夕立


夏休みも終盤に差し掛かっていた。

「じゃあ今日はここまで」

「ありがとうございました」

「朔、父さんはこのまま出掛けるから戸締まりしっかりな」

「はい」

練習が終わり、汗だくの顔や首をタオルで拭いているとふと手首に違和感を感じた。手で触れてみる。特に腫れたりとかはしていなかった。

「手首、痛い?」

掃除をしていた彼女がすぐ様気づいて心配そうに尋ねる。

「いや、少し違和感を感じるぐらいで…」

「見せて」

長椅子に座るよう促され、手の平を上にするようにして隣に座った彼女に見せる。

「フォームはすごく綺麗だし、始めたばかりでパンチの威力に手首がびっくりしてるのかも…」

少し触るね、と白い手が降谷の腕を掴み、ふにふにと程よい力で揉み始めた。この場に父親がいなくて良かったと思う。

「少しでも和らげばいいんだけど…」

痛くない?と上目遣いでこちらを見る彼女にふいっと下を向く。マッサージされている手をひたすらに見つめながらコクリと頷く。彼女が安心したように笑ったのが息遣いでわかった。

「バンテージの巻き方も問題ないし、あとはグローブが合ってないのかも…」

話の内容が全く入ってこない。ふと動きに合わせて揺れる三つ編みが視界に入る。気を紛らわせようとそれをジッと見つめた。普段は気づかなかったがじっくり見てみると少し色素が薄いことがわかった。ゆらゆら揺れるそれはまるで催眠術にでも掛かったみたいで、気づいたらマッサージされていない方の手が編まれている髪の先を指先に乗せていた。

気づいた彼女が降谷を見る。レンズ越しから髪色と同じ瞳が降谷を映す。

「どうかした?」

「髪に…」

「え?」

「髪にゴミがついてた…」

咄嗟にそう誤魔化した降谷の言葉に彼女は疑いもせずにありがとう、と小さく笑った。

「成瀬、もういいよ。ありがとう。だいぶマシになった」

罪悪感からそう口にしたが、手首の違和感は確かになくなっていた。

「なら良かった。でも気になるようだったら病院に行ってね。念のためお父さんにも伝えておく」

「悪いな」

途端窓の外が急に暗くなる。ゴロゴロと鳴る音に嫌な予感がした。

二人で窓に寄り外を見るとちょうど雷が空を割っていた。ピシャッと落ちる音とともに大雨が降り注ぐ。

バケツをひっくり返したような雨を二人で呆然と見つめる。激しい雨が地面を叩きつけ、またピカピカッと光ったと同時に耳をつんざく雷鳴。

「近いな」

「そうだね。スタッフルーム空けておくから止むまで待ってるといいよ」

「助かるよ」

「それで…ついでと言っては何なんだけど…実はお願いしたいことがあって…」

彼女からの頼み事とは珍しい、と降谷は内心首を傾げたが、二つ返事で頷いた。





シャワールームで汗を流し、服も新しいのに着替え、クーラーの効いたスタッフルームで待っていると彼女が何やらプリントの束を持ってやってきた。

「この問題なんだけど…」

そう言って見せられたのは数学の問題が書かれたプリントだった。ぱっと見て他の解答欄は全て埋まっているのに最後の問題だけ空欄になっている。

見たことのある問題文に降谷は片眉を上げる。それは偶然にも降谷が最近手をつけた過去問集にあったものだ。それも難関とされる大学レベルのもの。二年のこの時期に出されても解ける筈がない。

そもそもこのプリントはいったいどこから出てきたものなのだろう。彼女は塾には行っていないはずである。

「このプリントは?」

「担任から特別に出た課題で…」

その言葉に降谷は眉を寄せる。彼女は少し気まずそうに肩を上げた。

「成瀬にだけ?」

「そう私にだけ…」

「どうして?」

降谷の疑問に彼女は言い淀む仕草をする。なんとなく予想はついていたが、彼女の口から直接聞きたかった。ジッと追い討ちを掛けるように彼女を見つめる。観念したのか、彼女は肩を窄め、小さな声で言葉を発した。

「…窓…ガラスを、破ったから…」

だんだんと小さくなる語尾。降谷は持っているプリントをもう一度見る。自分たち担任の教科担当は数学ではない。頭に過ぎったのは窓ガラスが破れた時、降谷に詰め寄ったあの教師…。

「講習以外にもペナルティを出されてたのか」

ぽつりと言った言葉をしっかり拾った彼女は驚いた顔をする。

「知って、たの?…夏期講習が、強制だったこと…」

「窓ガラスが破れた時、近くにいたんだ」

「でも…、その話は…生徒指導室で…」

「外から聞いてた」

「聞いてた…」

「盗み聞きして悪かった。他にも解けない問題があるんじゃないのか?お詫びに解き方を教えるから許してほしい」

「許してほしい人のセリフに聞こえないわね」

「なら空欄で出すか?」

「いえ、お言葉に甘えたいです」

素直な彼女に降谷は笑った。



スタッフルームの中央にあるビジネステーブルの上にプリントを並べ、パイプ椅子に座る降谷の横で彼女は必死に問題を解いていた。クーラーが効いているのに彼女が座る体側がじりじりと暑く、せっかくシャワーを浴びたのにジワリと汗が頬を伝う。

まさか緊張、してる…?

自分が?と降谷は己を疑う。

この容姿で何かと目をつけられることも多かった降谷は揶揄ってくる奴らを喧嘩以外で黙らせるには勉強も運動も誰も文句のつけようのない結果を出すことだった。例外もいるが教師も成績が良ければ多少派手なことをしても大目に見てくれた。同時に上級生への反感も買ったが。
しかしそれもチャレンジ精神に火が着くだけで緊張やプレッシャーとは無縁であった。

小さい頃から大抵のことは出来たがそれ相応の努力はしていた。そんな自分が負けるがはずがない、と少し過剰に思うくらいに。実際にそんな自分に勝てる人間といったら景光ぐらいだった。

そんな自分が今努力とは無縁のところで緊張している。隣に彼女がいるというだけで。

「あっ、なるほど…」

考えてることとは裏腹に口だけはベラベラと違うことを喋っていたようで幸い彼女が降谷の様子に気づくことはなかった。

ヒントだけ与えてそれを参考に真剣な表情で問題を解いている彼女の横顔を頬杖を突いて見守る。

先程と同じように三つ編みの先にあるヘアゴムが目に入る。不可解な感情への当て付けもあったのかもしれない。無意識にその先を中指で掬い、ヘアゴムを指に引っ掛け、軽く引っ張った。


ふわりと片側だけ解ける髪。


気づいた彼女が驚いた顔をしている。


緩やかなクセがついた髪を彼女が手で押さえる。

「な…なん…」

「ゴミがついてた」

「うそばっかり…」

先程と同じ手は通用しなかった。流石に芸がなかったか。

「問題解けた?」

「とけ…た…けど…」

なんでもなかったように会話する降谷につられて眉を寄せながらも彼女はぎこちなくそれに応える。

彼女の解答を見る。もともと頭が良いのだろう。二、三度説明しただけで彼女は正解を導き出していた。

「ゴム…返して?」

未だヘアゴムは降谷の指に引っかかったままだ。彼女の頬が少し赤い。なんだろう。もう少しその顔を見ていたい。

差し出してくる手の平の上にヘアゴムを置く。安心している彼女の隙をついてもう片方のヘアゴムも外した。反動で髪はふんわりと舞い、綺麗に、そして緩やかに広がる。信じられないという顔で降谷を見ている。

「髪、そのほうがいい」

これは髪を解いた理由になるだろうか。
言い訳にしては苦しい気がするが、頬を染める彼女を見ていると何故だか構いたくなる。

「ま…じめに…みえないから、ダメ」

そう、言葉に詰まりながら応える彼女は顔を伏せてしまった。

もう一度、こっちを見てくれないかな。

「真面目に見せないとダメなのか?」

「うん…」

「その眼鏡も?」

「うん…って、え?」

指摘されたのが意外だったようで降谷の予想通り彼女はパッと顔を上げ、降谷を見た。

うん、降ろしたほうが似合う。

「度なしだろ、それ」

「な…なんで…わかるの」

「ものすごく弱い度数ってことも考えたけど…レンズ特有の屈折がないし」

「どうして…降谷くんは、なんでもわかっちゃうの…?」

なんでもわかるわけじゃないが、そう口にするよりも先に「悪い」と謝っていた。なぜなら彼女が眉を下げ、途端悲しそうな表情をしたからだ。

「成瀬悪いっ…」

「わかる…のに…」

「嫌だった…?」

「ううん…」

ふるふると顔を横に振る彼女だが泣きそうな顔をしているのには変わりなかった。一気に頭が冷える。しまった、と後悔した。

「成瀬、本当に悪いっ、意地悪するつもりは…」

ヘアゴムを彼女に返そうとするが、手の平に置こうとしたところで止める。返したところで表情は元に戻るのだろうか。

いや、戻らない気がする。

どうすればいいか必死に考える。いくら難関とされる問題が解けても今のこの状況を打開できなければそんなの何の意味もない。

ほんの少し色素の薄い髪が目に入る。降谷はそれを手で掬った。

ぴくり、と彼女がこちらを見ようとする。しかし降谷は「動かないで」となるべく優しい口調で言った。

手を櫛のようにして彼女の髪を一纏めし、それを編んでいく。最後に持っているヘアゴムで毛先を丁寧に括り、肩に流した。初めてやったにしては上出来だと思う。

「いいよ」

動いてもいい許可を出すと、俯いていた彼女が目の前にある姿鏡を見てパチリ、と目を瞬かせた。

しかしまた顔を伏せてしまい、仕舞いには小刻みに震えてる彼女にいよいよ泣かせてしまったと降谷は慌てる。

「成瀬、本当に悪かっ…」

「ふふっ…ふっ…」

小さな笑い声。次にはあはは、と腹を抱えて笑った。

「な、なんでっ…ふっ、あ、編み込みが出来るの…?」

あはは、と笑いが止まらない彼女。笑顔の彼女にホッとしている反面、素直にそれを顔に出すことが出来ず笑われていることも相まってぷいっとそっぽを向く。

「出来て…悪かったな」

笑ったことにより出た涙を指先で拭い、そっぽを向いている降谷を覗き込んでくる。ちらっと横目で彼女を見る。嬉しそうに笑っている彼女は小さくありがとう、と呟いた。そんな彼女に降谷も表情を緩めた。


外は雨が降っていたなんて嘘のように水溜りにはギラギラ光る太陽が映し出されていたーー…









夏休みは明け、二学期が始まった。

「おはよう降谷くん」

下駄箱で彼女に会う。降谷も笑顔でそれに応えた。

「おはよう成瀬」

教室へ向かうのかと思いきや彼女の足は違う方向へ向いていた。

「どこへ行くんだ?」

ぴらっ、と鞄から課題のプリントを出す。提出をしにこのまま職員室へ向かうのだそうだ。

「降谷くんのお陰で助かった」

「あの意地悪なプリントか」

「でも全問解けたからドヤ顔で出せるわ。いい返報になった」

悪戯っ子のように笑って職員室に向かう彼女の隣を歩く。不思議そうな顔をする彼女に「僕もついていく」と言えば彼女は困ったように笑った。

「もう大学入試の問題まで手を出してるの?」

「暇な時にヒロと…」

「暇つぶしにされる問題集が少し哀れに感じるわね」

「寧ろ解かれて喜んでほしいぐらいだ」

そう言ったら彼女は可笑しそうに笑った。



職員室から出てきた彼女は失礼しましたと下げた頭を上げ、扉を閉めたと同時に嬉しそうに口角を上げた。その表情から先生は期待通り狼狽した反応を示したのだろう。それを見て降谷も口隅を上げた。

教室へ向かうべく並んで歩いているとふと彼女の背が以前より低いことに気づいた。もう伸びないと思っていたのに…。ここ最近感じていた体の違和感はこれだったのか、と目線が少し下になった彼女の頭を見つめる。

「そうだ、降谷くん。夏休みの間、手伝ってくれてありがとう。とても助かった」

「またあの量の仕事を一人でやるのか?」

「まぁ、そうだね。夏休みは体験の人も多くて特に大変だったから降谷くんがいてくれて本当に助かった」

「この…まま、続けてもいいけど?」

「え?」

「バイト…。一人じゃ大変だろう」

「いいの?」

「成瀬が良ければ…だけど…」

ちらっと彼女の反応を見ると彼女は嬉しそうに頬を上げ、降谷を見上げていた。その表情につい目線が泳いでしまう。

「本当っ?すごく嬉しい!みんな喜ぶよっ」

みんな、か。と降谷は内心苦笑いを浮かべた。




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2020.5.18
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