一線を超えないと出られない部屋を過ごした後の話《降谷零》


警察学校時代からの付き合いのある彼女とは出会った当初から意気投合…とかではなく、ズボラな性格の彼女と白黒はっきりしていないと気が済まない性分の降谷とは度々価値観の相違などから衝突することもあり、景光には水と油、犬猿の仲、不倶戴天、なんて言われてる時期もあった。しかし今はウソのようにそれなりに仲はいい…と、思ってる。
きっかけは何気ない会話から彼女がふと笑った時だった。花が咲いたような、屈託のないその笑顔を見た時、不覚にも可愛いと思ってしまう。我ながら単純だと思った。それから世界はひっくり返ったかのように彼女の言動、行動全てが愛おしいと思うようになってしまったのだからーー。



「……おはよう」

「おはよう」

「風邪か?」

うん、と少しずり落ちていたマスクを上げる彼女。

「体調管理も出来ないなんて…っていう説教は今なしで」

「まだ何も言ってない。それより随分早いな。いつもは遅刻ぎりぎりだろ?」

「未処理の書類が溜まってて。降谷こそ早いじゃん」

「僕はいつもこの時間だ」

「うへぇ…さいですか」

先程から全く目が合わない。少し俯き加減なのも気になった。マスクのせいもあるがお陰で表情が分かりにくい。昨夜見た夢の彼女とは真逆で随分素っ気なかった。

片思いをし続けて数年。一切の進展なしにここまできた。もはやこの男友達という立ち位置に居心地の良ささえ感じてしまうほど。伊達班長には「情けねぇなぁ」なんて言われる始末だし、松田からは「んな呑気なこと言ってっと誰かに取られちまうぞ」と責付かれている。
そんな降谷に昨夜不思議な出来事が起こった。自室のベッドで寝ていたはずなのに、気づけばドアも、窓もない、クイーンサイズのベッドが置かれただけの密室な空間に彼女と二人きり。戸惑う中、ベッドの上には一枚の紙切れが。そこには彼女と……その、なんだ。直接的な言い方を避けるとつまりは情を交わさないとその部屋から出られないと記されていた。ああ、夢だな。と確信する。大層なご趣味の変態に拉致られた可能性もあるが、隠しカメラがないところを見るとこれは長年片思いを拗らせた自分が創り出した幻。夢だとわかっているのに色々脱出を試みて、その上でせざるを得ない状況に持ち込むところがなんとも滑稽で笑ってしまう。それでも欲望のままに彼女を抱くのは嫌だった。それがたとえ降谷が創り出した幻でも。「真面目だねぇ降谷ちゃんは」なんて萩原あたりが言ってきそうだ。
今まで募らせた想いを彼女に告げると、彼女は頬を染め、少し照れくさそうに自分も同じ気持ちだと伝えてくれたのだったーー。

「移すといけないからもういくね」

「あ、ああ」

夢の中だとわかっていてもあれは嬉しかったな、なんて余韻に浸る間も無く、自分の席に座ってもう仕事に取り掛かっている彼女。普段ならもう少し会話はあるというのに。本当に風邪を移したくないのか、機嫌が悪いのかはわからないが、いつもより態度がおかしいのは明らかだ。夢の中では何度も甘い声で自分の名を呼んでくれたと言うのに…と未だ覚めきっていない頭にムチを打ち降谷も自分のデスクへと向かった。背中を向けて作業している彼女の横を通り過ぎようとした瞬間、彼女のうなじと首筋の境目にとある跡がチラリと見え、足は止まってしまう。

「…ッ…!」

降谷の心臓は大きく跳ね、思わずグイッと彼女の後ろ襟を引っ張った。皆が出勤する前でよかったと心の底から思う。

「ぐぇ!??なっ、えぇ!?」

「おい、首のこれ…」

「えっ?首?」

当然彼女は驚いているが、反応からしてここにソレがあることを知らないようだった。
いや待て、早まるな。他の誰かがつけた可能性だって…と彼女が他の誰かに抱かれた可能性なんて考えたくもないが、ならば昨夜の出来事は夢の中ではないということになってしまう。否定したいが、人の肌を甘噛みしたいと思ったのは人生初めてのことで。0(ゼロ)にも似た歯形を彼女に残して優越感に浸っていたからよく覚えている。

「…っ…」

同じだ。間違いなくそれは昨夜、行為中に降谷がつけた形そのものだ。

「降谷…?」

引っ掴んでいる襟を離し、そこでやっと彼女と目が合う。降谷に首を指摘され、彼女の手が首裏に回る。指先が歯形の羅列をなぞると、それが何なのか予想がついた彼女はブワッと顔を赤くした。甘噛みしたのは最後の方で、彼女の意識が途絶えるギリギリの瞬間につけたから彼女自身記憶が曖昧になっていたのかもしれない。
何と言っていいかわからず、お互い黙ったまま見つめ合った。つまり、昨晩の出来事は幻なんかではなく、現実に起こったもので…?俄かに信じがたい出来事は認めるのに少々時間が必要だった。
混乱の最中、降谷はふと疑問を持つ。風邪だと言っておきながら声音は普通だし、咳もしていなければ、顔色もいつも通りな彼女に。

「君、本当に風邪か?」

「…っ…」

ふいっとバツが悪そうに視線を逸らす彼女。しばらくして観念したのか、瞳を揺らしながら赤く染めた顔でふるっと首を横に振る。

「だから…降谷に会うの、嫌だったのに」

ボソッと発した言葉に、表情を隠すためにマスクをしてきたことがわかった。いつもより早く来ていたのも先に仕事をしていれば不必要な会話は避けられると思ったのだろう。

「可愛いな」

「はッ!?!?」

まだ朝だ。一日は始まったばかり。やるべき仕事も沢山ある。急な要請があれば二、三日家に帰れるかどうかだって危うい。でももしあれが夢でないなら、あの情熱的な夜をもう一度過ごせるのなら、今夜もう一度君を抱きたいと降谷の言葉に混乱している彼女に伝えてもいいだろうか。


おしまい
2025.4.26.
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