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 私の大理石のように冷たかった手のひらにはまだ微かに彼の温もりが残っている。

「昨日の事があったからだろうけど、君は気にしすぎだな」

 サロウは呆れとも違う、小さな溜息を吐いた。

「それで君が吸血鬼とのハーフだって事は分かったけど、もしかして毎晩ああいう風になるのか?」
「ううん、毎晩じゃない」

 向かい合わせにして立ち顎に手を当て首を傾げる彼に、普段は親に血液が入った瓶を送って貰いそれを飲んでいることや、月に一度だけ禁じられた森へ狩りをしに行っている事を話した。流石に生理が原因だと言うのは躊躇われ、ただ酷い貧血を引き起こすのだと言葉を濁して。
 禁じられた森の話をしている時のサロウは、まさか君が一人で、とでも言いたげな怪訝そうな顔をしていた。きっと前に一度闇の魔術に対する防衛術で行われた決闘での、私の芳しくない戦績を覚えていたのだろう。しかしトロールを素手で投げ飛ばしたことがあると話すと、彼は思い当たる節があるのか納得したように頷く。
 こうして自分の正体を知る誰かがいて、自分の事を包み隠さず話すなんてことは初めてだった。やはり怖がられるのではという不安も少しあった。それでも自分の話を聞いて相槌を打つサロウの変わらない様子に新しいお菓子を食べる時の様なわくわく感で心が躍った。

「へえ、本当に君って見た目からは想像が出来ない腕っぷしの強さだな」

 そう言って彼は先程とはまた違い感心したように長く息を吐き、口角を片方だけ上げて笑った。その吐息が甘く鼻腔を擽る。全く勘弁して欲しい。彼といると一寸たりとも油断出来ない。それでも私はもう、いつの間にか喉の渇きを気にしなくなっていた。
 彼の笑った顔を見ていると、心臓の音がどくどくと耳の傍で鳴っているのかと思うほど煩くなる。じわりと何かが込み上げてきて、瞳を水の膜が覆う。この胸の底から湧き上がってくるものは一体何なのだろう。初めての友だちというわけでもないのに。それとも自分が吸血鬼のハーフだと知っている彼は、よりいっそう特別な友だちなのだろうか。

「どうして?」

 ぽとり、と牡丹の花が落ちるように自分の口から言葉が溢れる。
 どうして彼の匂いだけ一際魅惑的に感じるのか。他の人間の血を飲んだことが無いから比べようがないけれど、もしかして血も彼のものが特別美味しいのだろうか。どうして昨日も今日も突然動けなくなってしまったのか。どうして彼にはそうなる事が分かったのか。思わず口を突いて出た色んな意味を含んだ疑問の答えが私には分からない。

「どうかしたか?」
「いや、さっきの、動けなくなったのはどうしてだろうって思って」

 彼はまるで無垢なこどもを諭す先生のようなあたたかな眼差しで私を見返した。

「まあ、それは取り敢えず秘密にさせてもらうよ。なにせ自分の身を守る手段でもあるからな」

 どうやらこの先生は、そう易易と答えを教えてはくれないらしい。眉尻を下げ、引き結んだ口許。両腕を開いて手のひらを肩の横でひらひらと振り、首も左右に動かす。そのもったいぶったような態度に焦れったさを感じるも、彼の言う通りだと納得してこれ以上そのことに関して追求する事を止めた。種明かしをされたら私の意識がそれを乗り越えようとしてしまうかもしれない。何事もなく済んでいるのだから、確かに聞かない方が良いのだろう。

「じゃあ、貴方はどうしてあんな時間に寮を抜け出してたの?」
「・・・君とはもう門限破りの仲間だから教えるけど、僕は授業で教わらないような呪文も知りたくてさ、時々禁書の棚に忍び込むんだ」

 なるほどと受け入れかけて、何かが引っ掛かった。彼の人好きのする笑みから視線を下にずらすと、エメラルドグリーンとシルバーのネクタイが目に入る。彼はスリザリンの生徒だ。
 スリザリン寮はレイブンクロー寮の近くにある。明確な場所は知らないけれど彼らとは帰り道が重なることが多いので、何となく寮は近いのだろうと思って暮らしていた。だから図書館への道程も大して変わらないはずだ。
 そして昨晩の事が私の勘違いでなければ、彼は姿を消す手段を持っているに違いない。そんな彼が、寮と図書館を行き来する為にあの中庭を経由する必要があるのだろうか。

「それって随分遠回りじゃない?」

 口をついて直ぐに後悔した。もしかしたら彼も自分と同じように、他人に知られたくない事があるのかもしれない。私は彼の心做こころなしか強ばったように見える顔を目に止めて、言いたくないなら聞かないと、慌てて言葉を繋げた。

「いや、ごめん。君はきちんと話してくれたんだ、僕も話すよ」

 サロウは大して気にした素振りも無くそう言うと、欄干らんかんに両肘をついて身体を預け、そこから少しだけ身を前に乗り出した。彼にならうようにして隣に並ぶと例の中庭が見える。ちらほらと生徒の姿があるが、庭の中央にある筈のワイバーンの像は残念ながら天文学棟と図書館の別館を繋ぐ石橋に隠れてしまっていた。

「僕に双子の妹がいるのは知ってるだろ?」

 私は肯定の意味を込めてひとつ頷いた。彼の横顔をちらりと視線だけを動かして盗み見ると、ぐっと眉根を寄せて何かを堪えているような表情を浮かべている。欄干を握る手にも力が入っていて、先程の柔らかい雰囲気とは一変して怒っているようだ。

「何があったの?」
「アンは小鬼にのろいを掛けられたんだ」

 彼の口から紡がれた言葉が耳を通り抜けた瞬間、ぞわりと何かが背筋をゆっくりと這い上がってくるような不気味さを感じた。
 ホグワーツの外には闇の魔法使いや密猟者、ダグホッグなどの危険生物があちこちにいる。しかし私たち学生にとってそういった危険は無縁のものだと、どこか確証もなく思っていた。それがまさか小鬼に呪われただなんて。彼のことが信じられない訳では無かったが、ホグワーツ生が呪われたという事は、いまひとつ自分にとって現実味のない出来事だった。

「どの癒者に見せても治す方法が見つからなかったんだ。でも、だからって苦しんでる妹を前に何もせず放っておくなんて出来ないだろ」

 此方に問い掛けるようにして振り返った彼の真剣な眼差しを受けて、私はただ黙ってまたひとつ頷く。何と声を掛けたら良いか分からなかったのもあるけれど、一番は下手な慰めは不要だと感じたからだ。大丈夫だよそのうち良くなるから、なんて無責任な事を言いたくもなかった。
 口を閉じたままでいる私に、サロウは最近はもっぱら妹の呪いを解く方法を見つける為に禁書の棚に忍び込んだり、"ある場所"で気になった記述について研究したり試したりしているのだと教えてくれた。昨晩はその"ある場所"からの帰りだったとも(その場所は親友に教えてもらった、先生も気付いていないようなホグワーツの隠し部屋のひとつらしい)。

「・・・必ず見つけてみせる」

 最後のそれは自分に言い聞かせているような、普通なら聴き逃してしまう程の小さな囁きだった。

「ごめん、話を変えようぜ」

 そう言ったサロウの声は今までに比べて力がない。私はほんの僅かに漏れ出た心の憂いを垣間見た気がして、思わず視線を下に逸らしてしまった。こうして話すようになってからも、その前であっても、彼が笑ったり何かを企んでいたり、本を読んで考えに耽っていたりする姿が印象的で、悲しみや怒りといった感情を表に出している印象が無かった。もしかしたら彼はそれに気付かれたくなかったのかもしれない。
 居た堪れなくなり、どうにか話題を変えようと思考を巡らせる。幸い、直ぐに思い至ったのは先程も考えていたことだ。

「そういえば、貴方があの時突然目の前に現れたように見えたんだけど・・・もしかして透明マントを持ってるの?」

 魔法界の子どもなら誰もが馴染み深いであろう吟遊詩人ビードルの『三人兄弟の物語』というお話にも登場する透明マントは、被るだけで姿を消すことができる。私も小さい時寝る前によくお母さんに読み聞かせてもらった。もし透明マントがあったら何をする、なんて想像をしたりもした。
 透明マントは実際にも手に入る代物だけれど、三本の箒のバタービールが何十杯と飲めるほどの値段で、私達のような学生が易々と手に入れられるようなものではない。

「流石レイブンクロー、好奇心旺盛だな。質問が尽きないみたいだ」

 サロウの表情が弛む。私はその事に内心ほっとしたけれど、同時に彼の言葉尻の上がった調子の良い声色が此方をからかうようで、少し気恥ずかしい。
 
「目眩し術さ。マントほど確実じゃないが、あれは学生が気軽に買えるような物じゃないだろ?でも、呪文ならタダだからな」
「それって私にもできる?」
「ああ勿論。この呪文自体はそこまで難しいものじゃない、良かったら教えてやるよ」
「ありがとう、サロウ先生」

 私の軽口に乗り、教えるのは得意だよと胸を張ったサロウの自信ありげなカフェノワールが、木洩れ日を浴びて輝いていた。








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