。そのかわり女性警察官連続殺人事件の件には触れないでおいた。佐藤から昨日の件での謝罪メールがきたついでに犯人逮捕に至った経緯を聞いたところ、この少年が関与していることは知っていた。しかしなぜだか彼は己の知識や推理力を隠そうとする節がある。謙遜が凄いのだ。テレビで見ただけ、とか、たまたまだよ。とか、新一兄ちゃんが言っていた、とか…。

工藤新一に比べて自分はまだまだだと言いたいのだろうか。どちらにしてもこちらも詳しいことを言えない以上知らないフリをするのがここはフェアだろう。

「え、実家?成瀬刑事の実家って東京なの?」

すると朔の言葉に何か引っかかったのか少年は片眉を上げた。

「コナン君知り合い?」

コナンの後ろからひょこっと現れた同じくランドセルを背負った女の子が朔をジッと見つめる。

「長野県警の成瀬朔刑事。前に長野の事件で小五郎のおじさんたちと一緒だったんだ」

「へぇ!刑事さんなんだ!」

「成瀬朔です。以後お見知り置きを。お嬢ちゃんのお名前は?」

すっかり諸伏警部の自己紹介が移ってしまった、と朔は心の中で苦笑いする。

「私吉田歩美!」

「ねぇ、それでさっきの…」

「おーい!コナンー!歩美ー!」

「僕たちそろそろ行かないと遅刻しちゃいますよー!」

「あら、残念。また今度会った時ゆっくり話しましょう」

またね、と手を振るとどこか腑に落ちない顔をしていた彼だが、歩美と呼ばれる少女に引っ張られながらその場を後にする。

頼まれたお店の開店時間までまだ少し余裕がある。どこかの喫茶店で時間を潰していよう。

少し歩いた先に毛利探偵事務所と窓に書かれた建物が目に入ってくる。なるほど米花町に住んでいるとは聞いていたがここがそうだったのか。通りで登校中の彼に出会す筈である。

そして探偵事務所の下は探していた喫茶店。『OPEN』と掲げられた札を見て朔は口角を上げる。

「いらっしゃいませ」

店に入れば女性店員が笑顔で出迎えてくれる。一人だということを伝えるとテーブル席へと案内してくれた。

手渡されたモーニングメニューから朔はホットコーヒーのみを注文した。

「どうぞ」

優しい店員の笑顔。珈琲の香りが鼻いっぱいに広がる。匂いを楽しみながら含んだ珈琲は苦味と酸味が程よく、朔の口の中を満足させる。

美味しい。

純粋にそう思った。心に溜まった不純物がスーッと出て行く感じがわかった。

朝の香りが漂う店内。喧騒から切り取られたかのようなこの空間はホッと息をつけるには最適な場所であった。まるで小説の一説に出てきそうな喫茶店である。

ここで本を読めたら最高だ。

しかし朔はグッと堪える。今ここで読んだら確実に読み耽る自信がある。お土産も買えず新幹線にも間に合わず、挙句先輩刑事に怒られる未来まで見えた。

腕時計を見る。年季の入ったヘアブレスレットが小さく揺れた。


そろそろ店を出よう。


会計を済まし朔は店を出る。東京にお気に入りの喫茶店を見つけた。大和警部と由衣は行ったことがあるだろうか。毛利小五郎を長野にお呼び立てする際、探偵事務所を訪れたと聞いた。今度訊いてみよう。

足取り軽く、朔は朝の道を歩いたーー…




「安室さん、体調大丈夫ですか?」

会計を終えた客が店を出るとバックヤードから出てきた安室に梓は心配そうに駆け寄る。

「えぇ、もう大丈夫です。すみません心配おかけして」

「それはいいですけど、急な目眩なんて…。やっぱり探偵のお仕事と毛利さんところとポアロのバイトの三足の草鞋はキツいんじゃありません?」

「少し休んだら治りましたので、もう平気です」

「なら…いいんですけど…」

「あそこのテーブル片しておきますね」

心配する梓を他所に安室はトレーを持って先程女性が座っていた席へと向かう。店の電話が鳴り、梓が電話を取りに奥へと消える。

ジャーッ

安室は黙って食器を洗う。静かな店内に聞こえるのは水道から流れる水音のみ。

シンクの上に置かれているカップを見つめる。縁には薄らと赤い、伸びたような跡があった。珈琲を飲む際についた口紅を指で拭ったのだろう。


その赤く伸びた部分に親指を這わせる。
彼女がいた席に目を向け、静かに目を閉じる。水音がやけに耳に入ってくる。

鬱陶しい、と水を止め、親指の腹で強めにカップの縁を拭う。


誰も見ることのないその背は、ほんの少し丸みを帯びていたーー…




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2020.9.22
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