甘露の雨
長野県警が追っていた被疑者は殺され、捜査本部は解散となる。彼女は今日か明日にでも長野に帰るであろう。
昼時を少し過ぎたあたり。ピークも落ち着き、客も疎らになった時間帯を狙って入ってきた小さなお客さんに安室はいらっしゃいませ、と微笑みかける。
「おや、コナン君今日は一人かい?」
「うん!僕一人」
オレンジジュースください!と空いているカウンター席へと座る。
「試作品のケーキは食べるかい?」
彼はオレンジジュースを啜りながら、首を横に振る。残念、と肩を落としつつも何か目的があって来たのだな、と気は緩めずに彼の動向一つ一つに注意を払う。
「ねぇ、ねぇ安室さん」
ほらきた。と安室は心の中で苦笑いを浮かべる。この少年は本当に何を仕掛けてくるか想像が出来ない。それが一番恐ろしかった。
「博士が作った発明品がね、全国発明表彰にノミネートされたみたいで明日その受賞式があるんだ」
「へぇ、すごいね。コナン君もいくのかい?」
「うん!安室さんも来ない?」
「え?僕が?」
「おじさんは明日仕事が入ってて、博士は準備で忙しそうだから…」
「なるほど、足が欲しくて僕のところに来たな?コナン君」
「えへへ、バレた?」
互いに笑顔は崩さない。けれど双方、言葉の端々に感じる緊迫感。安室をその場に連れ出して何を考えているのか。
わかった。明日迎えにいくよと伝えれば彼は待ってるね、と子供らしい笑顔を向けたーー…。
ホテルの会場の一室を借りて行われるというそのパーティーはスマートカジュアルも可であった為、安室は以前彼女から受け取ったジャケットを着ていくことにする。会場につき、そこで遭遇した人物に安室は微かに目を見開く。しかし先に驚きの声をあげたのはまさかのコナンだった。
「え、成瀬刑事⁉どうしてここに…?…な、長野に帰ったんじゃなかったの?」
「えぇ、その筈だったんだけど…阿笠博士がノミネートされたって聞いて…私も気になっちゃってね」
ふーん…と煮え切らない返答をするコナン。その顔は納得していないようだった。
「…なら成瀬刑事も僕たちと一緒の席で見る?」
「えぇ、そうするわ」
安室の隣の席に手を掛ける彼女に内心、顔を顰める。知り合いがいたのならコナンが彼女を席に誘うのは自然な流れだろうとは思う。だがコナンの隣ではなくわざわざ安室の隣を選ぶ彼女に一体何を考えているのかと理解出来ないでいた。
腰掛ける彼女を横目に入れる。ヒールを履いているからだろうか。先程から所作に違和感を感じる。
「そろそろだね!」
「えぇ、楽しみ。っと…ごめんなさい。電話だわ」
彼女は席を立ち、会場の隅へと移動する。コナンはそんな彼女を怪訝そうな顔でジッと見つめた。
「烏龍茶でございます」
「あ、はい。僕です」
頼んでいたドリンクをウェイターが運んでくる。コナンの前にジュースを置いたところで、ウェイターは彼女の席にもグラスを置いた。
「ウーロンハイでございます」
「え?あの、」
「すみませーん!」
「はい、ただいま」
置かれたままのグラス。どこかのテーブルと間違えている旨を伝えたかったが、タイミング悪くそのウェイターは別のテーブルへと呼ばれてしまう。仕方がない、とコナンが彼女の動向を気にしている隙にサッ、と自分のものと取り替える。
「成瀬刑事、どこか変じゃなかった?」
彼の問いかけに肩が微かに反応する。グラスを変えたことがバレたわけではないようだ。
「そうかい?僕はあまり彼女と接点がないから、わからないな」
はぐらかす安室にジト目で睨んでくるコナンを適当に笑って誤魔化す。
「…遅くなってごめんなさい」
電話が終わったのだろう。戻ってきた彼女が手に持っているそれに目を細める。
「それは、シャンパン…ですか?」
「えぇ…先程ウェイターから。安室さんも飲みます?」
「いえ、僕は車なので遠慮しておきます」
コナンのいう通りだ。会った時から感じていた違和感。先程彼女が席をたった姿が頭に過ぎる。歩き方…?そうだ、歩き方がまるで違う。彼女は幼い頃からボクシングをしているせいか歩く時、前足に力を入れる癖がある。対し、先程の彼女はつま先をやや外向きに、足首を少しクロスさせるようにして歩いていた。その姿はまさにモデルのようで、周りの男性陣の目を惹き寄せている。
「すみません、僕もやっぱりシャンパンもらってきます。帰りはタクシーでもいいかい?コナン君」
「え?そ、それはいいけど…でももうすぐ授賞式始まるよ?」
「すぐ戻ってくるよ」
朔はアルコールが飲めない。強い酒だと意識を飛ばす。体がアルコールを受け付けない体質なのだ。
そんな彼女がシャンパン?
得体の知れない何かが迫ってくるこの感覚は気味が悪かった。嫌な予感がする。念の為定時連絡が途絶えた時に備えて風見に…
ドンッ!と突然の爆発音に安室は振り返る。受賞台から煙が上がっていた。すると明らかに爆発だけではない故意に起こされたスモックがところかしこで上がる。
「ば、爆弾だ!!逃げろー!」
出席者の誰かがそう声を上げることで皆、パニックに陥る。慌ててその場から離れようと席を立ち、入口は会場を出ようとする者たちで溢れ返る。
コナンの姿が見当たらない。きっとまだ中にいるのだ。腕で口元を覆い、白い煙で覆われた会場へと戻る。カチャリ、と無機質な音とともに安室の背中に押し当てられたそれに足を止める。
「バーボン」
鼓膜に絡み付くような女の声。背中に当たる筒状なものが何なのか瞬時に理解できた安室は下唇を噛む。
「なんの真似です?ベルモット」
やはり貴女でしたか、と気休めに両手を小さく挙げ、首だけ振り返る。朔の顔でクスリと小さく笑い、スモックの中で彼女は変装マスクを剥いだ。
「説明してる暇はないの。一緒に来てもらうわよ」
「デートのお誘いにしてはやけに強引すぎでは?」
「悪いけど無駄話してる時間はないのよ。さっさと貴方の車まで案内してくれる?」
それに安室は小さく舌打ちをした。
動いた。
犯人追跡メガネの点滅する指標を見て、コナンはワイヤレスイヤホンを耳に装着する。
「皆、作戦開始だよ」
その声に《了解》と複数の声が上がったーー…
こめかみに銃口を押し当てられたままベルモットに連れてこられた場所。その建物に息を呑む。ここは…
「さぁ、屋上に行くわよ」
一歩、一歩長い階段を上がって行く。アルミ階段で出来たそれはカン、カン、と靴音を響かせた。必死に足を動かしたあの時とは異なり、足取りは遅く、階段へと乗せる足は重い。
ギッ、と開かれた屋上の扉。銀色の長髪の男、ジンとハット帽を目深に被ったサングラスをかけた男、ウォッカが待ち構えていた。
「よお、バーボン」
「なんの真似ですかジン」
「それはテメェがよくわかってんじゃねぇのか?なぁ、公安の犬様よ」
くそ、やはりか。とバーボンは表情の裏で苦悶する。
「僕が?変な言いがかりはやめてください。NOCの疑いは先日晴れたばかりでは?」
「そこに立て」
「…っ…」
バーボンの言葉に一切耳を貸そうとしない。向けられたサイレンサー付きの銃口が急かすようにその場を指す。両手を上げたまま、バーボンは微かな血の跡があるその場へと足を向ける。
「お前の仲間が拳銃自殺したところだな」
「…っ…」
「せめて同じところで眠らせてやろうと思ってな」
「僕がNOCだという確かな証拠を掴んだんですか⁉意味もなく殺されるのは納得がッ!…」
パシュッと放たれた弾はバーボンの肩を貫通する。
「…ッ…!」
「ちょっとジン…!」
「うるせぇ!黙ってろ!」
「…つっ…」
「今のは警告だ。黙って訊かれたことにだけ答えろ」
肩に出来た傷を手で押さえ、バーボンはゆっくりと頷く。
「この男を殺すよう差し向けたのはお前か?」
見せられた写真は先日店で殺害された男だった。組織の人間だったのか。
「違います」
また一発。今度は右太腿に当たる。膝をつくバーボン。続け様に放たれた弾は腹部を抉った。
「ぐっ…!」
「ジン!」
「兄貴、殺しちまっていいんですかい?」
「こいつが裏切りもんだってことはわかってる。答える気がないならいい。さぁ、お次は地獄に落ちて貰おうか」
流れる血に目は霞む。揺れる視界の中で銃口が心臓に照準を合わせているのがわかる。
足に力が入らなくなった体は、古い血の跡があるそこに寄り添うように壁に背を預ける。
「ハァッ…!ハァッ!」
呼吸が荒い。あぁ、ヒロ…どうやら僕もここまでのようだ。
カンッカンッカンッ…
「…っ…」
聴こえてきたその足音はどうやら幻聴ではないらしい。ジン、ウォッカ、ベルモットの顔色が変わったのを見て、彼らにとっても予想外の来訪者のようだ。
「キャンティとコルンはどうした!?チッ、バーボン!テメェか!」
避ける力も残っておらず、放たれた弾がジャケットに穴を開ける。彼の弾が心臓をぶち抜いたことがわかった。バーボンはそのまま壁を擦るようにして倒れ込む。
「あ、兄貴!?」
「ちょっとジンどうしたの!?」
霞む視界に入ったのは右目を抑えているジンの姿。
な、んだ…?
カンッカンッカンッ!階段を駆け登る音が段々と近づいてくる。その光景にヒュッと浅い呼吸はさらに苦しくなる。
あの時、僕は…ヒロを止めたくて、あの階段を駆け登った。
そんな…
あぁ、ヒロ…
もしかして、君はあの時…
「クソッ、ズラかるぞ!」
彼らの立ち去る足音が遠ざかっていく。ヒュー、ヒュー、と心臓を撃ち抜かれたというのにまだ息があるのが不思議だった。仰向けになり、降谷は天を仰いだ。晴れていた空は今は雲に覆われている。湿気の含んだ臭いに雨が降るのだとわかった。
「道は…違っ…て、も…」
W見上げる空は…W
ゴフッ、と損傷した内臓は逆流し、吐血してしまう。
「繋がってる…はず…だから…」
ぽたっ、と頬に落ちた滴。閉じかかっていた瞼はピクッと反応を示す。曇天の空を見上げた。
降り注ぐ雨を見て何度、君を思い出したことだろう。忘れたことなど一度もない。雨は…彼女との思い出や、記憶が一緒になって降ってくる。
ぽた…ぽた…
次から次へと落ちてくる雨は零の頬を濡らしていく。強くなるそれに目を閉じる。今頃は長野に着いた頃だろうか。
朔…
「零!」
しっかりして、零!!と彼女が自分の体に触れる。夢…なのだろうか。
だめ!だめ、だめだめ!!と彼女は泣き叫ぶように出血している箇所を必死に手で押さえた。
「みんな!勝手に死んじゃって!酷いにも程がある!」
彼女の涙が雨と重なり、甘露の雨のように零の頬に落ちる。幻覚でも、自分のために泣いている彼女を愛おしく感じた。
雨脚が徐々に弱まっていくのを感じる。
心配そうに自分を見下ろす彼女の顔。長野で再会した時からずっとその唇に触れたいと思っていた。死ぬのなら最後に君に触れて死にたい。零は力を振り絞る。彼女の胸倉を掴み、引き寄せた。
「れっ…!?」
噛み付くような、血の海に溺れるようなそのキスを、君は優しく受け取めてくれた。
力が抜け、手がだらりと地面に落ちる。暗くなる視界。刹那に見た君の表情。
雨が上がり、雲間から差し込んだ光が彼女の雨水を含んだ髪を照らす。ポタポタと落ちる水滴がきらきらと光り君を美しく魅せる。
「零…?」
あぁ…そうだ。そうだった。
初めて出会ったあの日。雲間から覗いた太陽が濡れた、金色に染めた髪をキラキラと照らしていた。壊れたラケットを優しく撫でる君の手。伏目がちの瞳の上でまつ毛が悲しそうに揺れている。けれど愛おしく見つめるその表情に僕は見惚れたんだ。
綺麗だと…おもったんだ。
「あい…してる、朔」
最後に君に想いを告げ、零は静かに瞼を閉じたーー…。
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2021.2.12
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