バイトを始める
昨日より早めの時間に登校すると既に窓際の一番後ろの席で本を読んでいる彼女の姿が目に入る。昨日もその席に座っていた。もしかしたら彼女は窓際が好きなのかもしれない。
大人しく本を読む姿に誰がボクシングが得意だなど予測出来るだろうか。皆知らないであろう自分だけが知っている彼女の一面。ひっそりと胸の奥にある小さな優越感。瞬間チクリと現実世界に引き戻すかの様に口の中が痛む。そんなことのために彼女を調べていたわけではない、と気持ちを切り替え、彼女の右横の席に鞄を置く。
「成瀬、おはよう」
降谷に気づいた彼女は目が合うと困ったように眉を下げて笑う。おはよう、と口にしたその視線の先は降谷の口元を見ていた。正確には昨日殴られた箇所を、だ。
「口の中、まだ痛む?」
「口内炎みたいになってるけど問題ない」
「そっか」
少し気まずそうに笑う彼女につられて同じ顔で降谷も小さく笑う。
「君も夏休み前に同じような痣を作ってたな」
途端苦笑いを浮かべ、言葉に詰まってしまった彼女に、マズいことを訊いてしまっただろうかと不安になる。言い淀む姿を見て、こんな人の目がある教室で話せる内容ではないのかもしれないと思い直しすぐ様口を開く。
「成瀬、言いたくないなら無理に言わなくていい」
そんな降谷に気づいたのか彼女は軽く手を振って「ごめんね、違うの」と笑って否定する。そして格好の悪い話なのだと、前置きしてから話してくれた。
「新しく入った人のミット打ち練習に付き合ってたんだけど…自分で自分の靴紐を踏んだらしくて…」
当時を思い出しているのか視線を斜め上にしながら頬を掻く。
「相手が打つ体勢のまま、私も変に抱きとめようとしちゃって…それで、あの有様…」
ね?格好つかないでしょ…と彼女は眉尻を下げて微笑んだ。確かにあの痣を見て誰もそうだとは思わない。
「家のこと、内緒にしてるのか?」
「別に隠してないよ。誰も訊いてこないだけで…あのあと先生にもちゃんと話したし」
そうだろうか。結構はぐらかされた気がする、と降谷は今までの記憶を巡る。しかし彼女が急にクスクス笑い出したので、思考は一時中断される。
「噂聞いて笑っちゃった。あんな誇張しなくてもいいのにね」
知っていたことにも驚きだが、裏で好き勝手言われているのにあっけらかんと言ってのけた彼女に面を食らう。
「変に噂されてること、気にしないのか?」
「そのうち治まると思うし…それにちゃんと真実を知ってくれている人がいるもの」
ね?と悪戯っ子のような笑みで降谷を見る。胸がどきりと音を立てた。直視出来ず、誤魔化すように「そうか」とだけ言って視線をふいっと右横にズラす。
ヒラヒラと手を振り、いつの間にか隣の席に座っていた景光と目が合い、固まった。
「降谷くん、バイト探してるの?」
帰りの下駄箱で彼女にそう声を掛けられる。彼女の後ろには景光が立っており、何やら意味あり気な笑みを浮かべていた。
「昨日成瀬のジムでたまたまバイト募集のポスター見つけてさ」
「二輪の免許取るためにお金が必要って訊いたけど…」
チラッと景光に視線を向ける。確かに取りたいとは思っていた。ギターも何かと手入れするのにお金が掛かるし、貯金はあったことに越したことはない。しかしそんな話をいつ彼女としたのだ。
「講習もあと数日で終わりだし、夏休みの間だけでもどう?ゼロ」
自分が行かなければ景光だけが彼女の元へ行くのだろうか。その光景が頭に浮かんでしまい、気づいたら頷いていた。
「わかった。お父さんに訊いてみる」
そう言って彼女は降谷と景光に手を振って足早に帰ってしまった。ひらひらと手を振り返している景光をジロリと睨む。
「そう睨むなって」
「余計なことするなよ」
「あの子のことになると不器用になるゼロの為に、少し手助けしただけだろ?」
必要なかった?と小首を傾げる景光に、確かに彼女とも自然に話せる口実ができたし、バイトも見つかった。しかしどこか釈然とせず、礼は言わずにふんっとだけ鼻を鳴らした。そんな降谷のことも全てお見通しな彼はケタケタと可笑しそうに笑った。
「あっ、因みに俺来週から違うバイト入ってるから」
行くのはゼロだけだから安心して、と言う景光に固まる。そこで初めてしてやられたのだと気づいた。
数日後
「ここはシャワールームで、男性用のロッカーはここ。トレーニングルームはこっちで…」
彼女が場所の説明をしながら一緒に施設内を巡る。一通り廻り終わると手当てされた部屋とは別のスタッフルームに案内され今度は大まかなバイト内容の話しに移る。
「パンチンググローブやバンテージは各自で用意してもらってるんだけど、対人練習用のヘッドギアやスパーリング用のグローブは貸し出してて…」
フロア全体の掃除用具・機具の手入れ、在庫確認、時には練習の補助もするという。小さなジムでもやる事は多く、時給もそれに見合ったものだから特に気にすることはないのだが、今までこの仕事を彼女一人でやっていたという。他のスタッフは全員トレーナーで、雑用は全て彼女が担っているのだそうだ。なるほど。この仕事量を考えるとホームルーム後、即帰宅したくなる理由も頷ける。
「あとこれ、スタッフが着る服で…」
成瀬ジムのロゴが入ったTシャツとジャージを手渡される。受け取る際、何か言いたげな顔をしている彼女に降谷は声をかける。
「成瀬?」
「…気まずく、ない…?」
彼女が言わんとしていることはわかる。先週の出来事を気にしているのだ。しかしそれは彼女たちの方なのではと彼女の不安気な表情を見て思う。
「あの時は話の流れでつい受けちゃったけど…あの時の降谷君あまり乗り気じゃないように見えて…」
嫌だったら無理せずに言って欲しいという彼女に降谷は首を横に振る。
「寧ろバイトを探してたから助かった。こっちこそあまり深く考えずにお願いしたけど、成瀬の方こそ大丈夫なのか?」
「うん。人手も足りなかったし、すごく助か…」
バァン!と突然開かれた扉に肩が跳ねる。ぞろぞろと入ってくる練習生たち。あっという間に彼女と降谷を取り囲んでしまった。
「ちょっと、みんな練習は?」
どこか焦っている様子の彼女。わらわらと強面の男たちが降谷を睨むように見ている。明らかに歓迎されていない。
一人の男が降谷に手を伸ばす。この間の一件を考えるとそうそう殴られるわけはないと頭では分かっていてもつい身構えてしまう。
その手がポンっと頭の上に乗せられる。「…えっ?」と思わずそんな声が出る。次には思い切り頭を撫でられた。
「きたきた!朔ちゃんの彼氏!」
「待ってたよー!」
「バイトスタッフなかなか決まらなくて困ってたんだよー!」
「小さいジムだけど朔ちゃん一人だけだと大変だったし!」
「本当、助かるよー!」
「にしてもひょろっとしてんなー!ちゃんと食ってんのかー?」
「ねぇねぇ、いつから朔ちゃんと付き合ってるの?会長知ってるの?」
「それよりも君、ボクシングは?興味ないの?」
「ストーーップ!もう!みんな勝手なことばっかり。降谷くんが困ってるから離してあげて」
汗臭い男たちの抱擁からようやく解放され、降谷は未だ固まってる表情を崩せずにいた。
「ほらみて、固まっちゃったじゃない。ただでさえみんな人相悪いんだから」
「酷いよ朔ちゃん」
「ほらほら、早く戻らないとお父さんに言いつけちゃうよ」
「仕方ねぇ、戻るか。坊主、またあとでなー」
皆、出て行ったのを確認してからハァと溜めた息を吐き出し、上がっていた肩を一気に落ろす。
「……ふっ」
突然吹出した彼女をジロリと睨む。「ごめんね、つい…」と口元を押さえるがもう遅い。
「騒がしいところだけど、改めてよろしく。ようこそ成瀬ボクシングジムへ」
口をへの字に曲げていた降谷だったが、次には困ったように笑いながら嬉しそうに差し出された彼女の右手を握ったのだった。
彼女のところでバイトを初めて数日が経った頃。
その頃にはもう仕事にも慣れ、周りの練習生とも気軽に話せるようになっていた。相変わらず「朔ちゃんの彼氏」と揶揄う人もいるが。
ジムを閉めて、終わった掃除用具を片していると奥で作業していた彼女が不必要な電気を消しながら戻ってくる。
「どう?バイト続けられそう?」
その言葉にコクリと頷けば彼女は嬉しそうに笑った。
「よかった。あっ、折角だから少し打ってく?」
「いいのか?」
「ふふっ、本当はダメ」
そう言いながらも彼女は袋に入った新しいバンテージと貸し出し用のグローブを棚から持ってくる。彼女は案外そういう所がある。優等生に見えるのに時々ひょいっと柵を越えるように突拍子もないことをする。
「そこの長椅子に座って、手を出して」
「手?」
「うん」
明かりは点いているがほんのり薄暗い空間。言われるがままそこへ座り、躊躇いがちに手を出すと彼女は降谷の前に座り、白く柔らかい手が自分の手を掴んだ。手首につけているヘアゴムがゆらゆらと揺れている。
「よく喧嘩するの?」
拳にあるタコを見て彼女がそう指摘する。
「いや、そんなに」
その喧嘩ダコから降谷が嘘をついたと見抜いたのか彼女は小さく笑った。
「ふふっ、そういうことにしておいてあげる」
彼女はクッションのようなものを上に当て、その上からバンテージを巻き始める。
「バンテージの巻き方はね、まずこれを親指に引っ掛けて、次は手首に…」
包帯をするように巻きながらバンテージの必要性と巻き方を説明してくれる。下を向いている彼女の長い睫毛が動きに合わせて上下する。それを目で追っていると不意に彼女が顔を上げ、目が合う。
「自分でやってみる?」
「いや、念のためもう片方の手のやり方も見たい」
一度やり方を見て覚えてしまっているにも関わらず、咄嗟にそう口をついてしまった。降谷の言葉に何の疑いもせずに快く頷き、彼女はもう片方の手も丁寧に巻いてくれた。
「はい、出来た。構えてみて」
沢山の練習生を見てきたであろう彼女の前で構えるのは少し気恥ずかしい気持ちもあったが、構えたフォームを見て彼女は驚いた顔をする。
「手首のフォームが直ってる」
きっとバンテージを巻いて固定されたのもあるだろうが、見ただけで以前と違うことがわかる彼女にこちらも驚いた。あまり格好がつかないから言いたくはなかったが、彼女のこの答えを知りたがっている瞳を見てしまうとどうしても口が勝手に動いてしまう。
「君に言われてから…プロの試合の動画を見たり、練習してる人たちの動きを見て変えてみたんだ」
どう?と問うと彼女は嬉しそうに目を細めた。その表情にドキリと胸が音を立てる。
「うん!すごくいい!じゃあリングに上がって」
その言葉にパチリ、と目を瞬かせる。てっきりサンドバックが相手だと思っていた降谷は躊躇いがちに彼女を見る。そんな降谷に気付いて彼女は苦笑いを浮かべた。
「本当はリングで練習出来るのは練習を積んでからじゃないと入れないんだけど、降谷くんは練習生じゃないし、それに…」
「それに?」
「上手くいけば勧誘出来るかもしれないと思って」
ふふっ、と笑う姿は悪巧みを考えている子供のようだった。また小さく脈を打つ鼓動。日を増すごとにその回数も増えており、降谷自身戸惑っていた。
「リング入ったことある?」
「…ない」
誤魔化すように放った言葉は少し冷たかったろうか。しかし彼女は気にする素振りを見せずに既にロープを潜っていた。
練習生も誰もいない空間。明かりも今はリング中央しか点いておらず、その灯りだけが彼女を照らす。
「意外と広いんだよ」
手を広げ、広さをアピールする。冒険心にも似た好奇心が疼いてしまう。結局誘惑に負け、誘われるようにロープに手をかけリングの中へと入っていた。
四角に囲われた空間には彼女と自分しかいないのに周りが薄暗いせいか一気に緊張感が高まる。試合会場ではないがこの空間でプロやアマチュアが一対一で闘うと思うと自然と胸が熱くなる。外から見る景色と中に入って見るその景色は全然違って見えた。
「グローブ嵌めるね」
惚けていると彼女が降谷の手を取ってグローブを嵌める。別に試合をするわけでもないのに気持ちが湧き上がる。なんだかんだ言いつつ楽しみにしていたのは自分のようだ。
準備が出来ると彼女もパンチングミットを手に装着した。
足の動かし方、打ち方を彼女に教えてもらいながら躊躇いがちにグローブをミットに当てる。ミット越しとはいえ彼女に拳を向けているみたいで気が引ける。威力もだいぶ弱い。
「もっと強くても大丈夫だよ」
見透かして彼女が打つ拳に対して強めに押し返す。少し強めにミットに当てれば今度は軽快で気持ちの良い音が鳴った。
「その調子。次はワン・ツーの声に合わせて…」
徐々に速さを求める彼女。気持ちを乗せるのが上手い。気付いたら相手が彼女だということも忘れて熱中していた。徐々に力が強くなっていることにも気づかない。
「ラストッ、右ストレートでっ」
ついその言葉に乗せられ一歩前に踏み込んだ。前足に体重を乗せ、腰を回転させる。右肩を前に出し、腕を伸ばして力強くミットに撃ち込んだ。今までで一番いい音が鳴った。
「わっ…!」
弾かれるようにハンドミットが上へ吹っ飛ばされる。驚いた顔をしている彼女。反動でよろけ、後ろに倒れそうになっているのを見て、一気に冷静さを取り戻す。慌てて右手で掴もうとするが、伸ばした先にグローブが映る。上手く掴むことが出来ず、咄嗟にその手を彼女の腰に回した。
驚いた彼女の顔。お互い固まったまま動かない。
しまった。
いくらなんでも近すぎる。
「成瀬、わ…」
「…すごい!」
悪いと開いた口は、彼女のキラキラした表情に遮られてしまう。
「すごいよ、降谷くん!才能あると思う!」
今まで見たことのない満面の笑みで降谷のことを褒めちぎる彼女に、腰に回してる腕に力が入る。
無意識に支えている腰をほんの少しだけ引き寄せる。未だ興奮冷めやらぬ彼女はそんな降谷に気づかない。嬉しそうに語るその唇に吸い寄せられるように顔を寄せると「ごぉっほん!」とわざとらしい咳払いが聞こえ、頭は一気に冷える。
ピタッと体を止め、漸く第三者がいる気配に気づいて慌てて体を離す。薄暗かったせいか、はたまた夢中になっていたせいかはわからないが全く気づかなかった。彼女も漸くその気配に気付いたのか降谷の腕の中を抜け、ミットをしたまま父親の元へ駆け寄る。
「お父さん、今の降谷くんの動き見たっ?」
恐らく一部始終見ていたであろう父親は何やら口籠っていた。ボクシングの動きではなく違う動きまで見られていたと思うと今すぐこの場を立ち去りたい気持ちになる。
何を…しようしていたんだろう…。と反省する様にグローブを額に当てる。
しかし父親もキラキラした顔で跳ねるように降谷の凄さを報告する彼女の姿に怒るに怒れない微妙な顔をして頷いていた。
「ふ、降谷くん」
父親に名を呼ばれ、思わず肩が跳ねる。
「どうやらだいぶ娘に気に入られたようだな」
嫌味も含まれているようなその言い方に自然と背筋が伸びる。
「君さえ良ければ私がボクシングを教えるが、どうだ?少し興味はあるかい?」
意表を突かれたその言葉に降谷は目を見開いて彼を見る。
「君には何かしたいと思っていたんだ。例の件のこと、やはりこちら側が何もしないというのも気が引けてな。教えるのはジムが休みの日になってしまうが…どうかな」
ほんの数分の体験だったがとても気持ちが良く、ボクシングに興味が出てきたのは本当だった。
気付いたら首を縦に頷いていた。まさか彼女の思惑通りになるとはな、と心の中で自嘲気味に笑った。
「ぜひ、宜しくお願いします」
嬉しそうに微笑む彼女に降谷もつられて笑顔になる。
「お父さん、ありがとう」
「二人だけだと心配なのでな」
ぼそりと言った父親の一言に固まったのは恐らく降谷だけだろう。
next
2020.5.10
いいね♡
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