風邪を引きました枕元に置いてあるスマホの振動音に薄らと意識が浮上する。画面の明るさに目を細めながらも表示されている名前にかやは目を開く。
《かや?》
「零くん!どうしたの?」
《実は今日帰れることになって》
「ゴホッ、コホッ」
《おいっ、大丈夫か?》
「あっ、ごめん。ご飯たべてて、咽せちゃった…コホッ」
かやは急いで部屋の電気を点ける。
《声、少し変じゃないか?》
慌てているせいで部屋のあちこちに体をぶつける。
「そんなことないよ。あっ零君、それでね?実は私、今家に居なくて…明日、の夜には帰れるかと…ごめんね」
わんっ!とハロが吠える。慌てて人差し指を口元に当てる。勢いでタンスの角に足の小指をぶつけた。
《ハロも一緒なのか?》
「そ、そうなの!だから…」
《家の電気、点いてるけど?》
「えぇっ⁉」
ガチャっと開いたドア。ぶつけた小指を押さえ涙目で蹲み込んでいたかやは手に持っていたスマホをポトッと畳の上に落とす。同時に額につけてあった冷却シートもポロリと落ちた。
「……おい」
ひぇっと風邪ではない悪寒が背筋に走る。
しっかり手洗い、うがいをしてきた彼はかやの額に手を添える。
「何度だった?」
「37.7分…」
「まだ少しあるな。薬は?」
「まだ…」
「何食べたい?」
「アイス」
「わかった粥だな」
なんで訊いたの?
エプロンをつけ、キッチンに立つ彼の背をベッドから身を乗り出して眺める。彼が動く度に忙しなくハロが彼の足元を追いかける。ぐつぐつと煮える鍋、包丁がまな板に当たる音、捲った袖から時折見える彼の二の腕…
「こら、ちゃんとベッドで寝てろ」
チラッと横顔がかやを捉える。後ろを向いていなかったのにどうして見ているとわかったのだろう。背中に目玉でも着いているのだろうか。ギロリと睨まれた為、怒られる前にかやは大人しくベッドへ入った。
小さな土鍋とお椀をトレーに乗せ、彼はベッド横にあるローテーブルの所まで持ってきてくれた。かやはゆっくり体を起こす。
「仕事帰ってきたばかりなのにごめんね」
「そこはいい」
ぴしゃりと言い放つ彼に、かやは冷や汗を掻く。
「顔色は良さそうだな」
にっこりと笑う彼の笑顔。嬉しい筈なのに何故だろう…顔が引きつる。
「も、もう、ほとんど治りかけだよ」
「昨日は何度あったんだ?」
ぎくりと肩を揺らす。ニコニコした笑顔がじぃーっとかやを見つめた。視線に耐えきれず、ふいっと視線を膝へと落とす。口を窄め極力小さな声で言った。
「は、8度…越え…」
チラッと彼の表情を窺うように目線を上にする。もう笑顔の彼はどこにもおらず目尻を吊り上げ般若のような顔をした彼がそこにいた。だらだらと汗を流し、すっと背筋が真っ直ぐに伸びる。
暫く黙っていた彼だが、次にはハァと溜息を吐き、布巾を使って熱い鍋の蓋を開けてくれた。ふわっと立つ湯気にかやは未だ怒っているであろう彼にバレないよう嬉しそうに目を細めた。彼はお玉を使ってお椀に少し分け、かやに手渡す。ありがとう、と言っても彼は何も言わずに胡座を掻いて座ってしまった。テーブルに肘を突いて明らかに不機嫌な態度を見せる彼にかやは唇を仕舞う。
気を取り直し、いただきますとレンゲで少量掬い、まだ熱い粥をふぅと息を吹きかけ少し冷ます。パクッと口に放り込めばほぅっと優しい味付けに心がじんわり温かくなる。
「美味しい…」
それは頬が落ちるほどに。上がる口角を隠さずに彼にもう一度言った。
「美味しいよ、零君…ありがとう」
頬杖を突いたままふいっとそっぽを向いてしまった彼に苦笑いを浮かべる。手のひらで口元を隠しているため表情は分からないがどうやらだいぶ機嫌を損なわせてしまったらしい。
チラッと零が横目でかやを見る。スッとまた背筋が伸びた。
「どうして黙ってた」
「ごめんなさい…」
「謝ってほしいわけじゃない」
それにかやは言葉に詰まってしまう。自己管理ができていないと呆れられてしまっただろうか。お椀とレンゲを置いて、かやは怒られている子供のように肩を窄めた。
「一人暮らしのクセが抜けなくて…一人でも…大丈夫かと…」
「嘘をついてまで家を出て行こうとしたのは僕に移したくないからか?」
ピクッとかやの肩が揺れる。かやの態度に図星だとわかったのか彼はまた溜息を吐いた。
「そんなことされても嬉しくない」
「はい…」
「君も、逆の立場だったら頼って欲しいだろ?」
「うん…」
「なら、こういうことは今回限りにしてくれ。心臓がいくつあっても足りない」
「心臓に毛が生えてそうなのに?」
「調子に乗ってるのはこの口か?」
「ふいまふぇん」
頬を軽く左右に引っ張られ、俯き加減だった顔が上がる。すいません、と口にすれば彼はすぐ手を離してくれた。
「反省してないならアイスはなしだ」
「すっごく!反省してますっ」
それに呆れた顔をしながらも彼はようやく少し笑ってくれた。
「バニラとチョコ、どっちがいい?」
「チョコ」
冷凍庫からカップアイスのチョコ味を取り出し、蓋を開ける。中を見て、全部は多すぎるな、と零はガラス製のサンデーカップを取り出す。
弱っている胃腸に冷たいものなど、消化不良も起こし易いし本当は良くないのだが、少しだけなら、と零はサンデーカップに移した少量のアイスをかやの元へ持っていく。
かやは大人しくベッドに入っており、手に持つアイスを見て嬉しそうに体を起き上がらせた。零はベッド端に腰掛ける。軋んだ音を立てて揺れ、自身の体重でマットレスが沈む。
アイスを掬ったスプーンをかやの口元に持っていく。恥ずかしそうにする彼女を見て苛虐心に火がつく。
「かや、口開けて」
「う、うん…」
自分で食べられる。と言いたげな顔だったが、気づかないフリをしてスプーンを近づける。これぐらいの意地悪は許してくれてもいいと思う。小さく口を開けるかやに満足し、スプーンを口の中へ入れる。
熱でなのか、はたまた羞恥心でなのかはわからないが頬を赤く染めながらもパクッと口を閉じ、同時にスプーンを引き抜く。彼女の舌の上にアイスが乗ったことがわかるくらい嬉しそうに顔を綻ばせ、すぐ溶けてしまったアイスをゆっくり味わうようにコクンと飲み込んだ。その姿にほんの少しだけ欲情してしまう。
目を閉じ雛鳥のようにまた薄く開かれた口に、アイスではなく唇を寄せるとかやはビクッと体を反応させた。唇を離そうとする彼女の後頭部を手で押さえ、さらに深く入り込む。ぺろりと最後に彼女の唇を舐め、薄らと感じるチョコ味に甘いな、と感じつつ顔を離す。真っ赤に染まったかやの顔を見てさらに欲は募る。ぶり返してしまったら可哀想だと思いながらももう一度顔を近づける。ぱふっと彼女の両手が零の唇を押さえつける。まるでストップと言うように。
「なにしてんの」
手に持っているアイスはすぐにとろとろに溶けてしまった。
キスをされた上に結局一口しかアイスが食べられなかったかやは怒っているのか照れているのかわからないテンションで「移るからもうおしまい!」と零の肩を両手で押し出す。
「わ、私のせいでごはんもまだでしょ?もう大丈夫だから零くんもゆっくりしてください」
顔を真っ赤にして言う彼女に小さく笑いながらわかったよ、と応えた。
ハロと夕食を済ませ、風呂から出るとローテーブルを挟んだ位置に布団が敷かれていた。寝てろと言ったのに、と全く大人しくしていない彼女にやれやれと肩を上げる。
ローテーブルを晒し敷布団ごと持ち上げ、かやのベッド横に敷き直せば、口を尖らせた彼女の顔と目が合った。
「これじゃ意味ないじゃない」
「同じ空間にいるんだ。もう変わらないさ」
部屋の電気を消し、暗闇に目が慣れたころに零は口を開く。
「手、握ってもいいか?」
もぞ、と動く気配がして布の擦れる音を立てながらかやは手を差し出してくれた。熱のあるその手をやんわり握る。久方ぶりに触れる彼女の温もり。その安堵感からか、つい要らぬことを口走ってしまう。
「…最近、メールも電話もしてくれないな」
一度手が離れ、もぞっとまた動く気配。うつ伏せに体勢を変えたのか下で横になっている零を覗くように彼女の顔がひょこりと出てきた。驚いたのか意外だと思ったのかはわからないがその目は微かに開かれていた。
無意識に発していた言葉に気づき、慌てて誤魔化す。
「悪い…今のは忘れ…」
「やっぱり、気になる?」
そう、口をついた彼女につい身構える。気のせいだと思っていたのだが、今回のことといい、やはり連絡をしなかったのはわざとであったのだとその事実に少し寂しく感じた。連絡がきても中々返せないし、帰りも不規則が多いこの生活にもしかしたら嫌気が差してしまったのかも、と零の表情に少し影ができる。
「実はね…公安…っていうのがどういう仕事か分からなくて…取り敢えずその手のドラマを片っ端から観てみたの」
「・・・・」
ドラマ?
思っていた話の切り口と違っていたので、理解するのに少し時間が掛かった。
「そしたら車が爆発したり、建物が爆発したり、遊園地が爆発したり…」
「・・・・」
「た、大変な仕事なんだなって」
「色々言いたいことはあるが、取り敢えず言わせてくれ普段そんなに爆発は起きない」
そうなの?と目を丸くする彼女にいったいどんなドラマを見たのかと問いたい。
「で、でも解体とか、するんでしょ?」
「爆発物処理班がいる。滅多に自分じゃしない」
「で、でも!高いビルから飛び降りたり、凶悪犯とカーチェイスしたり…」
「いったいどんなドラマを見たんだ」
「ないの?」
「…ないわけじゃないが、滅多にない」
「でもあるんでしょう?」
「……まぁな。でも最近はデスクワークの方が多い」
かやの手が伸び、零の手を両手で包み込む。こつん、と彼女の額にそれを当てた。
「かや?」
「・・・・」
もしかして心配させていたのだろうかと未だ何も言わず黙っている彼女に思う。たまに傷を負って帰ってくることもあるから余計に不安にさせていたのかもしれない。
いつも笑顔で出迎えてくれるから気づかなかった。
かや、ともう一度名を呼ぶ。彼女は漸く口を開いてくれた。
「全部を知ったわけじゃないし、わからないことも多いんだけど…この手はきっと何人もの命を救ってきたんだなって思ったの…」
かやは握った零の手をまた優しく握り直した。
「お仕事、いつもお疲れ様…零君」
「かや…」
彼女の言葉は時折胸を衝く。心の奥底で震える鼓動はまるで小さな子供が泣いているかのようだった。
「すごく神経を使う仕事だと思ったから少しでも邪魔したくなくて、連絡控えてた。不安にさせたなら謝る。ちゃんと相談すべきだったね」
顔を上げた彼女の表情はまるで、寂しい思いをさせてごめんね、というように眉尻が落ちていた。いつも寂しい思いをさせているのは自分であるというのに。
「僕も…言葉が足りなかったと思う」
「ふふっ、ちゃんとこういうのって話さなきゃダメだね」
「そうだな…」
「話してくれてありがとう」
柔らかい笑顔の彼女に、あぁ、この笑顔に惚れたのだと改めて思った。
「かや」
「なに?」
「もう何もしないから一緒に寝ないか?」
「う、移っちゃうよ」
キスもしているし今更だろうという言葉を飲み込む。
「君を抱きしめながら寝たい」
「明日お仕事でしょ…?」
「大丈夫だ。君と違って風邪予防はしっかりしている」
「ここにきてトゲのある一撃…。でもそれなら、まぁ…いいよ?」
掛け布団を少し捲る彼女に君が僕側にくると思ったよ、と零は小さく笑う。どっちが男らしいのだか。
かやの布団に入り込み、彼女の頭を抱くように抱きしめた。すりすりと甘えるように胸板に顔を擦り付ける彼女に愛おしいと目を細め、さらに優しく抱きしめたーー…
翌朝目覚めるとキッチンに立つかやの姿が。
「もう起き上がって平気なのか?」
「うん。お陰様で、昨日は本当にありがとう。あの、もしよかったらこれ持っていって?」
「弁当?」
「大したものじゃないけど、セロリ入れておいた。風邪やっぱり心配だし」
「ありがたく持っていかせてもらうよ」
身支度を整え、作ってくれた弁当を忘れずに靴を履いているとハロと一緒に玄関まで見送りに来てくれた。
「気をつけて。いってらっしゃい」
「あぁ、君も今日ぐらいまではしっかり休んで」
「ありがとう」
頭を撫でた後、ちゅっと額にキスをする。赤くなっているかやをそのままに笑顔で家を出た。
放置されたかやは結婚してからスキンシップが多くなった彼に心臓がいくつあっても足りないのはこちらの方だと額を手で押さえた。
end
2020.3.22
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