自覚
「成瀬のお父さんってもしかして元日本ミドル級王者?」
旧校舎の屋上で車座になってある日弁当を広げていると景光がそう口を開く。それに彼女はコクリと頷いた。
「やっぱり!動画サイトで検索すれば試合観れるかな」
「あの頃に比べたら筋肉もだいぶ落ちちゃって、本人はあんまり観られたくないみたいだけどね。練習生は時々こっそり観てるけど」
「予定されてたタイトル防衛戦が流れた後、すぐ引退してるよね」
「うん。因縁の相手でね、戦うのとっても楽しみにしてたんだけど…」
「まだまだ現役でいける筈だってネットには書いてあったけど、どうして引退しちゃったんだ?」
ピクッとおかずを口元まで持ってきていた箸の動きがそこで止まる。降谷も手を止め、一瞬動きが止まった彼女を見た。しかし次にはなんでもないように笑って答えた。
「私にもわからないや」
困ったように眉尻を落として、彼女はそう、言い放った。
「好きです」
「ごめん」
突然呼び出され、あまり話した記憶のない女子に想いを告げられる。気持ちに応えられないことを伝えるとその子は涙を流して走り去ってしまった。降谷はふぅ、と短く息を吐き出す。今月に入って3人目だ。
最近やたらと女子に話しかけられる頻度が増えたのは何故であろう。
「成瀬といるからじゃない?」
たまたま告白現場を見ていたという景光がそんなことを言う。
「最近のゼロさ、前より少し柔らかくなったと思うよ」
それで女子が親しみを感じてるんじゃないかな?
そんなことを言われても全く身に覚えがない。先程の女子だって自分のことを好きだというが、あまり接していないのにどこを好きだというのだろうか。
「成瀬と話してる時のゼロ、すごく自然だよ。俺はいいと思う」
ゼロは?と景光が問いかける。
「気持ち…伝えなくていいの?」
え?と景光を見る。言われている意味がわからなかった。
「あー…その顔…無自覚かぁ」
困ったように笑う景光。なんだよ、と眉を寄せれば彼は「そのうちわかるさ」とだけ言った。
ざわざわと…このむず痒い気持ちはなんなのだろう。
L字型の造りになっている東校舎は途中廊下が直角に曲がっているため、窓からは曲がった先の廊下にいる生徒や先生が見える。3階にいる今、2階の廊下を歩いている彼女の姿を目撃する。本を大事そうに胸元に抱え、どこかへ行こうとしていた。方角からして図書室だろうか。カラカラと窓を開け、窓枠に肘をついてぼんやり彼女を見つめた。さわさわと心地の良い風が頬を撫で降谷の髪を揺らす。
Wゼロは?気持ち…伝えなくていいの?W
気持ち、とは…?
彼女を好意的に思っていることは確かだ。だけど、初恋は幼少期以来で、ずっと忘れられない人というのもあるがそれ以降W好きな人Wというのは現れなかった。だからこれが恋なのかと問われるとエレーナに抱いていた気持ちとはまた少し違う気がした。
ふと、彼女が歩みを止め、男子生徒と何やら話している。横顔しか見えないため、全部は理解できないが唇の動きで男が『せんぱい』と言っているのがわかる。見覚えはないが彼は後輩なのだろう。
笑顔で楽しそうに話す二人…。
またざわざわと苦しさが混ざった様な変なむず痒さが胸を掻き立てる。肘をつくのを止め、気づいたらほんの少し身を乗り出していた。
彼女が後輩と接点があるのも意外だったが、あのように話す姿も意外だった。彼女は抱えていた本を後輩に渡す。受け取った後輩は別の本を取り出して彼女に手渡した。
受け取る際、互いの指先が触れたようで後輩が慌てて手を引っ込める。恥ずかしそうに頭を掻きながら頭を下げる後輩に彼女は柔らかい笑顔で首を横に振っていた。そんな二人に降谷は眉を寄せる。
あぁ…嫌だな。
普段、教室でそんな顔しないじゃないか。
自分と話す時以外は。
チクリと胸が痛み制服の上からぎゅっと握る。あぁ、制服がシワになるな…、なんて思いながら見ていたくないその光景から目が離せない。
ペコリとお辞儀をして後輩は踵を返して去っていく。彼女も元来た道を戻るように体を反転させる。窓側へ体が向いたとき、何かに気づいて動きを止めた。そしてちらっと上の階を見たのだ。
目が合った。
ゔっ、と降谷は固まってしまう。
こちらの気持ちなどお構いなしに、気づいた彼女は小さく降谷に手を振る。未だ制服を握り締めたままの手に気づき、慌ててその手でぎこちなく彼女に手を振り返した。すると口パクで彼女が何やら話しかけてきた。
『ど う し た の ?』
様子がおかしいと思ったのか、それともそんなところで何をしているのか。どちらの意味で問われたのかはわからない。どちらにしろ口パクでは説明し難い。
次に彼女は人差し指で降谷を指さした。
人を指さすなと思いつつも、ん?と首を傾げる。
彼女は自分の眉間を指さし、そこにシワを寄せた後、そのまま降谷を指さした。
自分の眉間に触れると縦にシワが入っていた。どうやらずっと顰めた面をしていたらしい。気づかなかった。
指摘されたことにほんの少し下唇が出る。君のせいでこんな顔になってるんだ。とジト目で彼女を睨んだ。
う る さ い
そう口パクで伝えると彼女は可笑しそうに笑った。その笑顔に釣られて降谷も困ったように笑った。
苦しさが混じった胸のザワつきはもうなくなっており、今は暖かい何かで満たされていたーー。
「君が昼休みに2階にいたなんて珍しいな」
教室に入るとまだ人はまばらで戻ってきているクラスメイトは少なかった。
「本を返しに図書室に行こうとしたんだけど、途中後輩に会って…」
「随分仲良さげに話してたな」
言って、口を噤む。これではまるで嫉妬してるみたいじゃないか。
「彼は図書委員でよく受付にいるから、通ってたら顔を覚えられちゃって。時々新作とかオススメの本を教えてくれるの」
「へぇ」
面白くない。訊いたくせにそんなことを思う。
「ずーっと、下唇が少し出てる」
指摘されて仏頂面を直す。「うーん…ご機嫌ななめ?」と訊く彼女に降谷は「別に…」と素っ気なく返した。
「次の時間自習だし私サボるつもりなんだけど一緒にどう?」
「君なぁ、そんな堂々と…」
「屋上で日向ぼっこしながら私はこの本を読むつもりだけど」
掲げた本。それはさっき彼が彼女のために貸したもので。背表紙に学校名が入ったラベルが貼られていない。おそらくその後輩の私物なのだろう。
「それは僕が読むから、君はこっちを読むといい」
「あっ…ちょっと」
すっとそれを取り上げて、彼女が文句を言う前に鞄に入れっぱなしだった本を替わりに渡す。ブックカバーが付いたそれを彼女は興味深しげに見た。
「どんな内容なの?」
「犯罪心理学」
「・・・・」
ちょっと思っていたのと違った、みたいな顔をしている。
「…まぁ、読んでみるけど」
明らかに少し肩を落とす彼女に気づかぬふりをしてこちらも尋ねる。
「ちなみにこっちの本は?」
「ドロッドロの愛憎劇」
「……へぇ」
こちらも思っていたのとは違った。彼女の言葉を真似して「まぁ、読んでみるけど」なんてどの口が言うセリフを口にする。
「スリルとショックとサスペンスが同時に味わえるらしいから是非、感想きかせて?」
「・・・・」
降谷はなんとも言えない顔で彼女を見つめた。
さわさわと風が吹くたび、木々や葉が音を立てる。
キーン、コーン…と授業開始を知らせるチャイム。
隣には彼女がいて、自分と同じようにフェンスを背にして座っている。気付いたらもう本を読み始めていた。静かな空間に、パラッと本を捲る音。
白く綺麗な手が紙に触れる。
そんな彼女を横目に降谷も本に視線を落とした。
30分経ったぐらいだろうか。本を持っている彼女の手がだんだんと落ちていく。そのまま膝の上にたどり着き、本を開いたまま小さく船を漕ぎ出した。ゆっくりと体はこちらに傾く。降谷は音を立てずにほんの少し彼女との距離を詰めた。
静かに彼女の頭が降谷の肩に乗る。
「・・・・」
こそばゆい気持ちにさせられるそれは降谷の頬に赤みが差す。
一旦視線を彼女から外しキョロと明後日な方向を見るが結局、目は彼女の元へと戻ってきてしまう。
風が吹く。
前髪が揺れる。
伏せられた長い睫毛。
ほんのり色づいた唇。
上下する肩。
降谷はパタン、と本を閉じ小さな寝息を立てている彼女を見た。
参ったな、この本を読んで彼女に感想を伝えなければならないのに。
今は本ではなく彼女に目が入ってしまう。
膝に乗せていた彼女の手が本を手放し、するりと降谷の手の横に滑り落ちる。触れるか触れないかの距離。
ほんの…少しだけ。小指の先を自分より小さなその指先に触れてみる。
W気持ち…伝えなくていいの?W
あぁ、きっとこの気持ちがWそうWなのだろう。
触れたいと思ったり、一緒にいたいと思うこの気持ちは間違いなく、WそれWなのだろう。
心の中でさえ言葉に出来ず、代わりに触れている彼女の小指をきゅっ、と絡めとる。
君が、窓ガラスを破った日
本当は見えていた。囲まれた先輩たちの隙間から黄色いボールが飛んでくるのを。
綺麗な弧を描き、テニスボールが窓ガラスに当たるその瞬間を。
バラバラと四散するガラス。
僕にはその光景がひどくゆっくりに、
そして美しく見えた。
練習生に殴られ、ジムで手当てされたあの日の帰り道、構えた姿など見せたことがないのに、君はフォームを指摘した。君はわかってたんだ。先輩たちに絡まれてるのが僕だって。あの時、殴る体勢に入った僕の姿を見たからWその構えは手首を痛めるWと言った。
僕を助ける為にあんな行動をしたんだろ?あんなことしなくてもよかったのに。
連れてかれた生徒指導室で君は何も弁明しないものだから、そのせいでペナルティまで出されて…。
君が投げたあのボール。気になって、破れた窓ガラスを片付けるフリをして確認しに行ったんだ。
ボールに印刻されている日付けと大会名を見てびっくりしたよ。昔なくした筈のテニスボールだったのだから。
その年の、その日、その大会で優勝したのは僕しかいない。
優勝者にはトロフィー以外にその記念ボールが二個贈呈される。そのうちの一つを君が持っていた。
どうして、君があのボールを?
教えてくれ
君と僕は昔どこかで会っているのか?
寄りかかる彼女の頭に自分の頬を乗せ、降谷はゆっくりと目を閉じたーー…
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2020.6.4
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