天泣



「君はやらないのか?」

「え?」

ある日、休憩の合間に彼女にそう問いかけたことがあった。

「君の練習を僕が邪魔してるんじゃないかと」

降谷と父親との練習風景を時折寂しそうに見ているのはそれが理由なのでは…?と。降谷に時間を割いている分、父親と接する時間が減ったからではないかと。しかし彼女は首を横に振る。

「空いた時間に見てもらってるし、それに私も趣味程度だから」

「プロは興味ないのか?」

「うん。ほかになりたいものがあるから」

WなりたいものW

卒業後の進路のことを彼女とは一度も話したことがない。彼女はほんの少し間を置いた後、「それに…」と言葉を続けた。

「どんなに頑張っても男には勝てないもの」

どうしてそんなふうに思うのか。少し疑問に思った。

「勝ちたいのか?」

改めて言葉にされると違うと思ったのか、「うーん…」と彼女は唸った。

「男にはなれない、が正しいかもね」

そう、困ったように小さく笑ったーーー…







「成瀬」

バイトでジムを訪れていた降谷は掃き掃除をしている彼女を呼ぶ。肩を跳ね上げ、振り向いた顔は少し赤かった。

「ん?顔が赤くないか?」

「な、なんでも…ない…」

目が合ったと思ったらふいっとぎこちなく逸らされる。この間からこの調子だ。変な様子の彼女に降谷は眉を顰める。

「なぁ…」

「そ、掃除!お願いしてもいい?」

遮るようにホウキを手渡される。しかめ面のまましぶしぶ受け取るがどこか釈然としない。

「なぁ、この間から…」

「朔」

父親の声に降谷も彼女もそちらを向く。彼の手には紙が握られており、それを見て彼女が顔を顰めたのがわかった。父親の元に行き、何やら二人で話している。


バシンッ!と室内に響く乾いた音。


明らかに練習の音ではないそれに皆動きを止める。シンー…と静まり返った部屋。父親が彼女の頬を引っ叩いたことは一目瞭然で。

その光景に、降谷は唖然とする。

彼女自身もその事実にひどく驚いているようだった。大きく目を見開いて叩かれた頬を手で押さえている。

「な、んで…」

言おうとしたその口はすぐに閉じてしまう。ぐっと押し黙り、下唇を噛んでいた。

「っ!」

「あ、おい!」

突然そのまま走り出してジムから出て行ってしまった。反射的に体は動く。持っていたホウキを放り投げ、彼女を追いかけた。

相変わらず足が速い。すでにその背は小さく、降谷も全速力でなければ追いつけそうになかった。

ちょうど停車したバスに乗り込む彼女に慌ててそれに飛び乗った。

「ハァ、ハァッ」

「ふ、降谷、くんっ!?」

気づいた彼女が驚いた声を上げる。同時にプシューっと機械の音を出して扉が閉まる。「飛び乗り乗車は危険ですので…」なんて揺れる車内でアナウンスが流れる始末である。荒れた息を整えながら彼女の腕を掴み、バスの後方へと移動する。

なるべく人目につかないよう彼女を奥側に座らせ、降谷もその隣に腰を下ろす。

叩かれた方の頬が赤くなっていた。

「大丈夫か?」

「……うん」

顔を隠すように俯く彼女。あの父親が理由もなく手を挙げる人間にも思えなかったが、話を聞くにしてももう少し落ち着いてからのほうがよさそうだな。

《次はー米花駅前〜米花駅前〜…》

そのアナウンスに降谷はある場所がふと頭に思い浮かんだ。

「………海でもいくか」

ポツリと発した言葉。

え?と耳を疑うように彼女が顔を上げる。腫れた頬に優しく触れ、降谷は極力安心させるように笑いかける。

「次がちょうど駅前で停まるし、冷やすものを買って、電車に乗ろう」

どう?と提案する降谷に彼女は泣きそうな顔でコクン、と頷いたーー…。


ガタンゴトンーー…揺れる車内。買った冷たいペットボトルを頬に当て、彼女はぼんやりと流れる景色に目を向けていた。

何やら考え込んでいるその表情を降谷はジッと見つめた。




シーズンが終わった千槍海水浴場にはサーファーがちらほらいるだけで人はほとんどまばらだった。

「ほら」

「え?」

バケツとシャベルを買って彼女に渡す。

「潮干狩り」

「えっ、でも、もうすぐ秋だし…」

「春がベストシーズンだけど実は潮干狩りは年中できるんだ」

「シャベルで出来るんだっけ?」

「あー…出来るんじゃないか?」

「ちょっと、どこまでが本気?」

困惑している彼女に降谷は笑う。

「冗談だよクーラーボックスもないしな」

「本気かと思った」

「ユウトウセイの僕でも冗談くらいは言う」

「それまだ根に持ってる」



靴を脱ぎ、素足で感じる砂の感触は少しくすぐったい。波打ち際でさざ波の音に耳を傾けながら向かい合わせに座る。黙って砂を弄る姿はなかなかシュールだった。

三つ編みが揺れ、掘るたびに左手のヘアゴムも一緒になって動く。

潮の香りを含んだ風が吹く。

暫く黙って掘っていた彼女が、近づく波の音と共に小さく息を吸ったのがわかった。


「私の…母ね、警察官だったの」


ゆっくりと話し始めた彼女。降谷はそれに耳を傾ける。彼女の口から母親の話が出たのはこれが初めてだった。

「私が小さい頃にね、川で溺れた子を助けようとして…そのまま…」

波が足元を濡らす。引いていくそれはゆらゆらと光り、彼女の瞳を照らす。まるでその時の川が映し出されているようだった。

「幸い助けた子供は無事で…わた、しの名前…を、呼んでたって…」

小さく、彼女が息を吸ったのがわかった。

「わたし、その日…友達と遊んでて…、何も気づかなくて…、電話がっ、きて」

ぎゅっ、と強く下唇を噛んだ。

「私と間違えたんじゃないかって…」

パールビーズがついたヘアゴムを砂のついた手で彼女は強く、強く手首ごと握りしめる。

あぁ、もしかしたら彼女は…

その日のことをずっと後悔しているのではないか?

「たとえ君が早く帰っていたとしても、君のお母さんはその子供を助けていたんじゃないか」

彼女が顔を上げる。悲しそうに眉を寄せ、苦しそうな顔で降谷を見つめる。

「勇敢で正義感が強い立派な人だ」

真っ直ぐに彼女を見つめた。

「誰も悪くない」

「…っ…」

降谷の言葉に強く握りしめていた彼女の手が少し弱まる。

「誰も悪くないよ、成瀬」

泣きそうな顔で降谷を見て、彼女は弱々しく頷いた。

「あ、りが、とっ」

泣くのを堪え、それでもちゃんと彼女は小さく笑ってそう応えた。

彼女の目が一度伏せられる。

ふーっと、長いため息を吐いた後、彼女は意を決したように口を開いた。

「お父さん、とは…血が繋がってないの」

それに降谷の動きは止まる。まるで波が声を攫ってしまったかのように言葉を発することが出来なかった。

「本当の父も随分前に他界していて…。再婚した後、すぐに母が…死んでしまって…」

彼女はどこか遠い目で濡れた砂浜を見つめる。

「実の娘でもない私をここまで育ててくれた。もう感謝してもしきれない。だから、早く一人前になって…家を出たくて…」

左手首についているヘアゴムが、パールビーズが、砂で汚れていた。

「母と、同じ…警察官になりたかったの。でもお父さん、ずっと反対してて…。進路の紙を見られて、それで…ついムキになって…」

ポタッ、ポタッと零れ落ちた涙がビーズについた砂を洗い落としていく。

「ち、血が繋がってないから反対するの?、って…言って…しまった」

堰を切ったように泣く彼女の頭を抱えてやる。咽び泣く彼女を大切に、大切に、壊れてしまわないように優しく抱きしめた。肩に彼女の涙が染み込んでいくのがわかった。吐露した気持ちも、涙もこのまま全部吸い取ってやれればいいのに、なんて馬鹿げたことを願う。

「わた、しが降谷くんみたいな男だったら、」

さざ波の音に混ざった彼女の小さな小さな声。

「ほ、本当の親子みたいにっ、なれたかな…」

そんなわけないだろ。誰かどう見ても君たちの関係は親子そのものだ。親になんてなったことはないが彼女を見る父親の目は愛情をもっている親のそれだと思う。

わざわざ男になろうとしなくても、
君が父親の元を去ったとしても、

きっと君たち親子の関係は変わらない。
血の繋がりなんて関係ない。


大丈夫、きっと大丈夫だよ成瀬


だけどその言葉は僕からではなく、君が望むのは父親からの言葉だろうから、僕は何も言わない。

だから、せめてーー…

抱きしめている彼女の体を離し、彼女の顔を見る。

泣いている顔を見られたくないのか、俯いてしまった彼女の眼鏡に、ポタポタと涙が溜まる。

「なぁ、成瀬…」

声をかけても彼女の涙は止まることはなかった。

「顔を上げて?」

彼女は悲痛に眉を寄せて降谷を見た。



すごく哀しそうな顔も



涙で濡れた頬も



震えるその唇も



すべてが愛おしいと思えた。



濡れた眼鏡を外す。彼女が一度瞬きをして、目尻に溜まった涙がポロリと頬を伝った。同時に彼女の唇に自分のそれを重ね合わせる。

涙の味と柔らかい感触。

ゆっくりと口を離し、目一杯に開かれた瞳には降谷が映っている。そんな彼女に優しく笑う。



どうして、とその目が問う。




そんなの、





決まってる




「君のことが、好きだから」



さらに大きく開いた彼女の目からは、もう涙は出ておらず、ぽつり、と涙のかわりに頬を濡らしたのは雨だった。




雲ひとつない、青空の下で




彼女の代わりに空が泣いた。





ーー何も言えない代わりに、涙だけは止めてみせよう…

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2020.6.15
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