彼女の家
「成瀬、少し話せないか」
午前中に講習が終わり昨日と同じように颯爽と帰ろうとする彼女を降谷が呼び止める。
「3分だけなら」
さ、3分?と聞き耳を立てていた景光は彼女の返答に眉を寄せる。それほどまでに降谷と話したくないのか、はたまた本当に急いでいるのかどちらか判断できないが、素直に腕時計で時間を確認している降谷にずるっと肩がズレる。わかった、と頷く彼を見て真面目か!と心の中で突っ込みを入れた。
どうやら歩きながら会話をする流れになったらしく景光は慌てて出しっぱなしの教科書類を鞄の中に突っ込む。すでに教室を出て行った二人を追いかけようと慌てて席を立つ。
「あっ、諸伏ー!この前話してたバイトの件だけど…」
通常授業での同じクラスメイトから声を掛けられる。正直今はそれどころではないのだが、バイトの話を以前そのクラスメイトに持ちかけたのは自分で、せっかく持ってきてくれた話を邪険になど出来ず景光は諦めたようにゆるゆると椅子に腰を下ろした。
「昨日、君がお金を受け取っているところを見た」
下駄箱で靴を取り出していた彼女の手がぴくりと止まる。しかしそれはほんの一瞬のことですぐ動きを再開しはじめ、靴を地面に降ろす。
「そう」
だから?とでも言いたげな反応である。なんの弁解もせず、動揺すら見せずに靴を履いている彼女に降谷の片眉は面白くなさそうに上がる。
「あれはなんの…」
「降谷くん」
遮るように名を呼ばれる。言いかけた口は中途半端に開いたまま固まってしまった。
「3分…」
「は?」
「もう3分経ったよ」
呆気にとられ、動けずにいる降谷を他所に彼女はまた明日ね。と言い残し昇降口を出て行ってしまった。
冗談で言っているわけではなかったのか、と念のため腕時計で時間を確認する。本当に3分経っていた。ふとそこで疑問に思う。
彼女は今、時計を見ていたか?
いいや、そんな素振りは見せなかった。だから冗談だと捉えたのだ。それともこれ以上話したくないから適当に切り上げた時間がたまたま3分だった?
もしかして揶揄われた…?
「ゼロ!よかった追いついた!」
どうだった?と息を切らして訊く景光。降谷のこめかみに青筋が立っているのを見てヒクリ、と口隅が小さく動いた。
「ゼロ、嫌われてない?」
「……言うな」
昨日彼女を見かけた場所にとりあえず張り込みをしてみる。景光には「あんまりしつこいと本当に嫌われるよ?」と言われたが気になったことはとことん調べないと気が済まない性分なのだから仕方がない。早く答えを導き出してこのもやもやした気持ちをすっきりさせたい、というのが本音。
暇つぶしに彼女が金を受け取っていた男達が誰なのか景光と考察していく。
「一人目はフードを被ってた。おかげで顔がよく見えなかったけど…」
「次に受け取った男性は細身の割に腕や足がやけに筋肉質だったな」
「履いてる靴も皆スポーツシューズだったし…ランニングしてる人たちに見られる特徴というか…」
W3分だけならW
ふと蘇る先ほどの出来事。まてよ、と降谷は顎に手を当てる。
体に染み付いてる時間で3分っていったら…
「ゼロ、いたよ」
景光が耳打ちする。その小声にハッと我に返る。景光の視線の先を辿るとスカートを揺らしながら歩く彼女の姿が。
景光と顔を見合わせ頷き合う。少し距離を開けて尾行を開始した。
今日は誰とも接触することなく昨日と同じ道順を歩いていく。もしかしたら通学路なのかもしれない。
しばらくして彼女は一度立ち止まり携帯を耳に当てる。電話を掛けているようだった。景光と物陰に隠れ様子を窺う。会話の内容までは聞き取れないが数分もしない内に要件は済んだようで彼女は携帯をまた鞄の中に仕舞い込む。
ダッ!
「っ!?」
いきなり走り出した彼女に二人は数秒遅れをとる。
「…っ…」
慌てて追いかけるが彼女はこちらの視界の邪魔をするようにすれ違う人たちに重なって動く。とても文学少女の動きとは思えない俊敏な動きだった。
尾行に気づかれている?それとも偶然?
角を曲がり、彼女の姿が見えなくなる。しまった、と速度を上げてその後を追う。しかし彼女の姿は見当たらず、キョロキョロと辺りを見渡す。するといきなり誰かに首根っこを掴まれた。
瞬間頬に強い衝撃。
「…っ…!」
彼女に気を取られていたせいか反応が遅れ、もろに喰らってしまう。チカチカと星が飛ぶ。男がよろけた降谷の胸ぐらを掴み、上へと引き上げる。持ち上がる体。掴んでいる拳が喉元を締め、息が出来なかった。苦しさで歪む顔。片目をこじ開けると男がもう一発殴る体勢に入っていた。
後から来た景光がその光景を見てワザと大声を上げ、止めにかかる
「おいっ!なにっ…!」
「なにしてるのっ!」
景光より先に誰かが言葉を被せる。殴りかかろうとしていた腕を掴み、降谷を守るようにして男と降谷の間に割り込んだ。
華奢な背中。
揺れる三つ編み。
知った制服に聞き覚えのある声。
彼女だとわかるのにそう時間は掛からなかった。
「止めるな!こいつなんだろ?お前を襲ったやつ」
「ちがうわっ!それにだからといって拳を使うなんて!」
声を張り上げる彼女。大人しい彼女の印象からは想像出来なかった。彼女の言葉に男の手の力はようやく緩まる。開放されたことで咳き込みながらも入ってくる新鮮な空気を目一杯吸う。よろけた体を景光が後ろから抱きとめた。
薄目で彼女を見ると目尻を吊り上げ、すごく怒っていた。そしてくるっと降谷の方に体を向け、申し訳なさそうに眉を下げる。
「降谷くん、ごめんなさい。大丈夫?」
口の中が切れて血の味がしていた。上手く声が出せない変わりに大丈夫だと頷いた。彼女は鞄から水が入ったペットボトルとハンカチを取り出し、ペットボトルを傾け、ハンカチを濡らした。そして殴られた頬にそれを優しく当てる。思わず痛みに顔を歪めた。
「本当にごめんなさい。家すぐそこなの。手当てさせて」
気付いたら男はいなくなっていたーー…
「ついたよ」
連れてこられた場所に降谷と景光はポカン、と口を開けてしまう。
「成瀬ボクシングジム…?」
「入って」
掲げられた看板を見て固まっていると彼女が中へ入るよう促す。
ロープが四方に張り巡らせたリングが中央にあり、その周りでトレーニングしている男たちが物珍しそうに降谷と景光を見た。
キュッキュッとシューズが床を蹴る音。
男臭い汗の臭い。
グローブがミットに当たる音。
ブー!とブザーのような音が鳴ると皆ローテーションするように次のトレーニングを始める。
「あれー?朔ちゃん、彼氏ー?」
奥から練習生の一人がそう声を掛ける。彼女は「ちがうよ」と困ったように笑った。
「いやにイケメンじゃないの」
「はー!所詮男は顔かよ!」
「どっちが朔ちゃんの彼氏?」
「まて!どっちか賭けようぜ!」
練習を止め、物珍しそうな顔で寄ってくる彼らに一瞬だが彼女に緊張が走る。
「はいはい。もう彼氏でいいよ。二人とも私の彼氏」
肯定したほうが早く彼らの興味が薄れると思ったのか適当にそう答えると効果は真逆だった。
「あっはは!大胆だなー!」
「え?ほんと?本当なの?」
「お前らー!バカやってないで練習再開しろ!!」
奥から出てきたスキンヘッドの中年男性の怒声に皆慌てて練習に戻る。
「で?」
男は彼女に詰め寄り、ちらりと自分たちを見た。
「入会希望者には見えないが?」
「クラスメイトの降谷君とその友達の諸伏君」
名前を呼ばれた際に、降谷と景光はその男に会釈する。
「私のせいで怪我しちゃったの。手当てしたいんだけど…」
「わかった。奥の部屋空いてるから使うといい」
「ありがとう、助かる」
スキンヘッドの男は降谷の頬の怪我を見て顔を顰めた。
「だれだ?」
低い、声。その声にドアノブに手を掛けていた彼女も動きを止めてしまう。
「だれにやられた?朔じゃないだろ」
「お父さん、やめて」
Wお父さんW
そのワードに降谷は目を開いて、彼女とその男性を交互に見る。
「朔がわざわざ連れてきたんだ。うちのもんがやったんだろ」
彼女は言葉を詰まらせる。瞳を左右に揺らし黙っていると父と呼ばれたその男は呆れたようにため息を吐いた。
「もういい。行きなさい」
それに彼女は「はい」と返事をし奥の部屋へ入っていく。降谷と景光は男に再度会釈をし、彼女の後ろをついて行った。
手当てする動きに合わせて彼女の左手首についてるヘアゴムがゆらゆらと揺れているのを降谷はジッと見つめた。
「ボクシングだったんだな」
手の拳ダコ、と指摘するとピクッと手当てする動きが止まる。後ろのパイプ椅子に座る景光が、あーそれで。と納得したように頷いていた。
「知ってたの?」
「確証はなかったけどな」
驚いたように微かに目を開く彼女だったが次には長い睫毛が下を向く。彼女は立ち上がり、降谷に頭を下げる。
「本当にごめんなさい。素人相手に拳を使ったこと、決して許されることじゃない」
「いや、僕も…」
降谷の声を遮るように部屋のドアが開く。先程父親と呼ばれた男と降谷を殴った男が入ってきた。
「治療は終わったか?」
「はい」
彼女は返事をすると救急箱を持って下がる。代わりに入ってきた二人が降谷の前に立つ。降谷も座っていたパイプ椅子から立ち上がる。
「降谷くん、と言ったね」
それに降谷は「はい」と返事をして頷くと彼らは頭を下げた。
「本当に申し訳なかった」
「申し訳ありませんでした」
ガタイのいい男が二人揃って降谷に頭を下げる。降谷を殴った男は先ほどの雰囲気とは一変、申し訳なさそうに肩を落とし、ガタイが良いその体は丸まり、小さく縮こまっていた。
「あ、頭を上げてください」
「プロとして彼は恥ずべき行為をした。ここを辞めてもらうことで君への贖罪になるかはわからないが…」
救急箱を抱える彼女の手が視界に入る。爪の白さを見てギュッと力を込めているのがわかった。その目は伏せられ、悲しそうに眉を寄せていた。
「あの…」
降谷が発したことにより皆の視線が降谷に集まる。
「…その必要はありません。僕も勘違いさせるような行動を取ったことは間違いありませんし」
「いや、しかし…」
「僕にも非があるんです。だから彼を許してやってください」
「君…」
「いい…のか?」
「そのかわり彼女にもうこんな顔をさせないと約束できますか?」
彼女が驚いた顔で降谷を見た。
「降谷くん…」
口角を少し上げ、彼女に笑ってみせる。笑うと切れた口の中が痛かった。
彼女は泣きそうな顔で降谷を見た。そして彼女はまた頭を下げた。
「ありがとう…!本当にすみませんでした」
そう泣き崩れながら謝罪したのは殴った彼だった。
「彼ね、普段はあんなこと決してしないの」
陽が沈むなか、三人の伸びた影の真ん中にいる彼女がそう切り出した。二人が歩く少し後ろを彼女が自転車を押しながらついてくる。歩きながら降谷と景光は横目で彼女を見た。
「減量中で、気が立ってるのもあったけど…それでもリング以外で…それも無抵抗な人間を殴ったのは初めてで…」
そこまで言って、口を噤む。小さく息を吸ったのがわかった。
「私の…せいなの」
カラカラと回る車輪の音。セミが物悲しく鳴く声と重なり、彼女の言葉に重みが掛かったように聞こえた。
「…前に男の子たちに絡まれたことがあって…それを見かけたらしくてね。それからずっと心配してくれてて…」
景光と一緒に見た光景を思い出す。あの時のことを言っているのなら彼らが倒れていたのはやはり彼女が男たちを伸したということなのだろうか。しかし思った疑問は口に出さず、今はジッと彼女の話に耳を傾けた。
「降谷くんからしたらとんだ災難だったのに…あんな風に、言ってくれるなんて思ってもいなくて…」
カラカラと鳴っていた車輪の音が止む。立ち止まった彼女は自転車に手を添えたまま、深く、深く頭を下げた。
本当にありがとう、と震える声で言った。
彼女が言った、W減量中Wの意味。きっと彼は試合を控えているのだろう。父親と彼女の悲痛な顔はプロボクサーである彼が起こした不祥事、というより彼が今までしてきた血の滲むような努力と真面目な性格を思ってのことだと思った。
どうして性格までわかるのか。それは彼女の行動を見ていればわかった。彼女は殴った彼のことを父親に言わなかった。彼が自ら父親に話すことを彼女はわかっており、プロとしての責務を果たさせようとした、というところだろうか。
成瀬の名が入った看板から推測するに彼女の父親はそこのジムの会長なのだろう。
言い訳をしても人を殴ったのは事実。プロが殴る、というのはそういうことなのだろう。現にどうして彼が降谷を殴ったのかその言い訳を父親も、彼女も、そして彼自身も、あの場で誰も何も言わなかった。
「もう気にしてない。それに僕も勘違いさせる行動をとったのは事実だ。君を尾行したり、張ったりして悪かった」
顔を上げた彼女が不思議そうに首を傾げた。
「尾行したり張ったりしてたの?」
「・・・・」
しまった、と口を閉じる。景光がなんとも言えない顔で降谷を見る。二人で気まずそうにしていると、ふふっと小さな笑い声が聞こえた。
「降谷くんって本当不思議な人」
可笑しそうに笑っている彼女に景光と顔を見合わせる。
「どうしてそんなことを?」
怒っているわけではなさそうだ。それにホッと息を吐き、尾行していた理由を問われる。自分で掘った墓穴とは言え、余計なことを言ったな、と少し後悔した。
「これまで不思議な行動をしていたのは成瀬のほうだ。だから尾行した」
「そうなの?」
また可笑しそうに笑った。身に覚えがないといった感じに。
「そういえば私がお金を受け取ってたこと気にしてたけど…」
「あれは月会費を回収してたんだろ?」
降谷の言葉に彼女は微かに目を開く。どうして、と目が訴えていたから降谷はその理由もきちんと説明した。
「君が金を受け取っている男たちには皆共通点があった。フードを被っていたり、やけに足や腕がしっかりしていたり…」
話しながら歩き出す降谷に合わせて、またカラカラと車輪が音を立てて回る。
「フードは体の温度を上げて汗を出すのによく使われるし、履いてる靴は皆走りやすいランニングシューズ。君の家がボクシングジムで合点がいった。あれはロードワーク中だったんだろ?」
彼女の反応が気になりチラッと後ろを見る。彼女は感心したように頷いていた。
「学年トップの人って、そんなことまでわかるの?」
黙って聞いていた景光はその言葉に小さく吹き出し「ゼロだけだと思うよ」と答えた。
「ゼロ?」
「僕のあだ名」
「へぇ、カッコいいね」
その言葉に降谷は一瞬固まってしまう。そんな降谷を気にする風もなく彼女はまた口を開いた。
「うちのジム、基本引き落としなんだけど未だに手渡ししてくる人がいて。帰り道あそこを通るのはみんな知ってるもんだから自主トレついでに渡してくるの」
彼女はいきなりクスッと思い出したように笑った。
「この間なんて全部千円札で持ってきたのよ?数えるの大変だった。おまけに足りないし…」
困ったように笑いながらそう愚痴をこぼす彼女。降谷と景光は同じ光景を思い出していた。あぁ、だからあんな札束に見えたのか、と。遠目だっため千円札までは確認出来なかった。
「降谷くんってクラスメイト全員にそうなの?」
「どういう意味だ」
「気になることがあると一直線。みたいな」
「そうだよ。ゼロは基本的に気になりだすといつもそう。周りが見えなくなる」
「おいっ、ヒロっ…!」
「へぇー、降谷くんってアウトボクサーっぽいのに実はインファイターなんだね」
「どういう意味だよ」
景光を睨んでいた目を今度は彼女に向ける。景光と彼女が可笑しそうに笑った。
「成瀬、もうここまでで大丈夫だ」
知った道に出て、もう暗くなりかけているのもあり見送ってくれた彼女に礼を言う。
「そういえば降谷君、前に構えてたことあったけど習ったことは?」
その言葉に些か疑問に思いながらも降谷は首を横に振る。
「ないよ」
「ならちゃんと誰かに教わることをお勧めするわ。その殴り方だといつか手首を痛めるから」
じゃあまた明日学校で。と彼女は自転車に跨って元来た道を帰っていった。その後ろ姿を見つめていると景光が声を掛ける。
「ゼロ、なんかすっきりした顔してるね」
「彼女の謎が一つ解けたからな」
「一つ、ってまだあるの?」
呆れた声で彼はそう言った。
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2020.5.1
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