いと様
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「あ?」
咥えていたタバコを指の隙間に挟んで、「ほら」と火種が着いた先の方角に目を向ける。ガラス越しから見えた光景。思わず薄く開いた口は咥えていたタバコの先がほんの少し下を向く。
名前が知らない男と一緒にいる。いや、ここは職場だ。仕事ならば男と話すこともあるであろう。だが、仕事仲間にしては少々距離が近いように思える。主に男の方が。
早く離れろと胸の中で念じてもそう上手くはいかず、男は胸ポケットからなにやらチケットのようなものを取り出した。思わず目を細めるが彼女が首を振り、やんわりと断っているのを見て、波立った感情は一度大人しくなる。
しかし男が次に取り出したのは携帯で、再び心は荒れることとなる。どうやら今度は連絡先を交換しようとしているらしい。
おいおいおいと気づけばフィルター部分を噛んでいた。仕方なく新しいのに火をつけ、ことの成り行きを見守る。
「気になるなら行けばいいのに」
「別に気になってねぇよ」
へぇ、と注がれた視線の先を目で追う。知らぬうちに出ていた貧乏揺すり。言葉とは裏腹に体は正直なようだ。今更親友の前で虚勢を張っても意味がないかと、足の揺すりを止めてから大きく息を吐き出した。
「…あいつに迷惑かかんだろ」
技術は評価されても協調性のなさから周りと衝突することもしばしばだ。この性格のせいか何かと反感を買いやすい。だが己を曲げてまで直そうとは思っておらず、どんな噂が立とうとあまり気にはしてこなかった。しかし彼女は別だ。下手に動いて彼女まで悪く言われては困る。
「愛されてるねぇ」
萩原は困ったように笑った。
「あれ名前さんじゃね?」
うっせ、と照れ隠しに悪態つこうとしたら言葉は別の声に遮られた。新しく喫煙室に入ってきた二人組に松田と萩原の意識はそちらに向く。二人組の一人が彼女と相手の男を見て何やら表情を曇らせた。
「あいつ抜けがけしてやがる!」
男とは知り合いなのだろう。聞きたくなくても二人の会話は自然と耳に入ってくる。
「俺だって一目惚れだったのに!」
「お前ら可愛い、可愛いって飲み会の時クダ撒きながら言ってたもんなぁ」
知らぬうちにまた出ている貧乏揺すりに気づいているのは萩原だけ。
「そうそう!それによく見たら胸も結構…」
ガンッ!
気づいたらスタンド灰皿を蹴飛ばしていた。慌てて萩原が倒れないように台を抑える。
掛けているサングラスに怯えた二人組が映る。苛立たしげにタバコを灰皿に押し付け、彼らをひと睨みしてから喫煙室を後にしたーー…。
「あの、映画がダメならせめて連絡先だけでも交換してもらえませんか」
「プライベートな連絡先を教えるのはお断りしていて…」
「どうしても?」
「ごめんなさい」
頭を下げ、その場を去ろうとしたら手首を掴まれた。これは少し厄介かもしれない。断り方を間違えた。初めから彼氏がいると言えばよかったと後悔する。
「あの私、彼が」
「ずっと!名前さんのこと良いって思ってて!」
ぎゅっと力の入った手は少し痛かった。
「ちょっ…!」
「その…!ご飯だけでも…!」
「おい」
名前は目を丸くする。低く呟いた彼の声に驚いた男は慌てて手を離した。
「悪いけど、こいつちょっと借りるわ」
「おい!ちょっと!」
「ストーップ!」
二人を追いかけようとする男を萩原が引き止める。
「なんだよ!今いいところだっ…」
かろうじて笑顔だが、ただならぬ雰囲気を感じ取った男は思わず怯んでしまう。
「君に耳寄りな情報を教えてあげよう」
二人が恋人同士だということを耳打ちされた男はその後、撃沈したのは言うまでもないーー…。
「じ、陣平くん…!」
掴まれている腕が熱い。黙ったままの彼は強引にひっぱりつつもその歩幅は名前に合わせてくれていた。
「じん…わっ!」
人気のない場所まで来ると壁に背を押し付けられた。閉じ込めるように頭上にきた腕は逃げることが出来ない。
「さっきは…ありがと…ぅ」
依然黙ったままの彼に言葉尻が小さくなってしまう。こちらをジッと見下ろしているがサングラスのせいで感情を上手く読み取ることが出来なかった。怒っているのだろうか。機嫌がよろしくないのは確かだ。
「機嫌…悪いの?」
理由はわかっている。けど、彼の口からその気持ちを話してくれたことはあまりない。
「悪いかもな」
試すような言い方。そんな彼に少しムッとしてしまう。
「サングラス、外してよ」
「じゃあ、お前が外して?」
「…っ…」
躊躇いがちにサングラスに手を触れる。ゆっくりと外して見えた眼光に思わず生唾を飲み込む。気を抜くとこのままこの瞳に呑まれてしまいそうだ。そして私はこの目に弱い。
「んで、この後は?どうすんの?」
すごく意地悪な言い方。ご機嫌を取れということだろうか。狼狽えている自分に彼が喉奥を鳴らして笑ったのがわかった。この状況を面白がっているのだろう。
「ーー…ほしい」
「あ?聞こえねぇな」
こんなこと普段の自分なら決して言わない。耳も顔も首も、羞恥で真っ赤に違いない。しかし彼はきっと心配して助けに来てくれたのだ。お礼も兼ねて意を決したというのに彼は聞こえないという。なんて曲がった性格をしているのだろう。そんな彼すらも好きだと思ってしまうのだから自分もどうかしている。
カツカツと遠いけれど誰かが近づいてくる足音。彼も聞こえている筈だ。けれどその表情はピクリとも動かなかった。人が来たからと言ってこの状況を止めるつもりはないのだろう。早くしないと誰かに見られてしまう。
名前は慌てて彼のネクタイを引っ張った。
「キス、してほしい」
「ん」
そのまま重ねられた唇は態度に反して優しくて、感じる温かい舌は控えめに応える自分をリードするように熱く絡めてくる。器用に弱い部分だけを的確に責める彼はやはり意地悪だった。
まだ仕事が残っているのに情熱的なその口づけは酸素を奪っていき、頭をぼんやりとさせた。足に力が入らず、彼の服を掴むと壁に置いてあった手が支えるように腰に回った。
「んっ…じん、ぺ…」
「…っ…」
苦しい、と軽く胸を叩く。一度離された唇に大きく息を吸う。生理的に溜まった涙を見て、彼が目を細めたのがわかった。すごくご機嫌なようだった。
口紅がついた彼の唇をぼんやりと見つめる。舌舐めずりで拭う姿は夜の姿を思い出させた。どんなものも分解してしまう大きな手が優しく頬を撫でる。顎を持ち上げ、大好きな彼のタバコの香りがもう一度近づいてくる。強く、さらに引き寄せられる腰。唇が重なる直前に彼は言った。
「お前は俺のもんだろーが」
初めて聞く彼の気持ち。胸の奥が震えたのがわかった。堪らず彼の首に腕を回したのだったーー。
おわり
2021.5.12
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