焦がれる

 新学期が始まってからも、僕はルームメイトが寝静まった後に寮を抜け出して禁書の棚に忍び込んでは、目に付いた本を手当り次第物色するという日々を過ごしていた。けれどそれもサラザール・スリザリンの書斎で見つけた彼の手記を手にしてからは目的が定まった。彼からは学ぶことが多い。その思想等から現代の魔法界では敬遠される事も少なくは無いが、闇の魔術も使い方を間違えさえしなければ大いに役に立つ。寧ろ小鬼に掛けられた呪いを解く手段としては一番有用とさえ思えた。僕は彼の手記に記された内容を元に、気になる点があればそれについて書かれていそうな本を探すという作業を繰り返していた。
 ただ、僕のような生徒をチクるのが大好きなポルターガイストのピーブズに見つからないようあまり長居はできなかった。そもそもゴーストには目眩し呪文は効かないし、どれほど気をつけていても壁をすり抜け音もなくやってくるのだから、今まで片手で数えられるくらいは見つかってしまっていた。ピーブズ自体が喧しくて面倒な存在である事は勿論、奴は必ず司書長のスクリブナーに言い付けに行くし、そうなればすぐさま副校長のマチルダ・ウィーズリーにまで伝わって翌朝には罰則が与えられる。反省文を羊皮紙一巻き分とか男子トイレ掃除などその内容は様々だが、どれも面倒臭い事に変わりはなかった。
 図書館を出て見張りの監督生たちと距離を取りながら音を立てないように廊下を歩く。このまま寮に戻ろうかと思ったところで、寮のある方向から男子生徒の叫び声がして、その叫び声に重なるようにしてゲラゲラとピーブズの下卑た笑い声が聞こえてきた。どうやら奴は我らがスリザリンの優秀な先輩にちょっかいを出しているらしい。このまま行けば絡まれるのは間違いないと考えた末に踵を返し、暫しの避難先として別の場所を目指すことにした。



 キリキリと歯車の回る音と、錆びた鉄の扉がギイギイと喧しい音を立てながら閉まる。地下聖堂の天井からは燭台が垂れ下がっており、薪が橙色の炎を宿している。どうやらこんな時間に先客がいるらしいと知って直ぐに思い当たる人物が一人。僕には一人、規則破りの友人がいた。

「こんな時間まで勉強とは、随分と熱心だね」

 からかうように、古い木製のベンチに座り壁に凭れ掛かる影に声を投げ掛ける。しかし返事はなく、代わりのようにその手元からどさりと重量を感じさせる音をたてて本が一冊滑り落ちた。それは石畳の上に横たわったままで一向に拾われる気配はない。
 もしやとゆっくり人影に向けて歩みを進めると、近付くにつれて薄暗い中にぼんやりと浮かんでいた影の輪郭がはっきりとしてくる。我らがスリザリンとは一番関わりが薄そうな、カナリアイエローを身に纏った少女、オリヴィア・ホワイトは今年僕たちが五年生になった年からホグワーツへやってきた転入生。無類の甘いもの好きで、普段は比較的落ち着いて大人びた印象を受けるのに、ハニーデュークスへ行くと小さな子どものようにはしゃぎ輝く瞳も、今はすっかり瞼の下だ。

「こんなところで寝てたら風邪引くぞ」
「んー…せばす、ちゃん? ふふ……」
「おいおい…」

 寝惚けているのかと思ってそれから二、三度呼び掛けてみても彼女から反応が返ってくる事は無かった。僕が入ってくる時の音でも起きなかったくらいなのだから眠りは深く、暫くは目を覚まさないのだろう。しかし壁を背もたれにして俯く姿はとても寝心地が良さそうには思えなかった。

 彼女と初めて話したのは、闇の魔術に対する防衛術の授業で行われた決闘だった。
 魔法界にあまり馴染みがなかったと聞いて、決闘慣れはしていないだろうと思っていた。けれど壇上で杖を構える彼女の視線が鋭くなったのを目前にして、僕は杖を握り直した。彼女は到底素人とは思えない動きで攻防を繰り広げ、接戦の末に負けてしまった。久々の敗北に心が沸き立ったのを覚えている。
 規則に真面目なハッフルパフなら、見つかったら罰則が与えられるようなものには興味が無いかとも思ったが、授業後話しかけてくれた彼女を杖十字会に誘うと、それが学生たちによる非公式の決闘クラブと知るやいなや蜂蜜色の瞳をきらりと輝かせて「必ず行く」と言った。
 彼女とは上手くやっていけそうだなと思ってから、正にこうして順調に関係が続いている。

「…ごめん」

 届きもしない謝罪を述べ、彼女の顔に掛かっていた髪を手の甲で掬い耳に掛ける。十分に睡眠を取れていないのか、閉じられた目元には薄らと隈が浮かんでいた。ただでさえ白い肌は、隈があるせいで青白く少し窶れている様に見えてしまう。
 今年はOWL試験が学年末に控えている。それもあり、彼女はいままでの遅れ分を取り戻すためにも各授業の先生から追加課題をたっぷり出されていると聞いていた。彼女が眠りこけている傍らの小さな木のテーブルの上には、その課題らしき紙の束がどっさりと積まれている。大抵は図書館や自分の割り当てられた寮の部屋で取り組んでいるようだったが、たまの気分転換にこの地下聖堂も利用しているようだった。
 加えて彼女は古代魔術関連で魔法理論のエリエザー・フィグ教授の遣いと称して郊外へ出掛けることも屡々あるらしい。普段は授業態度も良くハッフルパフ生らしく公正で堅実に過ごしいているように見える彼女も、それが原因でウィーズリー副校長に目を付けられている。同寮の女生徒が目付け役になっている事も度々あった。
 彼女に負担を掛けているのは試験や魔法理論の教授だけではない。何人かの生徒が彼女に頼み事をしているのを見かけた事があるし、僕自身もその一人だった。途中編入とはいえ流石ハッフルパフ生と言ったところか、誠実で争い事を好まず(この場合決闘の類ではなく友達同士の口喧嘩のようなもののこと。)、親身に此方の話を聞く彼女の姿に大抵の人間は色眼鏡を捨てて好感を抱くことだろう。
 妹に掛けられた呪いを解く方法を探す為にサラザール・スリザリンの書斎へ入る時、必要に駆られて彼女に対して許されざる呪文のひとつに定められているクルーシオを放った。お互い同意の上、死ぬ事は無いと分かっていた。しかし呪文を受けた彼女の今にも息絶えそうな程苦しげな呻き声を聞いて、僕はその身悶える姿を瞬きもせず瞳に焼き付けていた。あったのは彼女を傷付けた事に対する大きな罪悪感と、だからこそ忘れてはならず、なんとしてでも収穫を得なければならないという使命感。そしてある種の高揚感が、その時の僕を突き動かしていた。
 僕は自分の着ていたローブを脱ぎ、厚みが出るように小さく折り畳むとベンチの端に置いた。そして少し躊躇った後、彼女の背中にそっと腕を回すと畳んだローブを枕代わりにしてそこへ横たわらせる。抱え込んだ彼女から布越しに仄かな温かさが伝わって、ふわりと花のような甘やかな香りが鼻腔を擽る。それらは指先からじわりじわりと身体が解れていくような、優しいものだった。
 傍に脱ぎ捨ててあった彼女のローブをブランケット代わりにその身体へと掛けてやる。枕にするよりは皺にならないだろう。体勢が楽になったからか、いくらか表情も和らいだように見える。
 隠し部屋とは思えない程の広さを持つ地下聖堂は、天井の燭台だけでは照らしきれず部屋の隅は暗くて分からない。
 この場所を知るもう一人である僕の親友は、書斎での一件があってからより一層僕に対する小言が増えた。だからといって、ただ禁書の棚に忍び込みに行っただけの友人がちょっと帰って来ないからといって態々こんな時間に探しに出歩く事はしないだろう。ここには監督生も教授も、あのピーブズだって来やしない。このまま寝過ごしてしまったって罰則を受けることも無いだろう。それでも見つけてしまった以上はこのまま一人放って寮へ戻る気にもなれない。せめて彼女が起きるまではと、僕は足元に落ちていた本を拾い、彼女が寝そべるベンチの縁に寄り掛かるようにして石畳の上に腰を下ろした。
 本の頁を捲る音と、パチパチと薪が弾ける音。そして背中から微かに聞こえてくる彼女の穏やかな寝息。
 そうして幾らかあまり長くは無い時間が過ぎた後、背後でもぞもぞと動く気配がした。目が覚めたのだろうかと、手にしていた本を傍に置き、ベンチの空いている部分に右手をついて振り返る。彼女の瞼は降ろされたままだった。けれど薄く開いた唇の端が僅かに上がり、ふふ、と今にもまた彼女の笑い声が聞こえてきそうだ。
 何か幸せな夢でも見ているのだろうかと、思わず空いていたもう片方の手が伸びる。滑らかでふわふわと柔らかい頬は僕の手のひらに吸い付いて、彼女の体温が先程よりも直に伝わってくる。指先が彼女の耳の出っ張ったところに触れる。すっと横に滑らせ目元の小さな黒子を撫でると、未だ伏せられている綺麗に生え揃う睫毛がふるりと震えた。
 彼女と僕は恋人などという間柄ではない。それいなのに許可もなく、ましてや寝ている女の子に勝手に触れるなんてと、どこかから僕の行いを咎めるような厳しい声が聞こえてきそうだ。しかしそうと分かっていても彼女の頬から手を離す気にはなれなかった。
 少し前から時々理性的でいられなくなることがある。これがアンの呪いを解く方法を一向に見つける事が出来ないでいることに対する焦りからくるものなのか、はたまたオミニスが言っていた闇の魔術を使った事による副作用のようなものなのか、今の僕には分からない。それに、分かっていたところできっと僕の進む道は変わらないだろう。

「ん…くすぐっ、」

 ふと彼女がくすくすと笑い声を零しながら僕の手から逃れるように首を竦める。手のひらが離れ指先が頬の上を滑ると彼女はさらにくすぐったそうに身を捩らせた。相変わらずその瞼は閉じたままだったが、意外と彼女は寝言を言うタイプらしい。きっと僕の手をいつか彼女が紹介してくれたニフラーという生物か何かと勘違いしているに違いない。あまりにも幸せそうな表情をしたまま目を覚さないでいる彼女に、むずむずと自分の中の悪戯心が湧き上がってくる。
 彼女に向ける感情に、触れたいという欲が加えられたのはいつからだろう。
 それこそニフラーを紹介してくれた時の春の陽射しの様な笑顔を見た時だったかもしれないし、決闘や禁じられた森で一緒に蜘蛛やアッシュワインダーズを相手に戦った時の真剣な眼差しに惹かれたのかもしれず、或いは三本の箒でバタービールを飲んだ時などに上げる嬉しそうな声が心地良かったのかもしれない。そうやっていつからを考え出せばキリがないが、つまりきっかけは幾らでもあったのだ。
 親指の腹を彼女の薄いピンク色をした唇の上にすうっと滑らせた。少し力を加えると、ふに、とした柔らかい感触がして心地良い。次に、薄く開いた隙間から覗く並んだ白い歯の上を親指の先でなぞる。先程とは真逆の硬さを感じる。それでも彼女は起きなかった。ここまでして起きないのであれば、もしこの唇を奪ったって気付かないのではないだろうか。そういった邪な感情が顔を覗かせる。

「うう、ん」

 少し苦しげでくぐもった声がして、僕は弾かれたようにさっと手を引っ込めた。流石に度が過ぎた。あの書斎の扉の前で、冷たい床の上に呻き声を上げて蹲っていた彼女の蒼白した顔面を思い出す。二度と彼女に同じような思いをさせてはいけない。僕が好きなのは幸せに溢れる明るい蜂蜜色の瞳だ。

「ごめん、オリヴィア」

 自分の気を鎮める為だけの謝罪を述べる。声に出す事で余計に効果がある。
 そして放置していた本を手に取って再びベンチの縁に背を預けた。少しすると彼女の穏やかな寝息が聞こえてくるが、もう後ろを振り返ることはしない。
 あの光の結晶のような美しい瞳が現れる時を待ち侘びながら、僕は本のページを捲った。








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