名前の由来


幼少期に、『零』の意味を辞書で調べたことがある。

1. 雨のしずく。こぼす。こぼれる。
2. 落ちる。落ちぶれる。
3.わずかな。あまりもの。
4. ゼロ

あまりいい意味は書いておらず自分を産んだ親は一体どういうつもりでこの名前をつけたのだろうと見た目でからかわれることも相まって自分の存在が嫌な時期があった。

子供とは単純なもので、自分の嫌いな部分をたった一人にでも肯定されると世界がひっくり返ったように違う見方へと変わる。景光が「ゼロってなんかカッコいいね」と笑って言ってくれたから、今はこの名前もそのあだ名も気に入っている。


微かに聞こえる雨音に零は眉を寄せる。寝ているベッドから手を伸ばしカーテンを少し開けると降り頻る雨を見て少し強めにそれを閉める。昨日の湿度と雲の動きを見てなんとなく嫌な予感はしていた。久々のドライブデートを楽しみにしていたのに、と不貞腐れたように枕に顔を埋める。そして不機嫌な要因はまだある。隣にいる筈の彼女がいない。昨日一緒に寝て、絶対に放すまいと腕の中に閉じ込めていたというのに。あろうことかハロもいない。

零は不機嫌にベッドから足を下ろし昨夜お楽しみで床に脱ぎ散らかした服を着る。

リビングに向かうと湿気を含んだ雨の臭いを微かに感じ取る。見つけた彼女は天気が悪いのにベランダの窓を開け、膝を抱えながら桟に座って曇天の雨空を頻りに見上げていた。手にはスケッチブックを持っている。その丸まった背中の横には同じように背中を丸めて座ってるハロの姿が。一人と一匹はぴったりと寄り添って空を見上げていた。

「雨が降るとね、大きな水溜りが出来る場所があって、晴れたあとそこに行くと地面にも空が出来るんだよ。夜に行くと星空が映るんだ。私のとっておきの場所なの」

零はスマホで天気予報をすぐさま確認する。夜には晴れるとのことで、彼女の言うWとっておきの場所Wとやらに行こうとデートの計画を立て始める。

彼女は握りしめているスケッチブックを開き、何か書き始めた。

「あなたのご主人の名前はね、雨に令って書いて、零って読むんだよ」

ハロに文字を見せるかや。ハロは不思議そうにそのスケッチブックの臭いをクンクンと嗅いだ。なんだかその姿が可笑しくて、声を掛けずに見守る。

「神様に願いが通じて静かに雨が降り始める様を表した漢字なんだって。この雨みたいに清らかなしずくのことを言うんだよって昔ばあちゃんが教えてくれたんだ」

柔らかい口調でハロに話すかやの横顔を零は見つめる。

かやの祖父の名前が自分と全く同じ漢字だと知ったのはつい最近のこと。事後報告になってしまったが結婚のご挨拶に墓へ訪れた際、脇に刻まれた名前を見て知ったのだ。

桜の木下に埋められたレイの墓にも行った。そして納得する。かやが酔った時に桜並木で自分とレイを間違えたのは毛色が似ているという理由だけではない。きっと彼女の中で桜がそのスイッチになっているのだろう。

出会った当初を振り返りまさかその女性と結婚することになるとは、と目尻を落とす。昔の自分が知ったら驚くだろうな、などと非現実的な考えに笑ってしまう。自分らしくないそれはきっと彼女の傍にいる影響だと思った。

「あっ、でもゼロとしての意味なら無限の可能性を込めてつけられたかもしれないね。どっちだろ?でも…」

彼女はスケッチブックに書かれた『零』の文字を愛おしそうに目を細めて大事そうに指先で触れた。その触れ方は昨夜、彼女が零の肌に触れた時と同じ触り方だった。

「どちらにしても素敵な名前だよね」

たまらずかやを後ろから抱きしめる。

「わっ!…びっ、くりしたぁ」

大きく跳ねる体をお構いなしにぎゅっとさらに力強く抱きしめる。

潜入中は余計な感情を入れないように努めていたが、景光のことを抜きにしても彼女には随分と振り回された。振り回しているつもりなんて彼女にはないのだろうが、厄介な存在には変わりなかった。

今みたいに彼女は零の弱い部分を引き出してはそれを大切に抱きしめる。

「起きたらベッドに居なかった」

「気持ちよさそうに寝てたからつい」

今起きたの?と尋ねる彼女の質問には答えずに黙っているとかやは不思議そうに口を開く。

「あれ、ちょっと元気ない?」

かやは首筋に顔を埋めている零の頭を後ろ手で優しく撫でる。以前の自分なら弱い部分を彼女に見せるのが嫌で抵抗していたかもしれない。子供扱いするな、と。でもここ最近は徐々にだが素直に受け入れ始めている。憎まれ口も少しずつだが減った、気がする…。

「ただ…」

「うん?」

「…なんでもない」

「えぇ?気になる」

笑う彼女につられて零も笑う。まだまだ素直になれない部分もあるけれど彼女との生活は楽しかった。



雨音がする。

水溜りに
葉に
アスファルトに

外界の全てのものに雨雫が当たる

その音に混ざるトクン、トクンと聴こえる彼女の心音は特別な何かで出来ているのではと思ってしまう。でなければどうしてこんなにも落ち着くというのだろう。優しいその音色に耳を澄ませながら零はそっと目を閉じた。



君が、ただただ愛おしいーー…





「それで特別な場所って?」

「ねぇ、ちょっと…いつから起きてたの?」

end
2020.4.5
いいね♡