抹茶様
▼▲▼
「こ、こんにちは」
「こんにちは名前さん。どうぞこちらへ」
柔らかく、人懐っこい笑みを浮かべながら定位置となりつつあるカウンター席へと案内してくれる彼。
「名前さん、今日は何になさいますか?」
「アイスカフェオレで」
「かしこまりました」
店は混んでおり即今従業員は彼一人のようだった。忙しそうに店を回している姿に今日は長居せずに喉を潤したらすぐに帰ろうと心に決める。
「どうぞ、アイスカフェオレです」
「ありがとうございます」
コースターの上に飲み物が置かれると同時にケーキが乗った皿も置かれる。頼んでないですよ?と言葉を発する前にフッとテーブルに影が出来る。
「他のお客様には内緒にしてくださいね?」
耳に吐息が掛かる。驚いた顔を向ければ彼は何事もなかったかのように「ゆっくりしていってくださいね」とまたあの人懐っこい笑みを浮かべながら席を離れていった。耳が、熱い。
ケーキを口に運びながらキッチンに立つ彼をこっそりと盗み見る。しかしすぐに気づかれてしまい、目が合うと頬を緩めた彼にフォークを持つ手が止まる。
「け、ケーキ!すごく…美味しいです」
見ていた言い訳にそう口にすると彼は嬉しそうにありがとうございます、と目尻に皺をつくった。
「…っ…」
彼の笑顔を見るたびに、心拍は上がり、体温は上昇する。けれど、その笑顔は自分だけのものではない。
「安室さん、すみません!遅くなりました!」
「…っ…」
バークヤードから出てきた女性店員に名前の胸の奥は途端何かに締め付けられたように苦しくなる。
「いえいえ、カラスミありました?」
「はい!近くのスーパーに在庫置いてありました」
フォークを握る手に力が入る。
例えケーキをサービスしてくれたからといって彼の心が自分に向いているわけではない。
最初は見ているだけで良かったのになぁ…。そう、自嘲めいた笑みをこぼす。
「名前さん?どうしました?」
ハッと顔を上げる。こちらを心配そうに見ている二人に、なんとも言い難い禍々しい気持ちが渦巻いていくのがわかった。張り裂けそうな気持ちを抑え、席を立つ。
「お、お会計…お願いします」
「えっ?もう帰られるんですか?」
「用事を思い出しまして…ケーキとても美味しかったです。お金これで足りますか?」
「あれは僕からのサービスで…」
「いえ、しっかり払わせてください」
「名前さ…」
「ご馳走さまです」
彼の顔を見ずにお金だけ置いて、足早に店を出る。つくづく自分は可愛げがない女だと肩を落とす。折角彼が気を遣ってくれたというのに…。しかしあの二人が作り成す特別な空間にいたくなかった。
あぁー…やだな…と立ち止まる。どんなに頑張っても自分はただの客に過ぎず、仕事とはいえ従業員という立場の彼女がすごく羨ましかった。そして気持ちは次第に大きくなっていき非の打ち所のない彼女に嫉妬するようになっていった。
あの人のように美人だったら、愛嬌があったら、明るい性格をしていたら…
比べたらキリがなく、またそれは自分をより惨めにさせる。
劣等感が、増していく…。
何度この恋を諦めようとしたことか。ツラいならやめればいい。しかし日が空けば空くほどに比例して会いたい気持ちが募っていき、懲りずにまた店を訪れてしまう…。
ちょんっと鼻先に水滴が落ち、見上げた空はいつの間にか曇天に変わっていた。そうだ、今日は午後から雨が降ると天気予報で言っていた。そこで初めて手ぶらな自分に気づく。どうやら店に傘を置いてきてしまったようだ。
店には戻りたくなかった。雨脚が強まるのを感じ、どこか雨宿りが出来る場所がないかスマホで検索する。しかし間違えてタップしたのはSNSのアプリ。そこで見たつぶやきに、雨除けに使っていた鞄はゆっくりと降ろされていく。
内容は先程いたポアロ…
Wぎゃー!二人が抱き合ってるW
Wみたみた!抱き合ってたよね⁉W
Wうそ!やだー!W
それは安室と梓が抱き合っていたという情報だった。写真はないものの、店にいた大半の客が目撃しており、SNS内は騒然としていた。
ポタッポタッ、と画面が水滴で見えづらくなっていく。雨が降っていてちょうど良かったのかもしれない。街中で惨めったらしく泣いている姿を誰にも見られたくなかった。
以前から二人がそういう関係なのではという噂はあった。たかが噂。しかし今の名前にはたった一言のつぶやきでも信じてしまうほど盲目していた。
もう苦しい。こんなことで一喜一憂する自分も、告白すらする勇気のない自分も、嫉妬する自分も全部全部嫌い。
「名前さん!」
肩を掴まれ、思わず振り向いてしまう。その人物に名前は目を見開いた。
「な、んで」
「ずぶ濡れじゃないですか!こんなところで何をっ…」
しかし彼は名前の顔を見て口を噤んだ。
「泣いて…?」
雨水では誤魔化せなかったようで、隠すように顔を背ける。彼は名前の手を掴み、人の少ない屋根のあるところまで移動する。
「安室さんこそ…どうしてここに…?」
話を逸らすように訊ねれば彼が手に持っている傘がようやく目に入る。
「わ、たしの…傘?」
わざわざ届けて…?
「先程様子が変でしたし…雨が降っても取りに戻って来なかったので何かあったのかと…」
「ごめんなさい」
よく見たら彼も濡れている。傘を使う時間も惜しんで自分の元に傘を届けにきてくれたのだろう。名前は鞄からハンカチを取り出した。
「使ってください。風邪をひいてしまいます」
「泣いている理由を伺っても?」
「…っ…」
受け取ってもらえなかった手が寂し気に降ろされる。名前は泥が跳ねてしまっている彼の靴先を見つめた。
「安室さんには、関係…ありませんので」
本当のことを言っていいものか。この気持ちが彼に迷惑を掛けたりしないか。それだけが心配だった。
「それでも訊きたいと言ったら?」
「もう!ほっといてください」
嘘をつくことに慣れていない所為かつい声が裏返ってしまう。
もう、優しくしないでほしい。
もう、これ以上好きになりたくない。
「放っておけません」
「…っ…どうして、ですか?」
「それは…」
言葉に詰まる彼。わかってます。安室さん、優しいですもんね。ポアロの常連客がびしょ濡れで街を歩いてたら、そりゃあほっとけないですよね。
「私が…あなたを好きだと言っても…ですか?」
彼の目が徐々に開かれていく。驚いているのは明らかで、あぁこれで私の片想いも終わってしまうんだな、と嘲笑にも似た笑みを浮かべながら口を開いた。
「わかってます。安室さんと梓さんがお付き合いされていること。もうポアロには行かないので…」
また出てしまいそうに涙をグッと堪える。左右に揺れている瞳に彼が動揺しているのがわかった。明らかに困っている。フラれるのだと覚悟を決め、本当は耳を塞ぎたかったが、代わりにギュッと目を閉じる。
「もう一度言ってください」
「………はい?」
パチッと目を開け、思わず素っ頓狂な声が出てしまう。
「もう一度、言ってくれませんか」
「な、なにをですか?」
「僕のことをどう思っているか、です」
この人はサドなのだろうか。それともこの状況で聞こえなかったとでも?
「い、いやです」
「お願いします」
「ど、どうしてそんな…!」
「もう一度、聞きたいんです」
握られた手は熱く、瞳の奥は揺れている。そんな彼の反応に微かな期待が生まれてしまう。ダメ。変に望みを持っては。冷静に、とゆっくり息を吐いてから、彼の目を見る。
「私があなたを好きだと…わっ!」
まだ最後まで言っていないのに強引に腕を引っ張られ、気づいたら彼の胸の中にすっぽりと収まっていた。
「あ、あむろさ…!」
「今はじっとして」
「む、無理です!どうして…!」
夢みたいだ、と囁かれた言葉にジタバタと動かしていた体は大人しくなる。背中に回る手。彼の言葉を反芻する。それこそ今、夢のような出来事が起こっているこの状態はいったい何がどうなって…
「なにを勘違いしているかわかりませんが僕と梓さんは恋人同士ではありませんよ」
その言葉に思わず顔をあげてしまう。未だかつてこの至近距離で彼の顔を見たことがなく、思わず遠のこうとしてしまう体を阻止するように彼の腕がギュッと腰に回った。これでは意識の方が遠のいてしまいそうだと、一度首を振る。
「で、ですが先程店で抱き合っているとの情報が…!」
彼はそこでようやく合点がいったのか、「あぁ」と納得したように頷いた。
「あれは躓いた梓さんを抱きとめただけです」
「っ!!!?」
しばらく口を開けたまま壊れた機械のように固まっていると彼はフッと可笑しそうに笑った。
「なるほど。そういうことだったんですね」
嬉しそうに目尻を落とし、目の端に溜まった名前の涙を指の背に乗せた。
正気に戻った名前の顔は火が出るほどに熱くなっていく。
「ごめんなさい!勝手に勘違いした挙句、安室さんをこんなびしょ濡れに…!」
「あなたはいつも自分に自信がないように振る舞いますが、本当は誰よりも綺麗な心の持ち主だってこと、僕は知っています」
「な、なんですか急に!それに私、綺麗な心の持ち主なんかじゃ…」
「さっきだって、自分の方がずぶ濡れなのに僕にハンカチを渡そうとしてくれたじゃないですか」
「あ、あれは安室さんが私のせいで雨に濡れて…!」
「傘をさして来なかったのは僕の責任です」
「でもわたしが変に意地を張らずに店に戻っていればこんなことには…」
笑いながら名前の話を聞く彼に、口を噤んでしまう。何故ならその笑顔はとても悲しそうだったから…。
どうして…
どうして、そんな…
今にも泣きそうな顔で笑ってるんですか…?
「このままあなたを拐えたらどんなにいいか」
雨滴のように落とされたその言葉はひどく掠れていた。
「僕は、あなたに嘘をついています」
「え?」
「諦めるべきだと何度も自分に言い聞かせました。けれどあなたの態度がいつもと少し違っただけで、傘をさすのも忘れるくらい動揺するなんて」
背中に回っている腕の力が弱まったのを感じた。
「こんなことを言うのは勝手で、本当にずるい男だと思ってくれて構いません」
「安室…さん?」
「いつか必ず君を迎えにいくから…だからそれまでどうか…どうか僕を信じて待っていてほしい」
彼の大きな手が頬を覆う。親指が名前の唇に触れた。告白の返事はなく、フラれたかどうかもわからないのに、そのまま落とされた唇はとても優しく、とても温かかった。触れただけのキスがゆっくり離されていく。額同士が触れ合うと彼は最後にこう言った。
「さようなら、名前さん」
体は離れ、最後まで握られていた手は名残惜しむように小指をなぞり、指先から離れていく。
待って、行かないでください。安室さん、と心の中では叫んでいるのに体は動けずにいた。
雨音とともに、彼は人混みに紛れ去っていってしまう。名前はただただ、その場に立ち尽くすしかなかったーー…。
風の噂で彼がポアロを辞めたことを聞いた。信じて待つように言われてから数ヶ月。未だ彼からの連絡はない。皆が彼を過去の人にしていく中、触れた唇の感触を何度も、何度も思い出し、信じて彼を待った。
「安室さん…」
今、どこにいるんですか…?
ピンポン、と突然鳴るインターホン。スピーカーから宅配業者だと名乗る男の声に慌ててドアを開ける。
「…っ…!」
「はじめまして、名前さん」
大きな花束と指輪を持った彼がそこに立っていた。
「降谷零といいます」
昔、嘘をついていると言った彼。あぁ、その名前が本当の名前なんですね、と震える手で口元を押さえる。
「結婚を前提に僕とお付き合いしてくれませんか」
ポアロの時にも時折見せてくれた優しい笑顔でそう告げられる。言葉を交わすよりも先に彼の首に思いっきり飛びついた。
「もちろんです…!」
溢れる涙とともにありったけのキスを交わしたのだったーー…。
おわり
2021.6.13
いいね♡
▲▼▲
- 58 -