過去

17


かやは今日の日付をカレンダーで確認する。

今年は来てくれるだろうか。
去年は一日中待ってみたが、やはりダメだった。

かやはギターケースを持って、鞄に入れっぱなしのUSBを確認し、部屋を出た。

「おや、かやさん、こんな朝早くにお出かけですか?」

「おはようございます、昴さん。夜には帰って来ますね」

「わかりました。お気をつけて」

「はい、行ってきます」



揺れる電車に身を任せ、かやは先日安室に連れて行ってもらった場所を思い返す。紅葉ならではの色彩は彼の髪の色によく合っていた。そう言ったら赤の嫌いな彼は複雑な顔をするんだろうな、と苦笑いする。

すごく、綺麗だった…。

大切に仕舞い込むようにゆっくりと目を閉じた。




電車をおり、花屋を目指す。目的の花束を買いまた歩き出す。

見えてきた石造りの階段。ギターケースを持ち直しひたすら登る。寺の門を潜り、途中会った住職に挨拶する。水を入れた桶に花を入れ、かやは迷わず進む。聞こえてくる波の音と潮の匂い。

丘上にあるここは海を一望出来る。お墓を綺麗にしたあと花を生け、線香に火をつけてしゃがみ込む。静かに手を合わせた。

長く長く、手を合わせた。

しばらくの時が過ぎ、かやはゆっくり目を開ける。

「また、来るね…ばあちゃん」

かやは笑ってそうお墓に告げた。石段を降り、次の目的地を目指す。更地になってしまったが変わらずにある桜の木にホッと胸を撫で下ろす。今はすっかり葉も落ち寂しい状態だが春の時期には満開に咲き、縁側からこの桜木をよく眺めていた。

木の根元に触れ、確かこの辺りだったと幹からほんの少しだけ離れたところにお線香とお花を一輪添え、手を合わせる。

夢でレイに会ったよ。夢の中だけでも君をまた抱きしめることが出来た。安室さんには申し訳なかったけど…。

途端、気恥ずかしくなり振り切るように立ち上がった。

「さて!行きますか!」

かやは海沿いまで歩き、石造りの防波堤にたどり着く。海まで伸びているその防波堤の先端には今はもう破棄された小さな灯台。古く錆びれており観光客も地元の者ですら誰も近づかない。

海が一望できるようにその小さな灯台を背にし、ギターケースを横に置いてかやは待った。ひたすら後は待つだけ。今日の日付が変わるその時まで、といいたいところだが、門限を考えるとそこまでは居れそうにないな、と腕時計を見た後優しく撫でた。



日も沈み、辺りはすっかり真っ暗になってしまった。そろそろ行かなくては。今年も会えなかったな、と苦笑いを浮かべかやはギターケースを持って立ち上がる。

振り返り、歩き出そうとしていた足が止まる。スーツを着た男性がこちらに向かって歩いて来ている。どことなく目元が彼に似ているその男性にかやは歩みを進めることが出来なかった。男はこちらに気づくと挨拶してくれた。

「こんばんは」

「こ、こんばんは」

「もしかして、あなたが如月かやさん?」

「え?」

「いや、失礼。自己紹介が先でしたね。私は諸伏高明といいます」

�W諸伏�Wという苗字にかやは足が震えた。

「景光の兄です」

「お、兄さん…?」

「はい」

「は、はじめまして。私、如月かやと言います。景光君とはその、友達で…」

「えぇ、わかっています」

嫌な、予感がする…。

「今日は景光の代わりにここへ来ました」

どうして、彼の代わりにここに来るの?
何故だか、足が竦む。

「えと…ヒロは…」

「いきなりこんなことを、貴方に申し上げるのは心苦しいのですが…」

聞いてはいけない。その時のかやはそう思った。聞いたら終わってしまう。そう、思うのにかやは高明の言葉に耳を傾けてしまう。

「弟はもう、ここを訪れることができません」

ひゅっ、と息を吸うのが苦しくなる。自然と手は喉元に触れていた。

あぁ、やだな。その先を聞きたくない。

「私も先日知ったばかりなのですが…」

聞きたくないっ

「弟は事故に遭い、もう…この世にはいません」

その言葉に愕然とする。呪いにかかったように体が硬直し、視界が歪む。

今、なんてイッタノ?

この世には、いない…?

それって…

シンダッテコト?

「…うっ…」

震える唇。迫る嘔吐感に耐えられず手で口を押さえた。

「如月さん、大丈夫ですか?」

「…っ…」

声を上手く出すことが出来ない。

「あなたもお辛いでしょうが、もう、ここで弟を待たないで大丈夫です」

優しい声色だが、その言葉はまるでナイフのようにかやの心を抉る。

そんな、だって…いつから?

「あ、の…」

絞り出すように出た声。こんなこと、認めるようで聞きたくない。でも、しっかりしなくては。

「なんでしょう」

「いつ…亡くなったん、ですか」

「わかりません」

「わから、ない…?」

「実は景光とは…ずっと、離れて暮らしておりまして…。先ほども申しました通り、景光の死を私もつい先日知ったばかりなのです」

彼が今どんな顔で立っているのか見ることが出来なかった。少し言葉を選びながら発せられた言葉にかやは痛む心臓を服の上から握りしめる。

「なぜ…ここが…」

「景光から以前、自分に何かあった時はここに来るよう、あなたに伝えるよう、言われたのです」

「ヒロ、が…」

涙が溢れ出そうになるのを必死に堪える。まだダメだ、と。

「…わざわざ、教えに来てくださって、ありがとうございます」

「私はこれで失礼致しますが、あなたは?」

まだっ、ダメ…しっかり

「私も、帰ります」

「送っていきましょうか」

ちゃんと、立ってなきゃダメだ

「いえ、お気遣いありがとうございます。歩いて帰れますのでっ」

しっかりしろっ

「そうですか…。お気をつけて」

そう、去っていく高明の後ろ姿が見えなくなったところで、かやは膝から崩れ落ち、ギターケースを抱きしめた。

「…っ…」

ヒロが、死んだ…?

「…ひろ」

もう、どこにもいない

「…やだよ、ひろっ…」

どこにも、いないっ

たとえ君がここにもう来るつもりはなくても来年も、再来年も、ずっと、、君を待つつもりだった。

「やくそく、したじゃないっ」

生きてさえいれば、いつか、また会えると信じていたから…。


暗い海が、かやの心を飲み込んでいくーーー・・・。







この場所は夏になると星がとても綺麗で、祖母が眠った夜にこっそり抜け出してはよく絵を描きにここへ来た。レイを連れて。スケッチブックも忘れずに。

「いつも一人でなに描いてるんだ?」

古びた灯台の上から声が掛かる。驚いてスケッチブックを地面に落とした。

彼はそこから飛び降りて落ちたスケッチブックを拾って渡してくれた。同い年ぐらいの子なのにあそこから飛び降りるなんて勇気があると、幼きかやは感動した。

「いつもここで描いてるよね」

「な、なんでここに人が…」

「まぁ、君だけの場所じゃないしね。時々上にいたの気づかなかった?」

ブンブンと顔を横に振る。レイがその子に飛びかかり、倒れた少年はされるがままにペロペロと顔を舐め回されていた。

「うわ!なんだよ!あはは!」

「こ、こら!レイ!」

首輪を後ろに軽く引っ張るとレイはお座りした。尻尾を振って少年の立ち膝にお手をする。

「ち、ちがうよレイ、その人はエサ持ってないよ」

それに少年は腹を抱えて笑った。

「僕、諸伏景光っていうんだ。君は?」

二人で灯台を背に体育座りで座る。

「私、如月かや」

「じゃあかやでいい?」

「うん。諸伏君のことはなんて呼んだらいい?」

「俺のことはみんなヒロって呼んでるよ」

「ヒロ…」

覚えるように何度も何度もかやは呟いた。

「かやのところの犬の名前ってレイって言うの?」

「そうだよ。死んだじいちゃんの名前から取ってつけたって、ばあちゃんが言ってた」

「へー!実はさ俺の親友の名前も零って名前なんだ」

「おんなじだ」

「すごいんだそいつ。ヒーローみたいでさ!あだ名でゼロって呼んでるんだ」

どうしてゼロなのか、今では思い出せないけど景光は会うたびにそのヒーローの話をしていた。しかしこの頃のかやには景光がヒーローに見えており、夜空に輝く星よりもキラキラした目で語る彼を夢中で見ていた。



ある日元気のないかやを景光は心配そうに声を掛ける

「え?おばあさんの元気がない?」

「うん、少し痩せた気もする…」

膝に顔を埋めてかやは泣いていた。

「死んじゃったらどうしよう」

幼き日のかやは独りになるのがすごく怖かった。優しい祖母の声が聴けなくなることを、温もりのある手に触れなくなることを、全て失ってしまうことを何よりも恐れた。

ズズッと鼻をすすり顔を上げると景光の姿はどこにもいなかった。

「ヒロ…?」

「かや!」

上から声がする。景光はいつのまにか灯台に登っていた。手摺りから身を乗り出しこちらに手を振っていた。

「この高さから一緒に飛び降りることができたら君のおばあさんはまた元気になる!」

涙を拭き、かやは首を傾げる。そんなことをして本当に元気になるのだろうか。

「がんかけって言うんだって」

この時、高いところは少し苦手だったが弱々しく拳を握り、かやは階段を登った。

「ヒロ、少しこわいかも」

「手を握っててあげるから、せーのでいくよ?」

「うん…」

「せーのっ!」

握りしめた手、景光の横顔、降るような星空に…かやは目を奪われた。

あっという間の出来事で気付いたら着地していて、景光と喜び合った。

夏風邪を引いていたらしい祖母は翌日には元気になっており、かやはすぐに景光に報告しにいった。ヒロのお陰で元気になったと、かやは泣きながらお礼を言った。



□□□

月日は流れ、徐々に景光がここを訪れる回数は減ってくる。きっと別の新しいことでも見つけたのだろう。あの、ゼロという子と。羨ましいな、とその親友を思う。だが、かやも少しずつ祖母が弱々しく、小さくなっていく気がしてあまり家を空けなくなった。

中学2年のちょうど今頃、祖母が倒れた。救急車で運ばれ、かやはまたあの恐ろしい感情が心を渦巻いていく。

ばあちゃん、ばあちゃん…

死なないで、ばあちゃん…

じわじわと背後から何かが迫ってくるこの感じが堪らなく恐ろしく、かやはレイを連れて久々にあの場所へと向かった。

微かに聞こえてくる、ギターの音。
どこか聞いたことのあるその旋律は確か生まれ故郷を懐かしむ歌だったような…違ったかな、と学校で教わった解釈を薄ら思い起こす。その音に誘われるように灯台へ近づく。隠れていて姿が見えない。

胸が高鳴った。

「ヒ…ロ…?」

そう、期待も込めて声をかければ、胡座を掻いて座っていたその人はゆっくり立ち上がり、こちらを振り返る

「かや!!」

その人は自分を見てそう言った。
声が違っていた。

「え?本当にヒロなの?」

「俺だよ!すごく久しぶりだな」

面影はあるが、見違えるほど大きくなっていた。背は勿論だけど体格も、手も、男の人になっていた。久々の友に緊張してしまう。

「久しぶり…それ、ギター…だよね?」

「あぁ、今練習中なんだ。上手くなってゼロを驚かせようと思ってさ」

久々にゼロの名前を聞いた。いいな、彼はずっとヒロのそばにいたんだ、とかやは景光には見られないように寂しく微笑んだ。

「レイも久しぶりだな!」

もう、飛びかかってもビクともしない。レイを受け止め撫でているその姿にあの時とは違うんだと思ってしまった。

「少し弾いてみるか?」

「え?」

「来いよ!教えてやる」

そう言って彼はまた胡座を掻いた。
その隣にちょこんと座る。

「右足に乗せるように持ってみて」

触れたら壊れてしまいそう、と思いながら丁寧にギターを受け取る。

「右手は力を抜いて、左手の親指を…って逆だと教えにくいな」

かやの後ろに回り、足の間にかやを挟んで指の位置を教えてくれた。彼の体温が背中に伝わりじりじりと暑かった。

「…ってかや聞いてるのか?」

そう、耳元で囁かれ景光の方を向いてしまう。近い距離の彼の顔に、顔が熱くなる。かやの熱が伝わったのか景光もまた赤くなりかやから急いで離れる。

「わ、るい…嫌、だったよな」

「い、嫌じゃない!」

その言葉に景光は驚いた顔をする。

「嫌じゃないから、弾き方…教えて欲しい」

それからまた景光と会う頻度が増えた。
日中は学校へ行き、帰りに祖母の病院へ寄る。家のことが終わった夜にあの灯台へ向かった。

ギターを弾いている時だけは、何も考えずに済んだ。

「レイ、お待たせ。散歩に行こう」

もう人間の歳にしたらおじいちゃんだろう。昔に比べ随分歩調がゆっくりになった。

「レイ…」

不意にその姿がなんだか寂しく思い、ぎゅっと首に抱きつく。尻尾を振っているのが見える。温もりのある彼の体に顔を埋める。油断していたら耳を舐められた。


□□□

いつものように景光を灯台で待っていたら時間になっても彼は現れなかった。
今日は来ないのかもしれない。
もしかしたら、ずっと…。

気分を紛らわせるように、かやは頭に流れてくる旋律を歌う。
詞もない、ただのハミング。

「かや…?」

その声にバッ!っと振り返る。
こちらを覗き見ている景光にかやは口元を手で覆う。

「今の君が?」

「や、あのっ、違うのこれは…」

「すごいな!自分で作ったのか?」

少年の時とちっとも変わらないあのキラキラした目をかや自身に今向けられている。恥ずかしくなり、俯いてしまうが小さくコクンと頷いた。

「マジか!なぁっ楽譜に起こしてみよう!かや、音符は書ける?」

それにフルフルと顔を横に振る。学校で少し習ったが書ける程ではない。

「勿体無いなぁ。あ、そうだピアノ!」

「ピアノ?」

「学校の先生にお願いして少し習ってみたらどうだ?ギターはないかもしれないけど、ピアノだったら学校に必ずあるし」

本当は音楽に興味はなかった。だけど景光がそう言うなら、と試しに学校の先生にお願いしてみた。祖母のこともあり心配してくれていた担任は快く音楽の教師に話を付けてくれて朝と昼休みだけピアノの練習をした。習ったら思いの外楽しくて、夢中になった。楽譜も読めるようになった。習ったことを思い出し、楽譜に起こしてみる。ただの鼻歌だったそれが音符になってピアノで弾けるなんて…。想像していたものよりかなり心が震えた。

病室で祖母には景光の話をした。ギターにハマっていること。ピアノが弾けるようになったこと。歌が好きだと知ったこと。

「かや、よかったねぇ」

昔よりもだいぶ細くなった手がかやの頭を撫でる。かやはその手を優しく握りしめる。自分の寿命を少しでも祖母に分け与えたかった。そう祈るように、両手で包んだ。





「如月さん、少しいいですか?」

祖母の病室から出ると、先生に呼び止められた。

嫌な予感がした。

「手術が必要になるかもしれません。ただ、手術をしても延命治療に過ぎず病気を完全に治すわけでは…」

制服のスカートがシワになるくらい握りしめた。その言葉にドクドクと心臓が音を立てる。血が逆流しているのではと思うほど指先は冷たくなっていた。

「で、でも手術をすればまだ生きられるんですね?」

それに先生は、少し言いづらそうに口を開いた。

「そうなんですが、ただ手術の費用がですね…」

受付で案内された金額に愕然とした。全然足りない。頭が真っ白になり、かやは病院を後にする。ふらふらと覚束無い足取りで帰路に着いた。帰り道の記憶がなかった。レイが心配そうにかやの足元に擦り寄る。

「レイ…」

泣きそうになるのを堪える。どうするか考えるんだ。ここ付近で中学生を雇ってくれる店はない。今の自分に出来ることといえば…。

ふと視界の隅に楽譜が入る。
これを売ることは出来ないだろうか…。


かやはペンを握る。


三日間徹夜で、頭から流れ出てくる無数の旋律を楽譜に叩き起こす。学校にはちゃんと行った。祖母が心配するから。しかし授業はそっちのけでひたすら書くことに集中した。手に血が滲むのもお構いなしにかやは曲を書き続けた。

三日目の夜、最後の章でペンはようやく進みを止める。楽譜の束を数え、それを持ってかやは灯台へ向かう。錆びた階段を登り、上から見える景色に少し足が竦む。黒い海が何もかも飲み込んでしまいそうだった。

下の地面に目を向ける。子供の頃に感じた高さよりだいぶ低く感じた。あの時と同じように手摺りに足をかけ、思い切りジャンプした。

あの頃と違うのは曇っていて満点の星は見えず、隣に景光がいないこと。そんなことを思ったせいだろうか、着地に失敗し勢い余ってコケてしまう。荒い石造りの地面は膝を削り血が滲んだ。

「いっ…!」

痛いと言う言葉を飲み込んだ。ばあちゃんはもっと痛い。これぐらいで根をあげるな。と口を一文字に閉じた。

「かや?」

景光の声にかやは驚いた。来ないと勝手に思い込んでいたからだ。なんでそう思ったんだろう。いつ会うかなんてお互い約束してるわけでもないのに。

「今、すごい高さで飛んでなかったか…?パンツ丸見え…」

それにハッと口を押さえてその先は言わなかった。パンツ見えてたのか。

「お見苦しいものを…?」

「何言ってるんだよ!むしろ嬉し…」

またハッと口を押さえて言葉を封じる。
嬉しいのか。悲しくなるよりはいいか、とかやは深く考えるのをやめた。

「ってそれより、膝怪我してるじゃないか!手当てしないと…」

「ま、待って!その前にこれ…」

楽譜に起こした曲を景光に見せる。景光はそんなことより、となかなか受け取らない彼に無理やり押し付けた。しぶしぶそれを受け取り、一枚、また一枚と綴ってあるそれを捲っていく。

彼の表情がどんどん変わっていった。

「かや、これ…全部、君が…?」

「うん」

「うんって、こんなにか⁉」

「三日間徹夜で書いた」

「どうして、そんな無茶を…」

「で、でね、そのっ…実は、これを売りたく…て」

言葉にするとより無謀さがひけらかされる。自信がなくなるようにだんだん語尾が小さくなっていった。景光はかやの言葉に驚く。

「はぁ?何言ってるんだよ!君が作った曲なのに…」

「時間がないの!お願い、助けてヒロ…!」

クマが出来た彼女の顔を見て、何も言えなくなった。グッ、と言いたいことを堪え、意を決したようにかやの肩を掴む。

「わかった!いくらだ!お小遣い少なくてそんな出せないかもしれないけど…」

そう言って財布を出す景光に慌ててかやは手で制する。

「ち、ちがうよ!流石にヒロに売ろうとは思ってないよ」

その言葉に景光は、あ、そうなのね…とおずおずと財布をポケットにしまう。それに少しホッとしたような残念なような複雑な気持ちになる。

「少しでもその道で名が通ってる人に買ってもらえないかなって思って」

「そんな、性急にお金が必要なのか?」

「うん…」

景光はもう一度楽譜の束を見る。後の方に書かれたのは所々に血が滲んでいた。

「手を見せて…」

「あ、いやっ…まって」

嫌がるかやの手を無理に掴み、傷を見た。ペンが当たっていたであろうところの皮膚がめくれ血が出ていた。

「手と、膝の手当てを先ずしよう。それからどうすればこの曲が売れるか考えよう」

その言葉にかやはありがとう、と小さく呟いた。優しく笑った景光の顔を見て、泣きそうになるのを堪えて無理やり笑顔を作った。


□□□


傷を洗ってくると言って少し経つ。古く使われた畳に胡座を掻いて座り、ローテーブルに出されたお茶を啜る。かやの家へ招かれた景光は、なんだか落ち着かずソワソワしてしまう。胡座を何度も組み換え、そのたびに足元で伏せているレイが膝にお手をしてくる。幼少期の記憶が蘇り、少し笑ってしまう。

「待たせてごめんっ」

戻ってきたかやを見て、景光は驚く。

「お風呂入ってきたのか?」

「待たせてるのにごめんね。これでも急いで入ったんだけど…」

タオルで髪を拭きながら、傷のある方の足を引き摺って救急箱を出す。いまだ理解が追いつかない景光にお構いなしにかやは言葉を続けた。

「眠気覚ましに朝入った切りだったし、汚いかなって思って…」

「そんなっ!君は、きれい…だ…よ」

語尾が小さくなる。咄嗟に出てしまった言葉に恥ずかしくなり最後の方は殆ど言えてなかった。彼女を直視出来ず下を向く。

「そう?じゃあお風呂に入らなくてもよかったかな…?」

そういう意味じゃないんだけどな、と肩を落とす。ほら!傷見せてと誤魔化すように彼は救急箱を開けた。膝を消毒している時に、景光は気になることを口にする。

「おばあさんはどうした」

「えと…今、入院してて…」

表情に影を落とす彼女に景光は察した。
そうか、と言って彼女の足に包帯を巻く。どうしてこんなボロボロになってまで曲を書き続けたのか。なんでお金が必要なのか。思えば彼女はいつも祖母のために一生懸命だったことを思い出し、景光は口を開く。

「願掛け、叶うと良いな…」


�W願掛け、叶うと良いな…�W

景光のその言葉に口を噤む。小さい頃に祖母の具合が良くなるようにと二人で灯台を飛び降りた。そのことを覚えていてくれたのだとかやは泣きそうになる。声を抑えてうん、と小さく頷いた。



翌日、かやは音楽室に来ていた。一応弾いて見ないと不安だったからだ。景光はこの楽譜の束をどこかの音楽プロダクションに送ってみようと提案した。かやはそれを受け入れた。一曲、一曲丁寧に弾いていく。途中思いついた詞を綴ってみた。祖母を想う気持ちを音に乗せて運び出すーー・・・


音楽室のドアが勢いよく開く。驚いて鍵盤から指を離す。ギターケースを背負った知らない男が入ってきた。ずんずんと大股開きで近づいてくる男にかやは身構える。

「今の!君か⁉」

気迫ある声で手を掴まれた。利き手を掴まれ痛みで思わず手を引っ込めようとするのを男が制する。

「君だな⁉」

再度確認するように言われた。かやはコクコク、と上下に頭を振る。

「もうどこかのプロダクションにこれを送った?」

「ま、だ…です…」

「なら!俺にこの曲を譲ってくれないか⁉」

男の思ってもない申し出にかやは驚いて言葉を失う。しかしすぐに正気を取り戻して慌てて発した言葉はなんともがめついたものだった。

「い、いくらなら買ってくれる?」

かやの言葉に驚いた男は返答に悩んでいるようだった。ことの事情を説明すると男は少し待ってくれ、と考える素振りをする。数枚ある楽譜の束を再度見てかやに目を向ける。互いの真剣な眼差しが交差する。意を決したように男はわかった、と言ってくれた。

「まず、歌詞がついてるこの三曲を買おう。君のおばあさんの手術費用分を出す」

それにかやは目を大きく開いた。

「ほ、ほんとに…?」

「本当だ。今から金を下ろしてくる。ここで待っていてくれないか」

「あっ、えと…これから病院へ行こうと思ってまして…」

その男は祖母の入院が本当なのだと安堵した目を向けた。

「わかった、ここに君のおばあさんが入院してる病院先、書いてくれる?」

半信半疑でかやは渡された紙に言われた通りのことを書く。

祖母の見舞い後、病室を出ると男が外で待っていた。手渡された封筒に首を傾げる。ずしっとした重み。顎で開けるよう促され、かやは封筒の中身を確認した。初めて見る札束に手が震え、目をまん丸にして男を見た。

男の真剣な顔にゴクリと喉を鳴らす。

冗談ではなく、本気でかやの曲を買ってくれるのだと。喜びよりも若干の恐怖が震える手に現れる。しかしかやも意を決して鞄から三枚、歌詞が書かれた曲を男に手渡したーー…。




初めて会ったばかりの、しかも初めて書いたという素人の曲を数百万で買う、というのは今思えばおかしな話で、あの男の同情も少しあったのかもしれない。

後の話でわかったことだが彼はここのOBだそうで、卒業生の為にサプライズライブをするためにたまたまその日下見に来ていたんだそうだ。かやはあまりTVを見ない為この男を知らなかったが、そこそこ名の通った人物だったらしい。

その日、病院の先生に手術することをお願いし、かやは灯台に来ていた。先に来ていた景光にかやは笑顔で今日のことを話した。

「え!?売れたの?」

「うん!これですぐにでも手術受けられるって!せっかく相談に乗ってもらったのに、勝手なことしてごめんね…」

「いや、それはいいんだけど…その男、ちゃんとした奴なのか?何か悪いことに悪用されたり…かやの、か、体目当てだったらどうするんだよ!」

「名前は…えと、、忘れちゃったけど…」

「かや!?」

「私の体目当てだったらお金は先に渡さないだろうし…」

「た、たしかにな…」

「中学生の体に数百万は出し過ぎだし」

「な!わからないだろ!とんだ変態野郎かもしれないんだから!気をつけろよな」

怒った顔で言う景光にかやも圧倒される。コクコクと真顔で頷いて見せた。ふぅ、と息を吐いて落ち着きを取り戻した景光は話を続ける。

「そういえば、楽譜の束の中にかやがここで歌った曲が入ってなかったけど、楽譜に起こさなかったのか?」

「起こしたけど、売りには出さなかったよ」

「どうして?」

「だって、ヒロとの大切な思い出だし…」

そう、照れ隠しで少しぶっきらぼうに言えば景光にも伝染したのか顔が少し赤かった。

「そっか、そうだよな。またここでギター弾こうな」

「うん。あのね、ヒロ」

「うん」

「ありがとう。ここまで出来たのもヒロのおかげだよ」

「俺は何もしてないさ」

「ううん、ヒロはいつだって私のヒーローだよ」

星空のもとで、少し照れくさいセリフを彼に告げたーー・・


その後、自分の書いた曲が瞬く間に世に知られ、男は有名になり、これからも曲を書いてくれないかと提案される。渋るかやを見て男は言った。

「君のおばあさんが入院している間だけでもいい。いつ、また手術になるかわからないだろ?それに金があればもっといい治療を受けさせてあげられる」

その言葉にかやもしぶしぶ頷き、男との契約が正式に交わされた。

この時、景光が言ったようにそのままどこかのプロダクションに送っていれば何か未来は変わっていたんだろうか。この男の人生を狂わすこともなかったんだろうか。



□□□


「かや、修学旅行…行かなかったろ」

月日は流れ高校二年の時、景光の言葉にぎくり、とギターを弾く手が止まる。チラッと景光を見る。少し怒った顔をしていた。

「なんで、知ってるの?」

「君の学校に知り合いがいてさ。そいつがちょうど修学旅行だったとき確か俺と会ってたなって思い出して」

「だって、ばあちゃんもレイも残して遠出するの嫌だったし…」

「まったく、かやらしいな」

呆れながらも次には優しく笑ってかやの頭を撫でる。景光が齎す温かい空気にかやは嬉しそうに目を細める。この時のかやは完全に景光に恋をしていた。しかしこの気持ちを伝えるつもりはなかった。何故ならば景光はもうじきここを離れるから。

「ヒロ、寮の準備はもう出来てるの?」

「あぁ、だいぶ部屋も片付いた。このギターともしばらくお別れだな」

「たまには戻ってきてね」

「あぁ、約束する。それで、その…」

「どうしたの?」

俯いてしまった彼を心配そうに覗き込む。やっぱり、なんでもない。と顔を背けてしまった。無理矢理にでも聞いておけばよかったと今では後悔している。

景光は一足先に高校を卒業し、この町を出て行った。



「かや、修学旅行なんでいかなかったんだい」

少し怒った口調の祖母にギクリとリンゴを剥く手が止まる。一年前にも言われた似たようなセリフに既視感を覚える。

「なんで知ってるの、ばあちゃん。そんなだいぶ前の話…」

「担任の先生がさっき見舞いに来て、教えてくれたんだよ」

「だ、だって…京都なんて別に興味なかったし…」

口籠もりながらそう告げれば呆れたように祖母はため息を吐いた。

「かやが無理することないんだよ」

「無理なんてしてないよ」

「ばあちゃんね、もう十分過ぎるくらい生きたから…」

「ばあちゃん、やめてよ。まだまだいてもらわなきゃ困る」

昔と違いずいぶん痩せ細ってしまった手がリンゴを剥いていたかやの手を優しく握る。

「ばあちゃんね、かやの手がこんなに大きくなって嬉しいんだよ」

「ばあちゃん?」

温かい手がかやの手を確かめるように優しく撫でる。

「あーんなに小さかったのにねぇ。たくさんたくさん泣いてたのにねぇ」

何度も、何度も撫でる祖母の手をかやは泣きそうな顔で見つめた。

「ばあちゃん、どうしたの」

「かやがいたからじいさんが死んでも、ばあちゃんちっとも寂しくなかった」

「ばあちゃんっ」

「ねぇ、かやちゃん」

「…っ…」

そんな、小さい頃の呼び方で呼ばないで。辛くなるから。

「かやちゃん…ずっとそばにいてやれなくてごめんねぇ」

嫌だよ。ずっとそばにいてよ。一人でなんか生きていけないよ。

そう言いたいのをグッと堪える。笑え。一人でも大丈夫だと、いつか安心して祖父のところへいけるように…ちゃんと、笑え。

「う…ん…うんっ、大丈夫、だよ」

涙を堪えて絞り出したその言葉が精一杯だった。もうかやの高校生活も終わりに近づいていた。


それから数日後に病院側から突然連絡を受けかやは愕然とする。学校から急いで駆けつけ、乱れた呼吸がやけに煩く病室に響いた。祖母にかけられている白い布を見て、鞄が手からすべり落ち、書かれた楽譜が床に散らばる。

ふらふらとベッドへ近づいた。白い布を取って安らかに眠る祖母の肩を抱きしめた。

間に合わなかった。

「…っ…」

どうしてだろう。死んだというのに実感が湧かない。悲しいはずなのに、涙が出てこない。こんな、非情な人間だったのだろうか。

先生や看護師に声をかけられたが、なにも耳に入って来なかった。放心しているかやを担任が肩を抱いて病室から出す。何か言っているけど何も聞こえない。

ふらふらと覚束無い足取りで家に戻るとレイが心配そうに擦り寄る。

「遅くなって、ごめん…散歩に…行かなくちゃね…」

とぼとぼと歩くその道をかやはぼんやりと見つめる。

確か、そこの駄菓子屋で帰りたくないと駄々を捏ねた。
あそこの神社では近所の子と喧嘩してよく泣いて帰った。そんな時は何も言わずに祖母が抱きしめてくれた。
初めて小学校に行った日はあの電柱で帰りを待っていてくれた。

思い出だしたらキリがない。だけど、確実に言えることは、祖母は常にかやのそばにいてくれたということ。

ずっとそばにいてくれた。

崩れ落ちるように地面に膝を着いてしまう。

もっと、何か出来たのではないか。
もっと、何かしてあげれたはず。
ちゃんと祖母の痛みに寄り添えていただろうか。
甘えてばかりで、泣いてばかりで、
困らせてばかりで、
自分といて辛くはなかっただろうか。
煩わしくはなかっただろうか。

漏れ出る嗚咽を手で押さえ、地面に額を擦り付けた。どうしようない喪失感が心を抉る。やっと出た涙なのに、泣いてもあの優しい手で頭を撫でてくれる人はもういない。

「…ば、ぁ…ちゃん…」

レイがかやの顔を舐めてくれる。涙が頬を伝う。ぎゅっとレイを抱きしめたーー・・・


祖母の葬儀も無事に終わり、海が一望できるこのお墓にレイと一緒に訪れた。ここには会ったことのない祖父もいる。お花を添えて静かに祖父母に手を合わす。

帰り道、とぼとぼとヨタついているレイの足取りを見て心配になる。散歩の距離も昔に比べだいぶ短くなった。レイの体力が持たなかったのだ。ずっと小さい頃から一緒にいるのに、同じように歳が取れないのは残酷だった。

翌朝、散歩の時間になってもレイは起きてこずダルそうに寝ていた。いつもかかっている動物病院に連絡し、家に来てもらった。聴診器を当て、色々診てもらったが、原因はわからなかった。

「もう、歳だからねぇ。なるべくそばにいてあげて」

先生のその言葉にかやは暗く返事をした。



□□□

「ずっと、学校を休んでるわけにはいかないだろう」

担任の先生が、家を訪れそう言った。
確かに、行かなければならないのはわかっているが、レイが心配だった。

「あと、変な男が君を訪ねに学校にきたよ」

「え?」

「連絡がつかないから家を教えてくれと言われた。守秘義務があるからと帰ってもらったが変な仕事に手を出してるんじゃないだろうな」

教師の言葉に違います、と応えた。
いまだ疑いの眼差しを向けられていたが気づかないフリをした。

景光の助言に従っておいて正解だった。男には祖母の病院しか教えていない。連絡先は男にもらった携帯のみ。高校先がバレたのは予想外だったが制服で病室を訪れていたし、同中のOBである彼ならばいくらでも情報は手に入るだろう。ここがまだバレていないのは幸いである。しかし、今更何の用だというのだろう。祖母の訃報を伝え、今までありがとうございましたと電話で伝えた。携帯を解約することもきちんと伝えてあるはず。

「やましい事がないならいいが…。話を戻すが出席日数が足りないと卒業させてあげられないよ。君のお婆様も悲しむだろ」

「わかりました…明日から学校にいきます…」

その言葉に満足した担任はかやの肩をぽんぽん叩き、頑張れ、と言われた。何を、頑張ればいいのだろう、とぼんやり頭の傍らで思う。次いでされた話が進路の話だったがかやの心はずっと霧がかかったようにぼんやりしていた。

 


「じゃあレイ、すぐ戻ってくるからね」

毎日学校に行く前に何度も何度も頭を撫でて、昔のように首に抱きつき、大好きだよと耳元で囁いてから学校へ向かう。あと二週間で卒業だった。

下校のチャイムと共にかやは急いで教室を出て、学校を出る。門を出たところで手首を掴まれた。

「見つけたぞ!如月!」

ガリッと手首を塀に押しつけられる。強い力に顔を歪めた。目の前にいたのはあの男だった。

「あな、た…」

「なぜ電話に出ない。なぜもう曲を書かない!なぜだ、なぜだ!」

「携帯は、解約…しました。それに、もともとっ、祖母の治療が終わるまでって…」

「金か?金が足りないんだな?」

「ち、ちがいます!」

「じゃあなんで俺のために曲を書かないんだ!」

話の通じない男にかやは叫ぶように言った。

「ばあちゃんは死んだ!もう、あなたに曲は書けない!手を離して!!」

「おい!そこでなにをしている!!」

騒ぎを嗅ぎつけてきた教師がこちらに走ってくる。それを見た男は手を離し走り去っていった。かやも走ってその場を去る。幸い、他の生徒はおらず塀が邪魔して教師にもかやの姿までは見えていなかった為大事にはされなかった。



□□□

何もする気が起きず、暗い部屋に一人で畳にうずくまっていた。

レイが心配そうによたよたと近くにきて、かやの前で同じように丸まった。その頭を優しく、優しく撫でる。

「レイ…最後にばあちゃんに会わせてあげられなくてごめんね…ばあちゃんも、ここに帰って来たかったと思う…」

レイを抱きしめるようにして眠った。どれぐらいそうしていたかは覚えてない。ドンドンドン!っと玄関のドアをけたたましく叩く音に飛び起きた。

「かや!中にいるのか⁉」

「ヒ…ロ…?」

ヒロだ、ヒロの声だ。
慌てて玄関を開けると息を切らした景光が立っていた。

「ど、どうしたの?」

「俺、知らなくてごめん!かやが辛い時に…そばにいなくて」

その言葉にかやは目を見開いた。知り合いとやらに祖母のことをどこかで聞いたのだろう。

「そんな、ヒロが気にすることじゃないよ。私も連絡しなかったしさ」

「大丈夫、なのか?」

「うん。ヒロこそ新しい生活にはもう慣れた?」

「あ、あぁ。ぼちぼち、な」

「よかったら上がって。今お茶入れる」

畳の部屋に向かえばレイが具合悪そうに横たわっていた。景光は心配そうに頭を撫でる。

「もう、長くないみたい…」

お茶を持ってきたかやはそう、寂しく言った。

「でも随分頑張ってくれててね、犬の寿命からしたらだいぶ長生きなほうだって」

景光はかやと同じように、寂しそうにそうか、と呟いた。

「おばあさんの仏壇は?」

「あ、それはこっち」

仏壇の前に手を合わせたあと、景光はこちらを振り向く。

「かや、あの男のことで話がある」

ヒロの深刻そうな表情に、かやは困ったように笑って見せた。今日のことは誰にもバレていないはず。

「もしかして、曲のこと?」

それに目を開いて、知ってたのか?とかやに問う。

「作詞作曲ともずっとあの男の名前で売り出してたことぐらい気付いてたよ」

気付いたのは高校に入ってからだが。それまでは無我夢中で書いていたから気にも止めていなかった。

「それだけじゃないだろ。お金だって、あの男が入る金の十分の一も貰ってないんじゃないのか?」

「いいの」

�W金か?金が足りないんだな?�W

男のセリフが頭を掠める。掴まれた腕がジリジリと痛かった。

「かや、でも…」

「いいの!」

少し強めに言えば景光は口を閉じた。かやもハッと気づいて、ごめん、と呟いた。別に贅沢がしたかったわけじゃない。祖母の治療費が賄えれば生活に支障もないし、それで良かった。だからもう曲を書く必要はない。音楽だって初めはそんなに興味なかったのだ。もとの生活に戻るだけ。

「色々調べてくれたのに、ごめんね。でももう終わりにしたから。あの男からもらった携帯も解約したし」

「簡単に諦めてくれるとは思わない。良くない噂も聞く」

よくない噂と聞いて今日の姿が思い浮かぶ。服装も派手になっており、金遣いや言葉遣いまでもが荒くなっているようだった。自分の曲が呪いのようにあの男を変えてしまったようでかやは怖かった。

「かや、卒業したらどうするんだ?」

「とりあえずまだ貯金はあるから、切り崩しながら少しずつ考えようと思ってる」

「ここを離れないのか?」

「この家で、レイと最後まで居ようと思って。ヒロは警察官になるんでしょう?」

「あぁ、今猛勉強中だ」

「あの、ゼロって子も一緒?」

「そうだ、ゼロも一緒に目指してる」

いいなぁ、自分も男だったらよかったと、心の中で思う。

「かや、パスポートは持ってる?」

「パスポート?持ってないけど…」

「作っておいてくれ。頼む」

「でも、私海外に行く予定ないし英語喋れないし」

「いいから!ね?」

肩を掴まれ、あまりに必死に言うものだからかやは思わず頷いてしまった。

「じゃあまた近々くるから」

あの時の景光はこうなることを予測してあんなことを言ったんだろうか。もうそんなこと誰に聞いてもわからないことをかやは暗い海を見つめて思う。





卒業式の朝、庭先の桜が綺麗に咲いていた。

「すぐ戻ってくるから待っててね」

いつものように首に抱きつき、大好きと伝える。弱々しく尻尾を振るレイに、離れ難く何度も何度も頭を撫でた。

「行ってきます」

風が吹き、桜の花びらが舞う。
まるで誰かに後押しされているような、温もりのある風が背中を撫でた。

�Wいってらっしゃい�W

誰かにそう、言われている気がした。




レイは、


その日に、


息を引き取った。


学校から帰ったら桜の木下で眠るように亡くなっていた。

ゆっくり近づいて、いつものように頭を撫でてあげる。

またお別れ言えなかったな、と困ったように笑った。

ポタッ、ポタッと水滴が綺麗な毛並みの上に落ちる。

「うっ…うぅ…」

冷たい体を抱きしめる。
あんなに朝は温もりがあったのに。
傍に居てやれなくて、ごめんね。
大好きだよ、と何度も呟いた。

桜の花びらがレイを埋葬してくれるかのように、ゆっくりと優しく舞い降りた。




赤い、夕日の色が縁側を照らす。指先や、顔に土がついたまま、かやはぼんやりと縁側に座っていた。

「かや?」

その声にかやはゆっくり顔を向けた。

「門のところを覗いたらたまたま見えて…大丈夫か?レイは?」

「あ…えと…」

上手く表情が作れない。堪えるので必死だ。言葉にすると溢れ出てしまう。
でも、ちゃんと言わなきゃ。

「パ、パスポート…言われた通り、作ったよ」

言わなきゃ

「あと…今日卒業式でね、無事…そつ…ぎょ、うっ…できっ…た」

我慢できずにポロポロと滴が落ちてくる。

「あは、はっ…ごめんね、なんかやっぱ…さびしくて」

もう駄目だ、とぎゅっと目を瞑っても涙は止まってくれなかった。

「ごめん、ひろ…今日、は帰っ…」

「何も言わなくていい!」

ぎゅっと抱きしめられる感覚。驚いて目を見開いた。

「わかったから。何も、言わなくていいっ」

触れる温もりと微かに聞こえる鼓動に目を閉じて、かやは静かに涙した。




「レイにお線香あげていいか?」

「うん」

桜の木下。やや盛り上がっている土の根本に景光は線香を横向きに添えて、手を合わせた。

「ヒロ、お茶入ったよ」

縁側からかやが声を掛ける。
景光は部屋に上がり、かやに深刻な表情で話し始めた。

「かや、あの男が血眼になって君を探してるよ」

その言葉にかやは膝の上に置いていた手をぎゅっと握る。

「調べてくれたんだね、心配してくれてありがとう」

「そんなことはいい。で、どうする?」

「もう一度話をして、理解してもらうしかない、かな…」

「とても話が出来る状態とは思えない」

それにはかやも同感ではあった。あの様子だときっと諦めてはくれない。では、いったいどうすればいいのだろう。他に策も…。

「海外」

「え?」

「海外で音楽をやるのはどうだ?」

「私、もう曲を作るのは…」

「部屋の奥に楽譜だらけの部屋を見つけたよ。今でも作ってるんだろう?」

「…っ…」

見られていた。しかしこちらも食い下がるわけにはいかない。パスポートは言われた通り作ったが、いきなり行けと言われていけるものでもない。

「英語だって話せないしっ」

「音楽、好きなんだろ!?」

肩を掴まれ、景光と目が合う。
思わず眉を寄せ、目尻を下げてしまう。

あぁ、そうだよ、ヒロ
私、音楽作るのすごく好き。
本当はやめたくないの。
だけど、あの男は私の曲で変わってしまった…
だから、少し怖いの…

「君の人生だ!選べ!!あの男を気にしてるんなら、気にさせてやれ!欲望に目が眩んだ罰だ!」

選べ!かや!

景光の声が、電流のように耳から流れてくる。ビリビリと背中に電気が走る。
すっかり泣き虫になってしまった…
目に涙を溜めて、小さく頷いた。




音楽が、やりたい




殆ど声にもならないその言葉に彼は満足したように笑った。



□□□

祖母の家を引き払い、かやは空港に来ていた。

後腐れなく、は嘘で…
家を引き払う決心は当日のその瞬間まで迷っていた。沢山の思い出が詰まったあの家を手放すと思うと、胸が締め付けられた。でもそのまま放置しておくわけにもいかず、いつ戻れるかわからなかった為、揺らいだ決心のまま家を引き払った。

後ろ髪引かれる思いで、かやはキャリーケースを引く。

「かや!!」

景光の声に振り返る。見送りすると言った時間をだいぶ過ぎていた。

「遅れてごめん。これ取りに帰ってたら遅くなった」

手にしてる黒いケースはいつも景光が大事にしているギターだった。

「俺のお古で申し訳ないんだけど、これ持っていって」

そう手渡され目をまん丸に開いた。

「だ、ダメだよ!ヒロの大事なものじゃない!」

「俺だと思って一緒に連れていってあげて欲しい」

それにグッと涙を堪える。そう、言われてしまうとかやのほうが持っていきたいと思ってしまう。しぶしぶ受け取るかやに景光は満足そうに笑った。

「あと、左手出して」

言われた通り左手を出すと何か手首に巻かれた。彼の手が離れると腕時計がちらりと見える。

「え?これ…」

驚いて景光をみる。彼は恥ずかしそうに鼻を擦った。

「就職祝いってやつだよ。まぁ俺よりずっと早く稼いでたけど…。デザイン気に入らなかったら…」

「ううん!ありがとう。すごく嬉しい…大切にする」

かやはギターを置いて、その時計を抱きしめるように手首を覆う。それを口元まで持っていき、口の動きが見えないようにした。

どこまでも心が温かい人。

小さな声で好き、と呟いた。

「え?かや、今なんて言った?」

「また、会える?って聞いたの」

誤魔化すようにかやは笑って言った。景光は太陽のような笑顔をかやに向けた。

「もちろんさ!君があの灯台を一人で飛んだ日のことを覚えてるか?」

「えと、パンツが丸見えだった…」

「それはいいから!」

まったく、と赤くなっている顔で彼は言葉を続ける。

「実は俺あの日の光景が結構衝撃的でさ。高く飛んだ君の姿を今でも思い出すんだ」

「え…?」

「カッコいいって思ったよ」

いつも親友のゼロを褒める彼が、あのキラキラしたあの眼差しで自分をカッコいいと言ってくれた。

「えと…だからその、なんだ…」

後頭部に手を回し、顔を下にしてなにやら言い淀んでいる景光に首を傾げる。少し恥ずかしそうに上目遣いしながら彼は言った。

「ずっと、あの灯台で待ってる。どんなに忙しくても毎年、あの日と同じ日に、君を待つ。…今度は俺が待つ」

景光のその言葉に、気持ちを抑える事が出来ず、気づけば抱きついていた。

「え、ちょっ!かや⁉」

慌てている彼の両手が四方に動いてることなどお構いなしにかやは彼の胸に顔を埋めた。おずおずと景光もかやの背中に手を回してくれた。

「俺も警察官になるの頑張るから。かやも頑張れっ」

頑張れ。再度耳元で力強くそう呟いてくれた。以前言われた言葉よりも景光のその言葉はかやに勇気を与えてくれた。

「うん…うんっ」

何度も、それに答えるようにかやは頷いた。
ゆっくり体を離しかやは鞄から楽譜を出す。

「…これヒロが持ってて?」

「え?いいのか?」

「うん。でね、もしよかったらなんだけど歌詞をつけてくれないかな?」

「え?俺が!?」

「うん、お願い」

困ったように頬を掻く景光だったが次にはわかった、やってみると言ってくれた。それにかやは嬉しそうに笑った。


「行ってきます」



そして、かやは日本を旅立ったーー・・・





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