掌握するカフェノワール

「うえっ・・・これって、こんなに美味しくなかったっけ?」

 週に一度両親から送られてくる鹿の血液が入った瓶詰め。新鮮なものに比べればやはり美味しいとは言えなかったけれど、今まではそれほど気にも留めずに飲んでいた。それなのに今日はただただ不味く感じる。鼻の奥がツーンとして目頭が熱くなり、一刻も早くこの異物の香りを身体から追い出そうとせんばかりに咳き込んだ。
 正直今日はもう飲みたくないけれど、そういう訳にもいかない。この輝かしいホグワーツ生活を血に染める事になるより何倍もマシだと自分に言い聞かせて一気にあおる。脈拍が下がり、浅くなっていた呼吸も落ち着いていく。
 陽がすっかり天辺てっぺんまで上り一人になった部屋で、壁に掛けられた鏡に向かい立つ。足元を見つめていた視線をそろりと上げて鏡を覗き混むと、いつも通りの私が映っていた。唇の隙間から覗く小さくて普通より鋭い歯はあっても瞳はあの血に塗れた怪物ではない。大きな溜め息がひとつ零れる。
 私は生まれてから今まで鹿や野兎といった草食動物の血液だけを飲んで生きてきた。黄金の瞳で居続けることはその証明でもある。
 人の血を吸うこと自体が明確に魔法界で禁止されているわけではないけれど、だからといってこの魔法界が吸血鬼に好意的かといわれれば決してそうではない。だから私は吸血鬼のハーフだということを隠してホグワーツに入学した。隠し続けるためには、私はこれを貫き通さなければならなかった。
 私はその全てを台無しにしてしまった。昨晩サロウの血を飲んだせいで赤く染まってしまった瞳の色を隠す為に午前中はベッドの上で過ごした。飲んだ血量が少なかった為に半日で済んだのだろう。同室の子達へ吸血衝動を抱く事も無かった。今日は休日で、同室の子にも以前から生理が重い方だと伝えていたから「ああ、あの日ね。折角のお休みだしゆっくり休んで」とそれ以上の追求が無かった事も幸いだった。もし布団を引っペがされ顔を見られていたら瞳の色が変化していた事に気付かれていたに違いない。
 ふと誰かが部屋の扉を優しくノックした。

「ティタニア、調子はどう?スリザリンのセバスチャン・サロウが貴女を呼んでるけど、断わろうか?」

 扉の向こうから此方を労わるように問い掛けてくる声は、同学年のサマンサ・デールというの女の子だった。彼女は弟がいるからかとても面倒見が良く、あまり血色が良いとは言えない私の事もよく気に掛けてくれている。サマンサが上げた人物の名前にどきりとしつつ、再度鏡の中の自分を見つめた。
 昨晩の出来事を思い出すと後悔と羞恥心が押し寄せるので、正直今彼に会うのは気が進まない。出来れば無かったことにしたいくらいだけれど、向こうが用があると言うなら自分は断れる立場では無いだろう。それにしても用件はなんだ。まさか心変わりして、私の正体をバラすとか、退学しろとか言われるのだろうかと不安が押し寄せてくる。自業自得だとは分かっているけれど、そもそもあんな時間に出歩いていたサロウにも問題があるのでは無いかと、半ば逆ギレのような感情まで込み上げてきてしまう。兎に角先延ばしにしたところで何も解決しないと、心を決めた。

「んーん、大丈夫。後で行くって伝えてくれる?」
「分かった。大階段に続く廊下前の踊り場のベンチに座って待ってるって」
「ありがとう、サマンサ」

 どういたしまして、という言葉と共に木の板を踏む音と彼女が纏う植物の香りが遠ざかって行く。
 トイレに行くついでに顔を洗い、部屋へ戻ってくるとクローゼットから適当なシャツとスカートを取り出した。パジャマを脱いでそれらに着替えると、杖を一振りしてネクタイを結ぶ。さらに一振りするとブラシが出現し、私の寝癖でボサボサになった髪の毛を丁寧にかしていく。
 瞼を閉じて思い出すのは、月明かりに照らされ私を挑発的に見上げていたあのカフェノワール。骨張った男の子らしい手が私の目元を優しくなぞる感覚が今もそこに残っている。首筋に触れた彼の熱い吐息の柔らかさ。甘さと切なさに疼き、高鳴る胸の鼓動。吸血鬼としての本能的なものの所為ではあったけれど、あそこまで男の子と至近距離で、しかも見つめ合うなんてようなことは初めてだった。

「よし、行こう」

 軽く身支度を済ませ、人もまばらの談話室を抜けてぐるぐると続く螺旋階段を下りていく。

「ちょっと良いか?」

 サマンサに教えてもらった通りレイブンクロー塔から大階段へと続く踊り場に出た所で、飛び込んでくるオレンジや林檎のような甘く爽やかな匂い。そしてどくりと一際強く脈打つ心臓。セバスチャン・サロウが本を片手に壁際に置かれたベンチに座って此方を見上げていた。頭上のランプから落ちる橙色の明かりを浴びて、榛摺はりずり色の髪がキラキラと輝いている。全身の感覚が研ぎ澄まされていくのが分かる。
 なぜ私はここまで彼の香りに惹きつけられてしまうのだろう。同室の子達が朝の身支度をしていた時も、サマンサが私を呼びに来てくれた時も、彼女達には今までと同じように接する事が出来ていたのに。喉の渇きなど一瞬足りとも抑えられない事など無かったのに。だからきっと大丈夫だと自分の中で油断している部分もあったのだろう。
 幾ら負い目があるからといって気にせず、体調が回復しないとでも言い訳を作って断るべきだったのだ、と早々に後悔し始めた。
 遠巻きにしていたとはいえ、今まで彼と同じ空間にいられた事が不思議だと思った。以前より彼の香りをより強く感じ取っている気がする。今からでも遅くない。彼に今後一切自分に近寄らない方が良いと忠告をしなければ。しかし口を開けば昨晩の二の舞になってしまいそうでどうすることも出来ない。
 その間にも本を閉じて立ち上がった彼はどんどんと此方に近付いてくる。サロウが一歩進むたびに起こる僅かな風が彼の甘い香りを運んできて、思わずごくりと喉が鳴る。今まで"食事"の後は何も気にせず過ごす事ができていたはずなのに。
 吸血衝動を抑えようとしていることなど知る由のない彼は、微動だにしない私に痺れを切らしたのか、眉に皺を寄せその大きな左手で私の右手をとった。私は慌ててこれ以上香りを吸い込まないように慌てて呼吸を止めるが、彼はそのまま歩き出し、来た道を戻って螺旋階段を更に下までくだっていく。
 階段を降り切った所でサロウが空いている方の手で目の前の扉を押しやると、冷たい風がびゅうっと横を通り抜けていった。風と共に木や草花の香りが流れ込んでくる。

「ここなら大丈夫か?」

 肩越しに向けられたサロウの此方を気遣うような視線に、彼は私が香りに当てられている事に気が付いて風通しの良い外廊下へと連れてきてくれたのだと分かった。

「あの、ありがとう。今までこんな事なかったんだけど、その、本当に昨日はごめんなさい」
「言っただろ?貸しひとつだって」

 身体を向かい合わせにしたサロウは口の端を釣り上げニヤリと笑う。けれど眼差しが思ったよりも優しくて、そこに憎たらしさは微塵も無かった。そう思ったのも束の間。

「君、人間の血は初めて?どうだった?僕の血は、」

───美味かったか?と身をかがめた彼の中低音が耳元に響く。面前に差し出された首筋。そこから感じる彼の温度に昨晩の出来事が鮮明に蘇り、頬が熱くなってくる。

「なっ、貴方って命知らずなの!?」

 近すぎる距離を取ろうと、両手を胸の前に掲げて彼の胸を押し返す。そしてすっと抵抗なく上体を元に戻したサロウを精一杯め上げた。
 根拠の無い脅しではないのだ。昨晩は気が逸れてたまたま口を離す事が出来たけれど、あれが無ければ私はきっとサロウの血を最後の一滴まで吸い尽くしてしまっていたに違いない。ああなってしまってはトロールにだって私を止めることは出来ないし、今の私自身にも止めることは出来ないだろう。昨日はたまたま運が良かっただけだと、彼に視線で訴えかける。
 しかし彼はクツクツと笑い声を洩らすだけで、全く怯む様子もなかった。

「ああ・・・笑ってごめん。でも僕は君がまたああなっても止められる自信があるぜ」
「自分でも制御出来ないのに、」

 そんなこと出来るわけない、という言葉を呑み込む。まともに話したことも昨日が初めてであるのだから、普通なら彼の言葉は尚更信じる事が出来ないだろう。それでもその自信ありげな表情を見ていると僅かな期待を抱いてしまう。本当にそんなことが出来るのかと好奇心が湧き上がって来る。

「どうだ、試してみるか?」

 そんな僅かな感情の揺らぎを読み取ったかのように、サロウが私の突き出した両手を掴んだ。彼の下がる視線、瞳を隠すカーテンのように並ぶ睫毛。何か企みを含んだ口元がそっと近付き、手のひらに触れるか触れないかのキスをひとつだけ落としていく。そこから伝わる熱が指先を甘く痺れさせ、ゆっくりじんわりと全身を巡っていく。柔らかなシダーウッドの香りに心臓が波打った。彼の香りは複雑で、とても魅力的だ。喉がまた渇いてきてしまう。
 しかし瞬きの間に彼はそっと離れていき、再び私の目の前に真っ直ぐと佇んだ。

「ほらな」

セバスチャン・サロウが言った通りだ。私は彼の挙動から目を逸らすことも出来ず、指一本でさえ動かすことができなかった。








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