六日目


ジャーという水音にカチャカチャと食器同士がぶつかり合う音。

「はい」

「ありがとうございます」

ナノカが洗った食器を安室が布巾で拭いていく。会話はあるが心なしかその口数は両者ともに少ない。

ちらりとナノカを見上げる。気づいた彼女は優しく微笑んでくれたがその眉尻は下がっている。理由は安室の体が指先から腕まで消えかかっているせいだ。霞んでいる手でも物を掴めたりと感触があるのはとても不思議な感覚だった。

Wなんで、君はいつもそうなんだ…!W

不意に昨夜の出来事が頭に過ぎる。怒った口調、けれどその震えた声色は酷く哀しげで。

痛いぐらいに抱きしめられた体は安室の心を締め付けた。

皿を拭きながら安室は昨日の記憶を思い起こしていたーー…






買い物を終え、家に戻ってきた時だった。玄関先で脱いだ靴を揃えた時に違和感に気づいた。

「っ…!」

見間違いかと両手の平を見つめる。ドクンッ!と心臓が脈を打つ。ぞくり、と背中に伝う汗が体を急速に冷やしていく。

「透くん?」

いつまでも玄関先にいる安室を不思議に思った彼女がこちらに戻ってくる。

「来ないでください!」

安室の大声に彼女の足は止まる。そこでハッと我に返った。

「そのっ…む、しが」

「虫?」

「虫が…いたと思ったんですが、僕の勘違いだったようです」

「ふーん、ならいいけど…。あっ、手洗いウガイ忘れないようにね」

はい、と笑顔で応えて安室は洗面所に駆け込む。水を出し、手を洗うフリをしてもう一度よく見てみる。やはり指先が微かに透けている。

「あっ!透くん、夕飯なんだけど…」

ひょこりと現れた彼女に慌てて振り返り両手を後ろに隠した。

「・・・・」

「…な、なんですかナノカさん」

怪訝そうな顔をする彼女。冷や汗を垂らしながら誤魔化すようにニコリと笑い、こてん、と小首を傾げる。

「…何か隠してない?」

「いえ、そんなことは」

内心ヒヤヒヤしていたが、悟られないよう終始笑顔でやり過ごす。

「ほんと?」

「ほんとです」

じーっと見つめてくる彼女に安室は胸の内で苦笑いを浮かべる。矛先を変えるべく話を元に戻した。

「W夕飯Wが、なんですか?」

「あ、そうだ!今日の夕飯は私も一緒に作りたいなー、なんて」

「料理は僕担当ですので、僕がつくります。その間ナノカさんはお風呂に入ってください」

「でもたまには手伝わせてほしいな」

「お仕事してきたんですから先に体の疲れを癒してください」

手を見られないよう彼女の背中に回り込む。残念ながら今の身長では彼女の背中に手が届かないため、太もも部分をぐいっと押す。

「ちょ、ちょっと透くん⁉」

脱衣所に押し込めるようにして勢いよく扉を閉める。中で彼女が文句を垂れていたが、安室の耳には入っては来なかった。そのまま扉に背を預けズルズルと体がずり落ちていく。

もう…時間が、ない。

暫くして聴こえ始めたシャワーの音。反応を示さない安室に諦めたのか大人しく風呂に入ったようだった。

その隙に寝室へと移動する。ベッド下に隠してあるスマホを取り出す。電源を入れ画面に映し出される日付を見て眉を寄せる。残り二日。もう今日は殆ど終わってしまっているから一日弱、と言ったところか。残り幾許もない充電も今日明日が限界だろう。

透けた指先が画面に触れる。まさかこんな形で現れるとは…。空虚な笑みを浮かべ、ハッと鼻で笑う。

分かっていたではないか。心の何処かで。何を今更驚く必要がある。

日付が戻っていることに気づいた時、心の奥底にあるW焦りWが消えた。確証はなかったが微かな自信があったということだ。向こうの世界と同じ日付に戻れば元の世界に帰れる、と。

それを承知で彼女と一緒にいたのだ。戻るつもりで、騙すつもりで子供のフリを続けて、その場凌ぎで居候出来ればなんでも良かった。


なのに、


Wもう少しだけ一緒に暮らそうか、透くんW


どうして、


Wすごい!すごい!ナイスキャッチ!W


どうして…!


W私がもっと遅く生まれれば良かったって思っただけW


出会ってたった数日しか経ってない相手を…


「透くん?」

「…っ…」


愛してしまうなんて







「どうして」

瞳を左右に揺らし困惑した表情でナノカを見つめる小さな、小さな少年。

「部屋着を持って行ってないことに気づいて…」

嘘。本当は様子がおかしいと思ったから。ナノカは初めから風呂になど入っていなかった。シャワーだけだして様子を見て脱衣所から出てきたのだ。

何かを真剣に見ているその背に驚かせないよう極力優しい口調で声を掛ける。それでも十分驚いた顔で振り向き、背中に何かを隠した。先程も同じ仕草をした彼にナノカは駆け出し彼の手を取る。多少強引であったがこうでもしないと彼は打ち明けてくれないだろうと思ったからだ。

ゴト、と手から何かが落ちる。

スマホ?

一度視線はそのスマホに注がれたが、視界に入った違和感にすぐ様掴んでいる彼の指先を見た。

「っ!?」

ナノカは、目を見開く。

「透くん!ゆびがっ…!!」

「バレて…しまいましたか」

落ち着いた声で、困ったように笑った彼。

「…っ…」

諦めたような…全てを悟ったようなその顔にナノカは息を飲む。警察に引き渡すかの瀬戸際、病院のベッドで見せた時と同じ表情であった。


なんで…


「…っ…」


なんで…!


Wこんな子供に言われても貴女も困るでしょうW

ナノカはぎゅっと下唇を噛む。

「なんで、君はいつもそうなんだ…!」

「ナノカさっ…」

彼を引き寄せ、ナノカは力一杯にその小さな体を抱きしめた。苦しそうに身を捩る彼。お構いなしに強く、強くその小さな体を自分の体で包み込んだ。

「あのナノカさんっ、苦し…」

「消え…ちゃうの…?」

「…っ…」

震える声で恐ろしいことを訊く。彼は動きを止め、少しの間を置いた後にコクリ…と頷いた。それにナノカは口元を歪め、辛そうに目を閉じる。

「明後日には、もう…」

追い討ちを掛けるその言葉にナノカの体は小刻みに震える。

明後日って…

「そんな…急すぎるよ…」

訪れる喪失感。心にぽかりと開いた穴は肺までやられてしまったかのように息をするのが辛い。そこで初めて安室透という少年はナノカにとって大きな存在になっていたことに気づく。

恋愛感情ではないが、母性とは違う愛情を彼に抱いていた。

「元の…世界に、帰るんです」





「元の…世界…?」

そこでやっと抱き締める腕の力を弱める。体を離し安室を見つめる。ポカン、と口を開けているナノカに彼は苦々しく笑った。

「…幽霊だと思いましたか?」

「少しだけ」

ナノカの返答にクスッと笑った彼だが眉は哀しげに下がっていた。

「僕はこの世界の人間ではないんです」

彼の口から出てきた言葉はナノカが理解出来る範疇を超えていた。目を見開いて彼を見つめる。そんなナノカの目から逃げるように彼はふいっと顔を横に背けた。睫毛が下を向き、それは小さく揺れた。

「騙していて…すみません」

信じなくてもいいです。

そう言った彼の両頬を軽く引っ張った。

「っ!?!?」

困惑した顔を向ける彼に対しナノカは怒った表情を向ける。

「まぁ!よく伸びる頬ですこと!」

「あ、あの…?い、いひゃい…れす」

痛いです、と恐らく言った彼に免じて頬を離してあげる。すりすりと頬を手の平で摩りその顔は呆気にとられたようにパチパチと目蓋を瞬かせていた。

「消滅して、この世から居なくなっちゃうのかと思った!」

お盆過ぎたし!なんて訳の分からないことを言ってみる。そうでないと泣いてしまいそうだった。

「私は!君に命があるってわかって安心したよ!」

「…っ…」

「ずっと何かを探してたのは元の世界に帰るための方法?」

その質問にピタリと動きが止まってしまう。しかし次にはぎこちなく頷いてくれた彼にナノカはスッと心の中を何かが通っていく感覚を感じた。やっと納得がいった。ずっと彼から感じていた距離感にも頷けた。

「そっか…」

初日に言っていた米花町とやらはこの世界にはないのだろう。

「そっかぁ…やっと、お家に帰れるんだね」

よかった…

「よかったねぇ、透くん」

滲む視界。辛そうに眉を寄せている彼の顔が波打つように見える。

それでも君は泣いたりしないんだね。
私の方が先に泣いてしまいそうだ。

本当に強い子。

「ちょっとぐらい子供らしく泣け!」

腹いせに安室の頭をわしゃわしゃと撫で回す。顔を見られたくなくて彼の頭を無理矢理下に向ける。下唇を強く噛み、こみ上げて来るものを必死に堪えた。

「わっ、ちょっと…!」

何するんですか、と怒る声が下から聞こえて来る。聞こえないフリをしてぎゅっ、とそのまま彼の頭を抱いた。


泣くな。


「ふ、ふざけないでください…!」


泣くな。


「本気で怒りますよ…!」


彼より先に泣いたりするもんか。


ふーっ、とナノカは長い息を吐き出す。次には笑顔を作って、抱きしめていた彼の頭を解放して上げる。彼は頭を押さえ、吊り上がった目でナノカを見た。しかしその顔はほんの少し赤い。

「はいはい。ごめん、ごめんって」

両手を小さく上げて、もう何もしないと誓う。

「最後まで透くんは甘えてくれなかったなー。子供らしいところ一つも見せてくれなかった」

ナノカの言葉に安室は言葉を詰まらせた。

「…あの、それに関して…お話ししなければならないことが…」

「なになに?もう、なんでもどんとこいだよ」

少しの間を置いた後、彼は意を決したように口を開いた。

「実は僕、二十九歳なんです」

「……ごめん、それは信じられないかな」

透くんでも冗談言うんだね、と言えば彼は遠い目でナノカを見たのだったーー…








「よし!洗い物も、洗濯物も終わったことだし、今日は透くんのやりたいことをしましょう!」

といってもその体で外出は無理なので家で出来ること限定になってしまうが。

「ホラー映画が観たいです」

「またホラー観るの⁉本当に好きだよね」

「えぇ、作り物で怖がっている貴女を見るのが」

「ちょっとそこに座ってゆっくり話し合おうか」

結局ホラーを観る羽目になり、また手を繋いで貰った。終わって放心しているナノカとは対照的に彼は満足げな笑みを浮かべていた。

昼時には特製ハムサンドを作ってくれた。

「んー!このハムサンドすごく美味しい!!」

「実は向こうでも好評だったんです」

「はぁ〜…透くんの手料理がもう食べられなくなるのか。寂しいな」

「僕が居なくなってもちゃんと自炊してくださいね」

「透くんに色々教えてもらったけど、同じ味付けになるかな」

「まぁ、味付けってセンス問われますよね」

「あれ、今遠回しにセンスないって言われてるような…」

「否定はしません」

くっ、言い返せない。とナノカは悔しそうに眉を寄せたあと、二人で見合って可笑しくなって笑った。

沢山話した。
向こうの世界の話もしてくれた。こちらの世界とほとんど変わらないのだそうだ。向こうでは白い犬を飼っているらしい。

おかしなことに話せば話すほど胸に開いた穴は広がっていく。寂しいという感情がその穴を埋める。


楽しい時間はあっという間に過ぎていったーー…

「そろそろビール、飲みたいんじゃありません?」

「え?」

出来上がった夕飯をテーブルに並べていると彼が唐突にそんなことを言ってきた。

「冷蔵庫のビール、僕が来たときから一本も減ってません」

鋭い彼の指摘にナノカはさすがだな、と胸の内で苦笑を浮かべる。

「ずっと飲むのを我慢してたんでしょ?」

「酔っぱらった姿を見せるのはさすがに恥ずかしくてね」

「僕に何かあったとき、すぐに車を出せる状態にしておきたかったから…じゃないですか?」

ピタリ、と料理を置く手が止まる。その動きに肯定と捉えた彼は苦笑いを浮かべ、ビールを一缶冷蔵庫から取り出した。

「もう、大丈夫ですので遠慮せず飲んでください」

キンキンに冷えてますよ、なんて言われてしまえばごくり、と喉がなるが誘惑を追い払うようにナノカは小さく笑い飛ばす。

「ははっ!大分見破られてたみたいだね」

「これだけ冷蔵庫にあれば気づきます」

「ふふっ、気を使ってくれてありがとう。でもいいの」

「どうしてですか?」

「酔っぱらって君との最後の夜を台無しにしたくない」

ナノカの言葉にビールを持ったまま固まってしまう彼。仕舞いには「だからそういうところが…」とぶつぶつ何やら小声で呟いていた。

「え?なんて言ったの?」

「どれだけ酷い酔い方をされるのか気になっただけです」

「うーん…浮気した元彼を酔った勢いでプロレス技決めちゃったりとか…」

え?と目を瞬かせる彼が面白くてナノカは笑う。

「プロレス好きなんだよね」

「そこに驚いてるわけじゃないです」

全く、と彼は呆れたように笑った。

「逆にナノカさんは何かやり残したことはないんですか?」

「あるよ!本当はお風呂で透くんの頭洗ったり背中流しっことかしたかった」

「しませんからね」

ちぇっ、と唇を尖らせる。最後の頼みとあればいけると思ったのに。

「お風呂はムリですが…」

その…と目が落ち着きなく動く。時々、こちらを見て何かを言おうとしては口を閉じるの繰り返し。少々気恥ずかしそうにしている彼にナノカも妙な期待を膨らませてしまう。

「一緒に…寝る、ことは…出来ます」

ぱぁっとナノカの表情は一気に明るくなる。既に抱き締めたり、頭を撫でたりしていたが、本人からやっとスキンシップの許可を得られた。

「いいの!?」

「ただし、距離は守ってもらいます」

えっ、距離?とナノカは首を傾げた。






「透くん、私ずっと壁側向いて寝ないとダメなの?」

「はい」

はい。と言われてしまった。

「壁しか見えない」

「適切な距離だと思います」

「壁との距離がね」

というか一緒に寝てる意味!と壁に向かって喋る。

横向きで寝てるナノカの背後で安室が寝ているわけだがその彼も声からして背中を向けているようだった。

つまり背中合わせで寝ているのだ。

詐欺だ!あんな可愛い顔で、ちょっと期待させるような言い方をされたら抱き締めながら寝れるのかと思うじゃないか!

弄ばれた、なんてぶつぶつ文句を垂れている内に悔しいことに目蓋がだんだんと下がってくる。

まだ、寝たくないのに…
もっと、はなし…を…






すー…と聞こえ始めた寝息に安室は静かに寝返りを打つ。

規則正しく上下に動く彼女の背中を見つめた。その背中を手で触れ、額を押し当てた。

「ありがとう」

ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。

心の中で何度も呟く。こんな言葉では言い表せないほど安室の心は感謝の気持ちでいっぱいであった。

結局、本名は言い出せなかった。
例え偽名であることを告げても彼女の性格からして咎めることはしないだろう。しかし君に名を呼ばれてしまえば歯止めが効かなくなってしまう。



最後は笑顔で別れを言いたいんだ。



安室透として去る僕をどうか、どうか許してーーー…



2020.9.3
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