浮気してる彼氏から夢主を奪うお話。萩原
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「はぁ…疲れた…」
開かないドアに背を預け、そのままずるずると体は下がっていく。通勤で普段あまり使わないバスは人がいっぱいで、まさにすし詰め状態。おまけに帰りの電車も人でごった返していた為に今日は特に疲労感がすごい。少しだけ、と膝に顔を埋め、ひたすらに彼を待つ。意地もあったかもしれない。普段は連絡なしで来たりしないし、押し掛けたりもしない。ただ、彼に会って安心したかった。
どれぐらい経ったか、揺さぶられる感覚に目を覚まし、驚いて顔を上げる。
「お姉さん、大丈夫?」
期待した人物ではなかった。少し髪が長めのチャラそうなお兄さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「あ、はい…すみません。大丈夫です」
「鍵でもなくした?」
「い、いえ…本当にお構いなく…」
「友達に開けるの得意な奴がいるけど、今から呼ぼうか?」
開けるのが得意な人間とはいったいどんな友達なのだろう。しかもボソッと「まぁ、俺も出来なくはないけど…」と言った言葉を聞き逃さなかった。もしかしてあまり関わっちゃいけない人?
「あれ?でも住んでたのは男だったような…」
彼の言葉に途端恥ずかしくなる。連絡のない彼氏のことが心配で家の前で待ってる、なんて建前だ。本当は当てつけだった。今どこで何してるかわからない彼に対する。嫌な予感は随分前からあって、それを有耶無耶にしてきたのは自分で。勘違いであって欲しいという気持ちもあって。心配…という言葉に託つけて会いにきただけだ。そんな浅はかで狡猾な人間であることを初めて会う人に知られるのは少し抵抗があった。
「も、もう帰ります…!」
顔を隠すようにしてその場を去ろうとする。すると彼が慌てて腕を掴んできた。
「待って待って!怪しい人に見えた?そう思わせたんなら謝る。まず自己紹介させて!俺、萩原研二!お姉さんは?」
優しい声。柔らかく目尻を下げて笑う彼につい心を開いてしまいそうになる。
「…っ…」
本当に怪しい人ではないのだろうか。躊躇していると彼も察したのか萩原という男は一度苦笑いを浮かべる。
「家近くなの?もう終電もとっくに過ぎてるし、こんな夜中に一人で…」
ピコン、と握りしめたままのスマホから音が鳴る。待ち望んだ返信がようやく来た知らせだった。目の前に自分を心配してくれている人がいるのに、やりとりそっちのけで急いでメッセージを確認する。
【会社近くの同僚の家に泊まったから平気】
それ、だけ?
台風大丈夫だった?今日会社行けた?返信ないけど大丈夫?今どこ?
それに対しての返信がたったこれだけ…。腕を掴んでいる彼からもメッセージのやりとりが見えたのか掴んでいる腕をゆっくりと離した。
コツコツコツーー…階段を上がってくる二人分の靴音。その中にヒールのような音が混じっていた。聴こえてくる聞き覚えのある声に体が固まる。
「げっ…」
腕を組んで現れた男女。気まずそうに顔を歪めている男は私の彼氏だ。やはり、そうだった。同僚ってその派手な格好をされている女性の方ですか?あー…嫌だな…。来るんじゃなかった…。
「こ、これには訳があってさ…!」
いったいどんな訳があるというのだろう。じわりと視界が歪む。持っている鞄を投げつけ、ひっぱたいてやりたい。こういう時、女は相手の女性に敵意を向けると言うけれどそのどちらでもなかった。一気に押し寄せてくる倦怠感。感情の整理が追いつかず、ただただ動けないでいた。
「だから、こいつとはなんとも…!」
「ねぇ」
その声に顔を上げる。このど修羅場に唯一関係のないその人の声は空気を変えた。
「このまま君を俺のものにしたい…って言ったらどうする?」
「…へっ?」
思わず素っ頓狂な声が出る。今、なんて言ったの?
「は?」
二、三分前まで彼氏WだったW人が顔を歪めて彼に詰め寄る。胸ぐらを掴むが元彼よりも背が高く、体つきががっしりしている萩原さんはびくともしなかった。一度冷めた目で元彼を見下ろしたあと、またあの優しい目で私を見た。
「本当は君のこと知ってたんだ。何度かこのマンションに来るのを見かけててさ。その時からいいなって思ってた」
急な展開に頭が追いつかない。突然の告白に顔が熱くなる。先程まで心はどん底に落ちていたというのに今は元彼の存在が霞んでしまうほど、視界は萩原さんでいっぱいだった。
「こんなクズな男より、俺にしない?」
「…っ…」
「おい!テメェ!なに勝手に人の女に…!」
「……もうあんたの女じゃない」
「あ?」
「その人から手を離して」
元彼を押しのけ、萩原さんとの間に立つ。
「あんたみたいな男、こっちから願い下げ。もう連絡もいらないから」
パァン!と最後に一発ビンタをお見舞いして、放心している元彼を置いてその場を去る。叩いた手のひらがビリビリと痛い。台風はもう去ったのに、まだ空気が湿っている気がした。
「ねぇ、ちょっと待って!」
階段を降りたところで、萩原さんに呼び止められる。優しい人なんだな。
「あの…先程はありがとうございました」
頭を下げ、彼に見られないよう哀しげに笑う。大丈夫。分かってる。私の為にああ言ってくれたということ。だから勘違いはダメだ。無理矢理笑顔を作り、顔を上げると萩原さんの顔は何やら微妙な顔をしていた。やれやれと頭を横に振り「やっぱり伝わってなかったか」と言った。
「さっき言ったことは本当なんだけどな」
指先まで冷え切った自分の手を温かい手に覆われる。もうその手に痛みはなかった。
「約束するよ。君にあんな悲しい思いはさせないし、前の男なんか忘れるくらいうんと優しくするし、大切にする」
途端全身に苦しいくらいの血が巡る。けれど心はぽかぽかと温かい。そうだ。初めて会った時から彼はずっと優しい空気を出してくれていた。
「君のことが好きなんだ」
「萩、原さん…」
名前を呼ぶと彼は嬉しそうに眉を下げる。
「俺と付き合ってくれませんか?」
たった出会って数分しか経っていないのに首を縦に頷いたら可笑しいだろうか。けれどその短い時間でも彼との未来がとても幸せなものに感じたのだ。返事をしたら彼は嬉しそうに笑ってくれるだろうか。そんな期待を込めて私は笑ってその申し出を受け入れたのだったーー…。
おわり
2021.10.12
いいね♡
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